優しすぎた選択
青空一夏
返却期限
その日は、朝から天気がよかった。雲ひとつない、というほどでもないけれど、雨の心配をする必要はなさそうな空だった。
休日にしては少し早く目覚める。キッチンから聞こえる物音に顔を出すと、玲奈がもう支度を始めていた。僕のマンションで一緒に暮らすようになって、生活の音にも慣れてきた。愛する彼女の気配を感じるのは、素直に嬉しい。
「まだ時間に余裕あるのに、今日は早いね」
声をかけると、玲奈は振り返って笑った。
「分かってる。でも、今日は早く行きたいわ」
僕がクリスマスにプレゼントしたスモールジョディのバッグ――派手じゃないのに、手に取ると上質さが分かるそれに、ハンカチや財布を詰める。そして、スマホを手に取っては画面を確認し、またバッグにそっとしまっては、取り出す。
「ねぇ、見て。ちゃんと取れてるわよね?」
差し出された画面には、ライブのチケットの整理番号。画面の明るさは最大になっていて、玲奈はもう一度、番号を確認する。
「うん、大丈夫だよ。心配性だなぁ」
そう答えると、玲奈はほっとしたように息をついた。
「だって、私、ちょっとそそっかしいでしょう? 今日はどうしても行きたかったの。付き合ってくれてありがとう。一緒に行けて、本当に嬉しい」
無邪気に声を弾ませて、楽しみを抑えきれていないのがわかる。エントランスを抜ける際、いつものコンシェルジュがこちらに気づき、「山口様、いってらっしゃいませ」と低く声をかけた。
駅へ向かう道は、すでに人が多かった。週末のざわつきが、空気に混じっている。人の流れに合わせて並んで歩きながら、玲奈は何度もスマホを確かめていた。
――その時だった。右側から、急に影が飛び込んできた。
「危ない!」
声を上げた瞬間、人の流れを縫うように走ってきた自転車が、玲奈にぶつかった。身体が前につんのめり、僕はとっさに腕を伸ばしたが、勢いまでは止めきれなかった。玲奈は膝と手のひらをついて転ぶ。次の瞬間、頭が前に傾き、額が舗道に軽く当たる音がした。小さく息を吸う音がして、そのままゆっくりと立ち上がる。
「……玲奈……大丈夫か?」
「うん。びっくりしただけよ」
そう言って、額に手を当てた。赤くなっているだけで、血は出ていなかった。自転車は急ブレーキをかけ、前輪を少し横滑りさせて止まった。乗っていた男が慌てて降りてきて、何度も頭を下げる。
「すみません、大丈夫ですか? 前をよく見てなくて……本当にすみません」
周りの人も足を止めて、口々に声をかける。
「頭、打ってない?」
「救急車、呼んだ方がいいんじゃない?」
そのたびに、玲奈は小さく首を振った。
「平気です。本当に大丈夫なので……」
そう言いながらも、額に当てた手はなかなか離れなかった。少しだけ指先に力が入っているのが、近くにいる僕には分かる。
人の流れは、すぐに元に戻り始めた。週末の駅前は、立ち止まることを許してくれない。さっきまでのざわつきが、何事もなかったように戻っていく。自転車の男がもう一度頭を下げ、足早に去っていく。残された僕たちは、通りの隅に立ち尽くしたままだった。心配する僕に、玲奈は柔らかく微笑む。
「平気よ、海斗」
それでも僕は、彼女に提案した。
「頭を打ったのはまずいよ。病院へ行こう。救急外来なら、今からでも診てもらえるはずだ。ちょっと調べるから……」
そう言った瞬間、玲奈の顔が一瞬だけ引きつった。携帯で病院を検索しようとする僕の袖をつまみ、泣きそうな表情で懇願する。
「嫌よ。今日だけは我が儘を言わせて! 本当に何ともないし、コンサートに行きたいのよ」
「でも……君の体の方が大事だよ」
「お願い……明日、病院で見てもらうから。だって、ずっと楽しみにしていたのよ。大丈夫。私、体だけは丈夫なんだから……」
可愛い彼女のお願いを、僕は拒めなかった。愛しているから、悲しませたくなかった。今日は、玲奈の大好きな歌手のコンサートだ。僕たちが大学に入った年にデビューした歌手だった。初期の頃は両思いの明るい恋の歌ばかりだったはずなのに、いつの間にか、置いていかれる側の気持ちを歌う切ない曲調が増えていた。
「私が一番しんどかった時期、この人の歌をずっと聞いていたわ。大学時代に両親を事故で亡くした時も、この人の歌が支えになったの」
「分かったよ。でも、明日には絶対、マンションの近くの救急外来対応病院へ……」
「えぇ、わかったわ。とにかく今日は楽しみましょう。早く、行きましょうよ」
玲奈に急かされて、そのまま僕たちはコンサートへ向かった。会場に足を踏み入れると、開演を待つ人々のざわめきが、天井の高い空間に満ちていて、期待と熱気が混じった空気が肌に触れる。
ほどなく照明が落ち、場内が一瞬だけ静まり返った。次の瞬間、最初の音が鳴り、低音が床を震わせる。その振動が足元から伝わってきた刹那、玲奈は息を呑んだ。
気づけば、隣で何度も跳ねるように手を振っていて、頬が赤くなっていた。歌に合わせて口元が動いているのを見て、ああ、本当に好きなんだなと思った。
◆◇◆
玲奈はそれっきり僕の前から姿を消した。今も、部屋の様子は何一つ変わっていない。ソファの位置も棚に並んだ本も食器棚の中身も、当時のままだ。違うのは、そこにいたはずの玲奈だけがいないこと。
朝になると無意識に二人分のマグカップを出しそうになり、使われないままの歯ブラシが洗面台の隅に残っていることに気づく。習慣だけが、行き場を失って部屋に留まっていた。
あれ以来、頻繁にスマホを覗くことが増えた。もしかしたら、玲奈から連絡が来ているのではないか、と期待した。
夜、風呂上がり。何も通知が来ていないのに画面を開く。LINEを開いて最後の会話を確認する。コンサートの前日以来、更新されることのない会話。
LINEのアイコンはそのまま十年変わらない。今でもたまに、既読にならないのを知っていて送ってしまう。
(玲奈から嫌われてしまう決定的なことをしてしまったんだろうか?)
身に覚えは少しもなくて、玲奈のことを考えると、まるで出口のない迷路に迷い込んだように頭を抱えてしまう。
何の気なしに指で画面を滑らせていると、同級生たちの投稿が流れてくる。赤ちゃんを抱いた写真だった。
「家族が増えました」
短い言葉と、笑顔。画面を閉じても、その輝くような笑顔が残る。彼らは、ちゃんと先に進んでいる。玲奈ならこう言っただろうな。
「かわいいわね。このぷくぷくしたほっぺを触りたくなっちゃう」とか。
僕の記憶の中の玲奈は、明るくて子供好きで、物事を深く考えない。歯医者の予約をよく忘れてペロリと舌を出す。
「まあ、なんとかなるでしょ。電話して予約を取り直せば大丈夫よね」
僕がきっちりしすぎているところもあって、彼女のゆったりしたところが癒しだった。
(今はちゃんと予約を守っているんだろうか?)
同棲していた頃は、よくスマホを僕に見せて困った顔をした。
「ねえ、これ見て。なにか私、買ったっけ? 覚えがないんだけど……」
差し出された画面には《重要なお知らせ》《至急ご確認ください》――そんな言葉が並んでいた。
「なにか……怖いわね。支払いがどうとか書いてあるんだけど……あとね、アマゾンから買った覚えがない荷物が……」
玲奈は眉をひそめながらも、本気で心配している。
僕は画面を一目見て、ゆっくりと首を振った。
「それ、典型的な詐欺だよ。触らない方がいい」
「え、そうなの?」
「ほら、差出人のアドレス。公式じゃないし、文面も雑だろ? 日本語がおかしいじゃないか」
そう言って指で示すと、玲奈は画面をもう一度見直した。
「……あら、ほんとだわ。全然気づかなかった」
「こういうのは、焦らせて考えさせないのが手口なんだよ」
「なるほど……怖い世の中ね」
玲奈は感心したように頷いてから、少し照れたように笑った。
「やっぱり、こういうのは海斗に相談するに限るわね」
何事もなかったように、建築家がモダンデザインについて静かに語る動画を見始めた。僕は内心で、ほっと息をついた。どこか危ういところがある彼女だから、自分が守ってあげないと、と思う。
彼女はいつも僕を頼る。それが当たり前だと思っていたし、幸せだった。過去の何気ない日常の日々が僕の心を締め付ける。
◆◇◆
ある日、僕のスマホに一通のメールが届いた。行政からの通知だった。
【返却のお知らせ】
登録されている返却期限が到来しました。
返却を希望される場合は、以下より手続きを行ってください。
(何だ、これは……?)
内容はよく分からなかったが、行かない理由も思いつかなかった。指定された日時に区役所を訪れる。受付で番号札を取り、硬い椅子に腰を下ろした。周囲には高齢者が多く、書類を抱えて神妙な顔で待つ人や、無表情でスマホを眺めている人がいる。 風景はいつもと変わらない。
電子音が鳴り、番号が呼ばれた。窓口の職員は淡々とした口調で言う。
「御本人確認をお願いします」
マイナンバーカードを差し出すと、確認した職員は一度だけ頷き、無言で奥の部屋を示した。案内されたのは、小さな個室だった。簡素な椅子と机。余計なものは何もなく、壁は一様に白い。病院の処置室によく似ている。
「こちらにお掛けください」
感情の起伏を感じさせない声だった。指示されるまま椅子に座ると、ヘッドレストが装着される。
「数分で終わります」
それだけ告げて、職員は手際よく準備を進める。説明はない。こちらの反応をうかがう様子もない。部屋は静まり返っていた。機械の駆動音すら聞こえない。
映像が流れてくる。頭の中で再生された場面は、コンサート会場からの帰り道だった。夜風に冷えた頬を少し赤く染めながら、玲奈は楽しそうに、僕の指に自分の指を絡めてくる。
「すごかったわね。やっぱり生で聴くと、全然違う」
「玲奈が楽しめて良かったよ。また一緒に行こうな」
そう答えると、玲奈は満足そうに頷いた。二人で他愛もない感想を交わしながら、並んでマンションへ戻る。
エントランスに入ると、いつものコンシェルジュがこちらに気づき、穏やかな声で言った。
「おかえりなさいませ」
僕は軽く会釈し、玲奈はにこやかに笑って応えた。
次の場面では、キッチンに柔らかな照明が灯っている。エプロンをつけた玲奈が、カウンターに立っていた。白身魚に軽く塩を振り、オリーブオイルをひいたフライパンで焼き色をつけている。その横で、同じフライパンでアスパラガスとミニトマトをさっとソテーし、仕上げにレモンを絞った。温められたオリーブオイルと野菜の香りが、キッチンにふわりと広がる。
「今日は、軽めがいいと思って」
そう言って、玲奈は微笑む。カウンターには、ハーブを散らしたサラダと、バゲット、それから白ワインが一本、すでに開けられていた。
「いい匂いだね」
「でしょう。座ってて。すぐできるから」
僕はテーブルを拭き、カトラリーを並べて、グラスにワインを注ぐ。
そのときだった。ガシャン、と音が響いた。
「……玲奈?」
思わず声を上げて駆け寄った。フライパンが床に落ち、オイルが跳ねている。そのすぐそばで、玲奈が倒れていた。呼びかけても反応がない。目を閉じたまま、身動きもしない。
「玲奈! しっかりしろ! 大丈夫か?」
返事はない。僕は震える手でスマホを取り出し、救急車を呼んだ。その後のことは、ひどく静かだった。
病院の白い廊下。
カーテンの向こう。
低い声。
「……残念ですが……」
それだけで、十分だった。医師の腕を掴む。
「……どういうことですか? さっきまで普通に……」
「落ち着いてください」
「原因は? 何が起きたんですか……彼女はさっきまで料理をして笑っていたんだ」
医師は一瞬、言葉を選ぶように視線を伏せた。
「ご家族の方は?」
「……いません。玲奈の両親は、大学の頃に亡くなっています。一人っ子で、天涯孤独の身でした。来年、僕たちは籍を入れるつもりでした」
そう伝えると、医師は一瞬だけ言葉に詰まり、小さく息を吐いた。
「……申し訳ありません。現時点でお話しできるのは、限られています」
「お願いしますよ。教えてください」
しばらく沈黙が落ちる。やがて医師は、静かに問いかけた。
「今日、転倒したり、頭を強く打った覚えはありませんか?」
医師の問いに、僕は一瞬、言葉を失った。
「……コンサートに行く前に、自転車とぶつかって……転びました」
そう答えると、医師は小さく頷いた。
「あぁ……多分、それですね」
その声は淡々としていて、感情は読み取れない。
「その時は軽く見えても、頭部への衝撃は、あとから症状が出ることがあります。特に……」
言葉を区切り、医師は続ける。
「時間が経ってから、急激に状態が悪化するケースも、珍しくありません」
僕の喉が、ひくりと鳴った。
「……すぐに医者に診せていれば助かった可能性は、あったということですか?」
自分の声が、ひどく遠く感じられた。
医師は、すぐには答えなかった。ほんの数秒だったはずなのに、その沈黙はやけに長く感じられた。
「……確実に、とは言えません。ですが、可能性は……あったでしょうね」
やがて、慎重な口調でそう言った。
それ以上の言葉はなかった。慰めも、断定もない。ただ、事実だけが、静かに置かれた。
――ああ、そうか。
そこまでの記憶を受け取った瞬間、点だった出来事が一本の線につながった。玲奈はもう、とっくにこの世からいなくなっていたのだ。僕が、もっと強く言っていれば。彼女の「大丈夫」を、そのまま受け取らず、病院へ連れて行っていれば。説き伏せてでも、後から恨まれようとも、連れて行ってさえいれば……
費用のことなら、なにも問題はなかった。週末でも診てくれる病院を探すことも、検査や最善の治療を受けさせることもできたはずだった。それなのに、僕は彼女の願いを尊重したつもりで、最悪の選択肢を選んでしまった。
(コンサートなんて、命があれば、またいくらでも連れて行ってあげられたのに……)
「また一緒に行こう」と言った、その“また”が、こんなにも遠い言葉になるなんて、考えもしなかった。
亡くならないで済んだかもしれない命。
その可能性がほんのわずかでもあったということが、胸の奥に静かに、しかし確かに突き刺さる。取り返しのつかない選択だったのだと、あのとき受けた衝撃に、僕は耐えきれなかった。
――だから、記憶を預けた。
すっかり忘れてしまえば、生きられると思ったのだ。あれから十年が経った。そして今、記憶を取り戻した僕は、奇妙な安堵を覚えていた。
もう、玲奈が歯医者の予約を忘れていないかと気を揉むこともない。
詐欺メールに騙されていやしないかと、心配することもない。
自分が嫌われたのではないか、何か決定的なことをして振られたのではないか。
そんなふうに、自分を責め続ける必要も、もうない。
悲しみが消えたわけじゃない。
後悔が薄れたわけでもない。
だが、十年のあいだ、彼女を案じ続けることで擦り切れていた心が、ほんの少しだけ、息をつける場所を見つけた気がした。
外に出ると、夕焼けが街をゆっくりと染めていた。
低い雲の縁が、橙色に染まり、ビルの影が長く伸びる。
一日の終わりを告げる光は、やけに静かで、やけに綺麗だった。
玲奈の笑顔を思い浮かべ、マンションに帰る。
胸の奥の痛みは、相変わらずそこにある。
それでも今日は、なぜか――眠れない夜が、少しだけ短くなりそうな気がした。
優しすぎた選択 青空一夏 @sachimaru
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます