「自転車で行ける範囲の冒険」

かざみさん

「自転車で行ける範囲の冒険」

春は、始まりの季節だと言われる。

けれど中学三年の春は、僕にとって「終わりの余韻」みたいなものだった。


卒業式はもう終わり、教室は空っぽで、机も椅子も消えている。

ついこの前まで、あそこに座っていたはずなのに、と思うと不思議だった。

四月に入っても、まだ制服を着る実感が湧かない。

高校生になるという事実は、紙の上では確定しているのに、気持ちは追いついていなかった。


朝起きると、窓の外で鳥が鳴いている。

風は少し冷たいが、陽射しは確実に春のものだった。

桜は満開を少し過ぎて、花びらが道路に落ちている。


「暇だな」


声に出して言ってみる。

返事はない。


春休みは長い。

友達と遊ぶ日もあるが、毎日というわけではない。

受験が終わった反動で、何かを頑張る気力も出なかった。


その日、玄関に置いてある自転車が目に入った。

中学三年間、毎日のように使っていた自転車。

通学路、部活、コンビニ、友達の家。

僕の行動範囲は、ほとんどこの自転車が決めていた。


――これで、どこまで行けるんだろう。


春の風に背中を押されるように、そんなことを思った。


電車に乗るほどの用事じゃない。

遠くへ行きたいわけでもない。

ただ、知らない場所を走ってみたかった。


翌朝、少し早く目が覚めた。

台所では母が朝ごはんを作っている。


「どこ行くの?」


靴を履きながら聞かれる。


「ちょっと、遠回り」


それは嘘でもあり、本当でもあった。


「お昼までには一回連絡しなさいよ」


「はーい」


そのやり取りが、やけに大人びて感じられた。


ペダルを踏む。

春の空気は軽く、鼻の奥が少しくすぐったい。

道路脇にはまだ残った桜の花びらと、新しい雑草が混じっている。


最初は、いつもの道だった。

中学への通学路。

もう通うことのない校門。

少し胸がぎゅっとなる。


でも、いつもの角を曲がらず、直進する。

それだけで、知らない景色が始まった。


古いアパート。

名前の知らない店。

ゆっくり流れる小さな川。


「こんな場所、あったんだな」


世界は、思っていたより広かった。


しばらく走ると、道が二手に分かれた。

左は大通り。

右は細い道。


迷わず右へ行った。


理由はない。

ただ、そっちの方が楽しそうだった。


坂道が増え、息が少し荒くなる。

途中、チェーンがガタンと音を立てて外れた。


「……マジか」


自転車を倒し、しゃがみ込む。

春とはいえ、太陽は意外と強い。

手が油で汚れる。


それでも、不思議とイライラしなかった。


「こういうのも、悪くないな」


独り言を言いながら、何度もチェーンをかけ直す。

成功したとき、ちょっとした達成感があった。


走り出すと、町の雰囲気が変わった。

住宅街が途切れ、畑が増える。

土の匂いが濃くなる。


遠くに山が見えた。

海に行きたいと思っていたはずなのに、なぜか山に向かっていた。


「まあ、いいか」


予定なんて、最初からなかった。


坂を越えた先で、道に迷った。

地図はない。

スマホも見ない。


迷子になる感覚は、思っていたより怖くなかった。


途中、小さな売店を見つけた。

ベンチに座っているおばあさんがいる。


「すみません、水ありますか」


声をかけると、冷えたペットボトルを渡してくれた。


「どこから来たの?」


「えっと……あっちの方です」


曖昧に指をさすと、おばあさんは笑った。


「春だねえ」


それだけで、全部伝わった気がした。


水を飲み、少し休んでから再び走る。

風が強くなり、花びらが舞っている。


やがて、視界が一気に開けた。

田んぼが広がり、まだ水が張られていない。

遠くで、電車の音がした。


夕方が近づいている。

そろそろ帰らなきゃいけない。


自転車を止め、空を見上げる。

夕焼けに染まりかけた春の空は、柔らかい色をしていた。


「来てよかったな」


そう思えたことが、何よりだった。


帰り道は、なぜか迷わなかった。

来た道を完全に覚えているわけじゃないのに、体が勝手に動いた。


家に着くと、母が玄関にいた。


「遅かったじゃない」


「うん。でも、大丈夫」


それ以上の説明はいらなかった。


その日から、僕は何度も自転車に乗った。

同じ道はなるべく通らず、知らない道を選んだ。


失敗もした。

疲れもした。

でも、全部が少しずつ、自分の中に残っていった。


春が終わる頃、桜はすっかり散っていた。

高校の制服が届き、部屋にかけられている。


ある日、いつものように自転車を止め、ふと思った。


遠くへ行くことが、冒険じゃない。

戻ってこれる場所があるから、遠くへ行ける。


自転車で行ける範囲は、相変わらず狭い。

でも、その中には、まだ知らない春がたくさんあった。


ペダルを踏む音が、少しだけ心強く感じられた。

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「自転車で行ける範囲の冒険」 かざみさん @kazaminsan

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