ケース・ハルシネイト
哀
常春の終焉
──水。
どこまでも続く青一面の世界の中。動物が到底太刀打ちできない圧倒的な力の前で、成す術もなく揺蕩っている。
息ができなくて水泡を吐き出しているのか、水泡から自分が生まれているのかわからなかった。
無から有が生み出され、不要と判断されれば無に戻り、そうしてひとつの形をなしていく。
アポトーシス、という言葉を思い出した。最大多数の幸福のための自滅。ならば消えるべきはどの細胞だろうか。
それとも──……それは全てで。はじめから自分は、生まれるべきではなかったのか。
見上げた水面に無機質な数字がいくつも透かされては、消えていく。
あるはずのない記憶の中で、一人きりの少女が笑っていた。よく澄んだ瑪瑙のような虹彩を、痛いほどに輝かせて。
*
東京から上越新幹線に乗ってやってきた「王子様」は、スッカリ玉座を手中に収めている。
クラスメイトのくだらない冗談に微笑む、つくりものの様な笑顔。視界に映るすべてが憎らしくて、たまらず視線を外に投げやった。
「彼がそんなに気に入らない?」
「……別に」
「ふふ、ここのところめありは不機嫌続きだね?」
「……」
形の良い小さな鼻先でクスリと笑っている。不機嫌になるべきはそっちだろう、とは言えなかった。言ってもどうにもならないし、敢えて口に出すのは禁忌のようで憚られたから。それはきっと目の前の親友にとっても同じことで、だから二人とも何も言わないでいる。
それが許されるのも、同じだと理解できるのも、彼女と自分だからだろう。
──薫子の机には、今日も菊が供えられている。
何度も片付けようと抗議したが、彼女はその生来の呑気な気質で「このままでいいの」と笑っていた。こういうときの彼女の笑みは、本人より私の方が腹を立てているのではないかと思うほど朗らかで、春日の木漏れ陽の様にうつくしい。
そんな薫子の笑顔が好きだった。
「早く来年になればいいのに」
「でもそしたら、わたしとめありも別のクラスになっちゃうかもよ?」
「それは無いでしょ。なったことないし」
「なんでだろうね~~。嬉しいからいいけど!」
飛びついてくる親友が子犬のように愛らしくて、思わずぎゅっと抱きしめる。
「こんなクラス、すぐ忘れられるよ」
「クラスが悪いんじゃないよ。こういうのは順番」
「だとしても、薫子に回ってくるべきじゃないから。何もしてない。ただ怪我で少し休んだだけなのに」
「……おぉ? 怒ってくれるんだ?」
「薫子」
「冗談だよ。良い親友を持ったなって」
とっくに散り散りになった桜の生き残りが、風に攫われて宙を舞っている。こんなあたたかな日差しでは菊も育たないだろうに、ある時から薫子の机に毎日欠かさず供えられるようになった。
不謹慎な黄色の花に倣うかのように、その日から自分以外、彼女に話しかける者はいない。
こうして話している間も数点、自分だけが異端者だと刺すような視線を感じる。無関係だと見てみぬふりを決め込みながら、そのくせ怖いもの見たさの興味に逆らえない。かつてはよく数人で笑い合った者、これからよろしくと声をかけた近くの席の生徒、誰も彼も。彼らにどれだけ必死に怒ろうと、訴えようと、無駄だった。
誰より優しい彼女を居ないものとして扱うくせに、転校生のことは王子だ何だと持て囃す。ピエロのように顔を歪めたクラス中の人間が厭わしくて、それ以来次の春を願わない日はない。
「でも、今年の夏で世界が滅びるらしいよ?」
「……なに?」
「あ〜! はじまったって顔やめてよ〜。私が言い出したんじゃないからね? 予言が出てるんだって」
「予言?」
──今年の夏で、世界は終わるんだって。
曰く。地は裂け、作物は育たず、海は干からび、人々は争う気力すら無く土に還る。そんな「終わり」が訪れるらしい。
あり得ない未来よりも、それを語る彼女の宝石のような瞳が濡れている方が気になった。
「まさか、本気で信じてるの?」
「そうじゃないけど〜……。でも、そうなったらめありが苦しいでしょ?」
くしゃり、と切なげに眉を下げている。生え揃った睫毛が繊細に伏せられ、それを透かすようにして瞳に雫が浮かんでいた。
こんな風に、彼女といるとふとした時に心があたたかくなる。愛おしさが胸に広がり、思わずこちらも目頭が熱くなった。
相変わらずいつだって、自分より誰かを想っている。そんな彼女だからこんなにも好きで、救われて欲しいのに。
彼女を愛さないどの人間も許せなかった。
窓の外で、散った桜が土に埋もれて黙り込んでいる。まるでそれを受け入れるかのように。
*
「このパフェ、めありみたい!」
ぱっと頬を染めた彼女に、それはこちらのセリフだと思った。
放課後。新しくできた喫茶店。凪いだ日本海。絵に描いたような青春を揃いにアレンジした制服で謳歌している。
薫子とは毎日一緒に帰っているが、寄り道をするのは久々だった。最近の彼女は私とどこかへ立ち寄るのを避けている──……ように思う。
本人はダイエットだ家の用事だとはぐらかしていたが、恐らく私のためなのだろう。事故のあった日以降、彼女と一緒に居ると時折店員が余所余所しくなった。学校での噂が広まっているのか、彼女を悪し様に言い触らす者がいるのか。どちらにせよ、私たちには苦い経験だ。
小音のジャズが流れる店内は落ち着いていて、私たち以外に客はいない。デコレーションされた拳ほどのちいさなケーキと繊細に飾り付けられたパフェは上品さの中に愛らしさがあって、優雅な昼下がりにはピッタリだった。
「これ、どっちもめありにあげるよ」
はんぶんこにしたそれに、薫子は少しも手を付けていない。
「駄目だよ薫子。もっと食べないと」
「ううん、めありに食べて欲しいんだ。最近のめあり、あんまり食欲が無いみたいだったから……それで誘ったの」
「薫子……」
ぬくもりに触れ、自然と笑顔になる。そんな風に談笑しながら束の間の幸せを享受していた。薫子と自分、二人だけの空間はずいぶん久しいように思う。
「あれ、彼じゃない?」
ふいに目をやると、海沿いの道を「王子様」が歩いていた。珍しく誰にも囲まれず、一人でひっそり潮風に吹かれている。
マリンブルーを跳ね返したその瞳からは、何の感情も読み取れなかった。
「……やっぱり苦手?」
「苦手っていうか、よく分からないかな。何考えてるかも謎」
「そう? フレンドリーな方だと思うけど」
「ニコニコしてるだけでしょ」
「ふふ、めありは彼じゃなくて、彼の周りの人が嫌なんだね」
「……どうでもいいよ。薫子が居れば、それで」
視線が絡み合って、同時に微笑んだ。
春のぬくもりに薫子の輪郭が溶け込んで輝いている。
「ねえ、ずっと一緒に居ようね」
「どうかな? めありは人気者だから」
「薫子……」
「冗談。でも、もっと沢山の人にめありを知って欲しいのは本心だよ。こんなに可愛いんだから!」
「もう……」
静謐な店内はそれほど大きくない談笑でも充分に響く。幸せで満ちたそこには、桃源郷のような世界が広がっていた。
*
肩にかかる緩く巻かれた琥珀色が、私以外に笑いかけている。
名前を口に出しかけて、は、と意識が鮮明になった。解像度の上がった視界に、頭に美をつけた少年少女がよく映える。まるで恋愛映画の一幕のように薫子と「王子様」が微笑み合っていた。
彼女が誰かと話しているのを見たのは、いつぶりだろう。なぜだか肩のあたりから血の気が引いていく。言いようのない感覚に、気付けば廊下を引き返していた。
──薫子が「王子様」と話している?
どれ程歩き続けたのか。人気のない東校舎の階段に辿り着いたとき、腹の底に広がる不快感に思い当たった。これはきっと、怒りだ。
「王子様」もクラスで薫子に話しかけたことは無かった。人前では口も利かないくせして、二人きりになれば笑顔で馴れ馴れしく側に寄っている?
ひんやりとした階段に腰を下ろすと、燃えるようだった頭も冷えてきた。まだ少し寒さを孕んだ風が、ソッと耳元を吹き抜けていく。
薫子を守らなければならない。馬鹿みたいに言い寄られて、それなのにいじめは解決してくれないだなんて。そんなの、薫子に相応しくない。身の丈に合わない美しい花に纏わり付く害虫を、一刻も早く駆除しなければ。
立ち上がって割って入ろうと思うのに、身体は鉛のように動かなかった。
──本当はわかっている。
あり得ないのだ。そんなことは。だって相手が、あの薫子なのだから。
事故が起きる前、彼女はクラスの中心だった。それは愛らしい外見だけでなく、分け隔てのない態度や、圧倒的なコミュニケーション能力、誰にも負けない積極性、優秀な成績と運動神経に裏打ちされるもの。彼女が笑えばクラス中が笑い、彼女が居るだけで教室ごと華やいだ。そんな彼女の一番の親友である自分まで、なんだか誇らしくなるほどに。
一番近い場所で太陽に照らされていた。
彼女と距離が近付けば、「王子様」もイチコロだろう。そうしてあの愚衆はまた薫子にひれ伏すのだ。
そうなって欲しい、と芯から思う。例え彼女の一番が自分でなくなっても、彼女に笑っていて欲しい。私は、あの花の咲くような笑顔が大好きなのだ。
ああ、それなのに。
──……行かないで、と言ってしまいたい。
目を逸らしたかったのは、怒っていたのは、醜くドロドロとした自分の内側にだった。私には彼女だけの人生でも、彼女には私だけなはずがないのに。
もう長いこと、陽の光を独り占めにする歓びを知ってしまった。きっとそうして閉じ込めた光にあんまり強く焼かれたものだから、虫眼鏡を通した陽光に焼かれた地面が焼け焦げるのと同じように、とうとう心まで醜く爛れてしまったのだ。
頬が濡れて、それすら嫌で。膝に顔を埋めて、もう全て投げ出してしまいたい。
そうしているうち、いつの間にか雨が降りだしていた。大粒の自分を誇りでもするように、コンクリートに打ち付けて喧しく騒ぎ立てている。
傘は持っていなかった。もし無くても、雨の日には一緒に差してくれる人がいたから。
水の喧騒のなか、一人きりの影が段差に歪んで鎔けていく。
*
「珍しいね。お迎え頼むだなんて」
「……傘、ない」
「そっか」
「薫子も、別の子と帰ったから」
「……ふぅん」
鉄の箱に揺られながら、取り留めのないやり取りをする。長くない会話は大した情報にもならず、形式としてそこにあるだけだ。
いつからだろう、彼女がこんな風に踏み込んで来なくなったのは。
母は朗らかな人だった。私の友人とは彼女も友人かのように振る舞い、けれど喧嘩になればいつでも娘の味方でいてくれる。薫子のようなあたたかさと、真逆の苛烈さを持つ人だ。
けれど──……そう。薫子が事故に遭ってからしばらく。うちに薫子が遊びに来た日からだっただろうか。彼女が私の私生活に興味を持つことは無くなり、話題に出すと露骨に避けられるようになっていた。もう高校生なのだから独り立ちしろ、ということなのか、薫子と何かあったのか。私の近くの大切な人はどちらも何も語ろうとしない。
私と違って話好きな二人が、揃って口を噤んでいる。何か隠しているのは明らかだったが、別にそれで構わないと思った。全てを知るよりは、知りたいと思われていることだけを知っていたほうが気楽なのだから。
沈黙が落ちる車内で、軽快な流行曲が密かに踊っている。
「そういえばいつもこの曲だね」
「そう? めありに聞かないと最近の流行り、わかんないから」
「そうでもないでしょ。他にも色々あるよ。例えばあの……うーーん……」
「えっ。そんなに?」
「いや、考えてみたら話したことある気に入ってる曲しか思い出せなかった」
「あはは。そんなものだよ」
一つの曲が終わり、また一つ、知っている曲が知っている顔ではじまる。
優しいバラードの歌詞に胸が痛んで、次第にじくじくと締め付けられた心臓から血が溢れ出る心地がした。
──何かあった?
以前の母なら、ここでそう言ってくれていた。それが無いのが、なんだかまるで身内にまで見捨てられてしまったようで。余計に視界が滲んでも、問われないということは聞きたくないのだろう。そう思うからこそ、涙を流すなんて反則はしたくなかった。
窓に打ち付けられた雫が、形を失って散っていく。今朝の桜とちょうど同じように。それなのに桜は無常の感性に訴え、雨はずいぶん見くびられている。自慢げだった大粒が、急に虚しく感じた。
「めあり。……今日はオムライスにしよっか」
「夕飯に?」
「だって、食べたいでしょ」
「……ん」
声が震えて、それ以上答えられなかった。
覚えてくれているのだ。ちゃんと。
それはずいぶん幼い頃の習慣だった。私が落ち込んだ日には、大好物のオムライスに一緒に落書きをして飲み込んでしまう。猫だったり、名前だったり、罵倒だったりするケチャップの赤がありありと浮かんで、涙を嗚咽ごと飲み込んだ。
*
人工物のような瞳は、間近で見るとガラス玉のように虹彩が透明だった。
「……あの」
「うん」
「どういう意味ですか?」
「そのままだよ。加藤さん、再来月が誕生日なんだよね? 舟木さんも。だからそれまでに、例の花を解決できたらなと思って」
意味が分からないことを宣うときも、優雅に揺らす前髪の先まで絵になるのだから腹立たしい。
早朝。人気のない教室で「王子様」が持ちかけてきたのは、薫子の花を供えた人物の解明と、それを止めることだった。
「やめさせるって……。今まで一度も犯人を見つけられなかったんですよ。こんなに早く来たって……ああだし」
「でもこのままって訳にもいかない」
「それは……そうですけど」
「それに加藤さん、そのためにこんなに朝早くから一人で来てるんでしょう。僕に力にならせてくれないかな」
朝の神聖な空気に彼のはにかみがよく映える。差し出された青白い右手は爪の先までよく手入れされていて、毛穴一つなかった。
けれどその手を取ることはない。
「そこまでしてもらう理由がありません」
一息でキッパリと言い切り、背を向けた。このまま無視して人が増えるのを待っていよう。
薫子の視線から漂うものが慈愛と優しさだとするならば、彼のそれはまるで尋問でもされているかのような厳しさだった。春を追いやる真夏の陽射しのように強烈で、極寒の冬景色の荘厳さを備えている。それがなんだか恐ろしくて、なるべく早く彼と距離を取りたいと思う。
「待って。……理由ならあるよ」
ふと振り返ると、切なげに眉を下げた美少年が申し訳無さそうに私の手を掴んでいた。
窓から差し込む春光がよく通った鼻筋で影を作り、昏くなった口元を震わせながら、それでも目線は私のもとへ真っ直ぐに向けられている。
──……君の事が、好きだから。
理解を超えた答えに怖気が立って、思わず手を振り払ってしまった。その力の強さが自分のものだと、数秒遅れて気付く。
「っ!」
「……あ。ご、ごめんなさい」
「いいよ。気にしないで。……そのごめんなさい、は告白にじゃないよね?」
「いや……」
「ああ、それでも別に平気だよ。付き合いたいとかじゃない。僕は君の力になりたいんだ。……ただ、それだけ」
それが理解できないんだ、と抗議しようとして、気が咎めて形にせずに溶かした。
彼の耳先がほんのり赤くなっている。
きっと──嘘ではない。恐ろしい視線の横にある、正直な肌を見てそう思った。
「……でも、具体的にどうするんですか?」
「そうだな。まずは花屋さんを巡ってみるのはどうだろう。毎朝菊を買うお客が居ないか、聞き込みをするんだ」
「……聞き込み」
私としてもこれまでその案に思い至らなかった訳ではない。ただ、自分の弱さと見聞を気にする小癪な心がそれを許さなかったのだ。
結局、自分は薫子よりも保身に走ってきた。彼の手を取ればその後ろめたさから、脱することができる……?
「一緒に行ってくれるんですか」
「もちろん。早速今日の放課後から……どうかな?」
「わかりました。よろしくお願いします」
再度おずおずと差し出された手に指先だけ触れる。途端に酷く恥ずかしくなって今度こそ席に着いた。
彼の肌には汗も温度もなかった。
ただ、骨ばった大きな手のひらだけが肉体としてそこにある。
*
──千暁、というらしい。
情報共有用にと交換したLINEの名前を見つめていると、エッと後ろから轢かれた蛙のような声がした。
「びっくりした。来てたんだ」
「うん。おはよう、めあり……いつの間に彼と仲直りしたの?」
「おはよう。仲直りも何も、喧嘩してたわけじゃないし」
「そっ……か。……びっくり」
「そんなに? 別にただのクラスメイトだよ。それに、あの人は薫子と話すし」
「え、あ……見てたんだ?」
「うん。薫子、あの人って」
──めあり。
いつも鷹揚な薫子の全身から、冬の寒気のような緊張が走っている。
黒曜石の瞳が、はじめて見る強い意志を携えて私を捉えていた。
「え……」
「彼をどう思うかは、めありの自由だからわたしには何も言う権利はないよ。だけど、これだけは覚えていて。……わたしはいつだって、めありの味方なんだよ。あなたの幸せを願ってる」
「……薫子」
「なんて、ね?」
白昼夢でも見ていたのだろうか。いつの間にか彼女から緊迫が霧散し、いつものやわらかな微笑が戻っている。
ガヤガヤとした喧騒の中、机に落ちた薫子の影がぼやけたような気がした。
「加藤さん。ちょっといいかな、呼ばれてる」
「あ、はい。じゃあ薫子、行ってくるね」
「うん、待ってる」
昨日はあんなに笑顔を向けていたというのに、相変わらず教室での彼は薫子に目もくれなかった。薫子のほうはといえば、彼を口元だけ三日月にして感情の読めない瞳でジッと見つめている。
まるで品定めでもするかのようなその視線は、やっぱりこれまでの薫子からは見たことのないものだった。
「ごめんね、呼んでるっていうのは僕。ちょっと話がしたくて」
手を引かれて廊下に出ると、彼はいたずらっぽく片目を瞑って見せた。
「……どうして教室では駄目なんですか。薫子に──……いや。何でしょうか」
「僕と調査すること、舟木さんには黙っていてもらえないかな。彼女に遠慮させたくない」
「わかりました。……それってLINEじゃ駄目なんですか?」
「単純接触効果狙い、かな。君と会って話したくて」
「はあ。要件はそれだけですか。では」
廊下との間に線を引く明確な境目。教室の扉を引きながら、少し篭ったクラスの熱が頬に触れた。
母親も、薫子も、彼も。そしてきっと私も、互いに何か……それが意図的にしろ偶然にしろ、相手に隠しているのだろう。
私の知らないところまで世界は続いているらしい。そんな当たり前のことを、ボンヤリと頭の端で思った。
*
「菊なんて買っていく人、暫く見てないよ」
「そうでしたか。ありがとうございます」
「良いんだよ。何なら業者仲間にも聞いてみようか」
「助かります。お願いしても良いですか?」
「イケメンと美人の頼みなら、断れないねえ」
花を育てる人らしくたおやかで、かつどこかシッカリした雰囲気の店主と一通り話したあと。途方に暮れてコンクリートを見つめていると、彼が休憩を提案した。
「近くに公園があるから、少し休もうか」
「はい。……まさか、徒歩圏内が全滅とは」
「犯人はよっぽど努力家か、もしくは自宅に菊を栽培できる環境があるのかな」
「かもしれません。そうなるともう、手の尽くしようがないですが……」
「うーーん……。取り敢えず何か飲み物を買ってくるよ。あそこで待っていて」
ちいさな公園に着いたとき、彼が指したのはジャングルジムだった。ふつう座るならベンチだろう。私としても古びた木製のベンチに座ってスカートを汚したくはなかったので、それで良かったのだが。
少しずつ陽が傾き、どこかで烏が鳴き出した。ランドセルを背負った子どもたちが祭囃子のように笑いながら駆けていく。
──薫子は、どうしているだろうか。そういえば昨日も今日も彼女と帰っていない。あんな風に笑いあって帰路につくのが私たちの日常だったのに。
する事もなくボンヤリ地面に目をやると、よく伸びた大きな影がこちらに迫っていた。
黄金色の光を背負った「王子様」がリンゴジュースを持って跪く。
「お待たせいたしました」
「ありがとうございます。そうしていると、本当に王子様みたいですね」
「王子様?」
「そう呼ばれているでしょう。みんなに」
「そうだね。実際僕は『王子様』だし」
「……ずいぶん自信があるんですね」
「本質がどうであれ、大衆の認識がそうならそうなんだろうね」
「観念論ですか。誰も居ない部屋のテーブルは存在していないと?」
「いや、この世界はそうじゃないんじゃないかな。神がいれば、テーブルもある」
「神はいないでしょう。いるのなら、薫子を救うはずです」
「いるよ。君だ」
「っ」
──吸い込まれる、と思った。彼の瞳は相変わらずガラス玉のように澄んでいる。そして喜怒哀楽のどの感情もなく、ただ真実だけを備えているのだ。
これは……皮肉だろうか。私が薫子を救えないとわかっていて言っている。腹の底が煮えるようで、思わず眉を顰めた。
どこからか聞こえていた幾つかの幼い笑い声が消え去り、ざらついた空気に沈黙が落ちる。
鉛色の空が今にも泣き出しそうな顔で沈んでいた。
「君は神さまだから、誰にも助けてもらえなかった。だから僕が助けに来たんだよ」
「……どうして私なんですか?」
「君が君だから。僕は加藤めありを愛するためにここに居る」
──舟木薫子よりも。
*
夜の学校というのは昼のにこやかな表情を完全に消していて、いつ見てもどこか余所余所しい。
月光に照らされて歩きながら、「悪いことをしてる」と漠然と思った。
母からの通知にスマホが光る。もう何度か手の中で震えていたが、無視して彼と歩き続けた。
自分たちの教室なのに、知らない場所に来たように感じる。早朝より深夜のほうが静謐だ。
「このままここで待とうか」
「はい。……大丈夫なんですか? 貴方のご家族は」
「気にしないよ。君こそ、お母さんは大丈夫?」
「一晩なら平気でしょう。説明の仕様がありませんから」
それから暫く、私も彼も何も言わなかった。それは話したくないからというよりは、何を話したらいいか思いつかなかったから。
彼を疎ましいとは思わなくなっていた。むしろ、その表情の読めない瞳の奥が気になっている。
何を考えているかわからない「王子様」は、もしかすると何も考えていないのかもしれない。そうでなければ、彼を個でなくレッテルでしか見てこなかった私には理解できない何かを抱えているのだろう。
「……あの、夢はありますか?」
「夢……どうだろう。あまり考えてこなかった」
「何もですか? 例えば、海で泳ぎたいとか、虹のふもとが見たいとか、外国に行きたいだとか、そういうものでも」
「うーーん。欲や行動で叶えられる事象の体験、目的ってことかな。それなら君を助けること」
「それは、貴方がそうしたいから?」
「したいというより、そう決まってるんだ」
「では決まっていないことを。……今回、貴方には恩しかありません。これが解決したら貴方のしたいことをしましょう」
──その時は、私が千暁さんを助けます。
わずかに見開かれた瞳が一瞬、霞のように揺れた。すぐにまた無風に戻るが、酷く驚いたように口を半分開いて黙っている。
窓辺から差し込む月影に手のひらをに透かしながら、彼は密やかにつぶやいた。
「……でも、今年の夏で世界が滅びる。もしかするともっと早くに」
「貴方もそれですか。そんなに確かなものなのですか?」
「そうだよ。もしそれが起こらなくても、代わりに何らかの形で消失する」
「それなら……貴方も私も消えてしまう前にできることをしましょう。何も思い付かないのなら、一緒に考えさせてください。……それが、今の私の望みなので」
「……うん。ありがとう。この世界には……そんな言葉が、あったんだね」
夜が深まり、一面が闇に包まれる。だんだんと視界が悪くなり、次第に何も見えなくなった。目が慣れるまでは二人とも、成す術も無くただ座り込んでいる。
ふと、しっとりとした空気によく馴染む震えた声で問いが投げかけられた。
「夜が明けて何があっても、僕を信じていてくれる?」
「……はい」
不思議と、彼を疑おうとは思わなかった。まるで人らしくないからこそ、事実を事実として捉え伝えるような、そんな気がしていたのだ。
「君は……傷付くことになるかもしれない。だけど、一人にはさせないから……」
「貴方が?」
「そう。したいこと……ではないかもしれないけど、するべきだと思う。救うだけじゃなく、最期まで君のそばにいることが」
「ふふ、頼もしい……」
急激に意識が薄まり、身体から力が抜けていった。浅い眠りに落ちるように、無力感に襲われる。
最後に視界に映ったのは、瞳孔がわずかに開いた千暁だった。
「おやすみ。めあり」
*
頭の中で鐘が鳴っている。
鈍い音に目を覚ますと、穏やかな風景が広がっていた。悠々と川が流れ、その手前で百合や彼岸花、名の知らない黄色い花々が咲き誇っている。
川の向こうで、親友が笑っていた。
「薫子……」
「来たんだ。めあり」
毎日見ていた薫子の笑顔。私の宝物が、ひとりぼっちで寂しげに揺蕩っていた。手を伸ばしても届くはずもなく、そうこうしているうちに朱鷺色の空に溶け、次第に霞んで消えて行く。
──終わりだ、とわかった。
「や、だ、嫌だ嫌だ、嫌だよ、待って、薫子!」
「大丈夫だよ、めあり。あなたはもう、未来を……この世界を、愛することができる。きっともう、わたしは必要ないんだ。その時が来たの」
「そんなの……っ! 納得できるわけない!」
ずっと二人だけの世界だった。世界は薫子で、薫子が世界だった。
それが私の人生だった。
「本当は気付いてたでしょ? だからわたしを創った」
「違う……っ! 行かないで!」
「あなたは生きていける。幸せに、なれる」
──王子様と出逢えたんだね。
それじゃあ、さようなら。
まるで桜が散るように彼女は霧散した。薫子の姿をしたそれが消えると、ぐるりぐるりと視界が回転し始め、次に身体が動かせなくなる。
意識はここにあるのに、まるで金縛りにあったかのように指先一つ曲げられなかった。
遠くで自分の名前が呼ばれている。
聞き覚えのある、感情の読めない声に。
*
「朝だよ、めあり」
「っ!」
「……思い出した?」
朝焼けが差し込む窓際の後ろから二番目。私が臥していたのは薫子の席だった。
何もなかった木目の上に陽の光が落ちると、踊るように黄色い花片が現れる。そしてだんだんと一つの形を成し、一輪の神聖な花が祈るように咲いた。
「この菊は、嫌がらせなんかじゃない。弔いの花だ」
「違う……」
「君が供えた」
「違う……っ」
「舟木薫子は無視されてたんじゃない。あの日から、もう誰にも見えなかったんだ。君はそれに耐えられずに『薫子』と話すようになった」
「あ、あ、ぁあ、あ……嘘……。そんなのッ」
「落ち着いて。こっちを見て。大丈夫だから。めあり……」
力強く、けれど壊れ物に触れるかのような優しさで肩を掴まれる。歪んでいた視界が次第に輪郭を取り戻し、ガラス玉の瞳に射抜かれた。
朝の空気はまだ誰も触れられていないから神聖だ。この煌めきのなかで、彼女と静かに過ごすのが好きだった。
「だったら……だったら私は、彼女のニセモノを創って、独り占めして、尊厳を奪って、そうやって生きてきたっていうの?」
「舟木薫子という人間が君の親友だったことに変わりはない。そして君の生み出した薫子はどこまでも正確だった。それはまるで……魂を引き留めているかのように」
「だからって!」
「めあり。……めあり、僕の目を見て。君は彼女を苦しめたかったんじゃないだろう。世界が彼女を忘れていく現実に、耐えられなかっただけだ」
鈍器で思い切り殴られたように頭が痛む。
事故の翌日は、酷い雨だった。桜が雫に流されて、ぐちゃぐちゃになって土に紛れている。
はじめは哀しんでいた同級生たちも、一週間もすれば日常を取り戻していた。移動教室だって、休み時間だって、掃除だって委員会だって、そこに彼女が居たから笑顔で過ごせていたくせに。
薫子の机の前から動けないでいる自分のほうが間違っているかのようで。あの日から前に進めないでいる。
毎晩毎晩、眠らなければ明日が来ないんじゃないかと期待して、地続きの時間に苛立った。彼女が居ないのに、もう意味はないのに、残酷に進む時間は一体なんのために進み続けているのか。
そうしているうち、私は──……。
「でも、君は思い出した。思い出すことができたんだよ」
「……思い出したくなんて、なかった……っ」
心地良い夢の世界から無理矢理叩き起こしてくれだなんて、誰も頼んでいないのに。
夢だと知っていて醒めないことを望んできたのに。
「めあり。忘却も受容も裏切りじゃない。だけどそれを許さない君の事を、僕は愛おしいと思った。僕に感情をくれたのは、君なんだ」
「うるさい……!」
「ごめん。許してくれとは言えないけど、それでも……傍にいるから。ずっと」
止めどなく流れ続ける涙に、また視界が形を保たなくなっていた。何度もこんな風に泣いて、それなのにどうにもならなくて。神に祈って、神を恨んだ。彼女を失うくらいなら、私がそうなれば良かったのに。
体温を感じない身体に抱きしめられて、赤子のように声を上げて泣き続けた。
「あの日君は時間を止めた。この世界は、もう何度も同じ春を繰り返してる」
「だから貴方が来たの? この世界を動かすために? そんなもの、ずっと止まっていればいいじゃない……!」
「そうさせてあげたかったよ。……でも、駄目なんだ」
──今年の夏で、世界は滅びるから。
「終わりは必ず訪れる。君は、進まなくちゃならない。いや……進んで欲しい。僕が」
眩しいほどの陽光に照らされて、逆光になった彼の表情は読めなかった。
けれどもきっと、笑っているのだろう。何故か彼まで目尻を濡らしながら。見えずとも、心のどこかで確信できた。
それは、彼女が消えたときと同じ声色だったから。
*
日本海に程近い小さな病院には、眠り姫がいる。
その身に受けた毒があんまり強いものだから、それ以来ずっと眠り続けているのだ。
雪のように白い肌は生気を感じさせず、艶やかだった漆黒の髪はスッカリ萎れてパサついている。
潮風にそよぐ彼女の痩せこけた頬を、憔悴した様子の女性が縋るように手のひらで包んだ。
「めあり……」
「お母様。大丈夫ですから、少し休まないと」
「そうは言っても先生……。これで本当に、目を覚ますんでしょうか? 今回うまく行かなかったらもう、めありの身体は……!」
「落ち着いて。安心なさってください。前回もお話したように、彼女の抱える問題の根本は乖離性人格障害です。それを消し去るようプログラムされたAI……のようなものが彼女と触れ合い、彼女の変わりに考え、行動を起こし、自立を促します。こうして段階を踏むことで、自分の中に他人を飼う必要は無くなるのです。ご理解いただけたはずでしょう?」
「でも……そう上手く行くのでしょうか……」
「彼は完璧なスクリプトによって構成された人工知能ですよ。彼女の求める人格、嗜好、飲食物の好みから言葉まで。全てに対応可能です。そうして目指すゴールへと導くことができる。……あなたほど娘をよく見ている親の情報提供が無ければできないことです。お母様の愛情は、きっと届きます」
「っそうだと良いのですが……。ああ、めあり……。先生、AIが暴走したり、それに依存してしまったりだなんてことはありませんよね? この子はもう、大丈夫なんですよね?」
「はい。実験段階で対策済みですから、心配には及びません。彼はその為に生み出されたプログラムです。条件が揃えば、離別し消滅……彼女の記憶からも完全消去するよう設定されています」
──次に目が覚めるときには、きっと一人で生きていけますよ。
蝉の鳴き声が響き渡り、ジットリとした熱が広がる。強い陽射しに照らされて、眠っている少女の額にまで汗が浮かんだ。いつの間にか梅雨は終わりを告げ、もうすぐ夏がやってくる。
春を殺して。
ケース・ハルシネイト 哀 @3si_y
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