紅色の魔法
哀
紅花の約
触れた指先は、熱かったのだろうか。きっとそこにあった温度を、ちっとも思い出せない。些事を浮かべるには、湿ったタンザナイトの瞳があまりに切実だったから。
*
「今日は何のお話をしてくださるんです?」
「そうだな。星の話をしようか。知りたがってただろ?」
陽光が射す昼下がり。いつもの図書館で、いつものように問いかける。やわらかな光を集めた紺碧に、いつものように見透かされた。なぜ、わかるのだろうか。彼は何でも知っている。言う前に話したいことを汲み取って、する前にしたいことをしてくれる。少女には、それが不思議でならなかった。
「魔法で頭の中を覗いたりしないよ」
「……ほんとに読んでません?」
カラカラ笑う目尻には、いつもほんのり涙を湛えている。大笑いではないのに、ひどく眉を下げて笑うその顔に、ふいに心臓を締め付けられたような痛みが走った。どうも怪しい「魔法使い」に、つい会いに来てしまうのもこれが原因かも知れない。
少女が「魔法使い」に出会ってから、早いもので季節が二つ過ぎていた。同じ本に触れようとした彼は、少女の知らないこと、そして「知りたいこと」をほとんど全てと言って良いほど明細に語ってみせた。魔法使いと人間の長く冷たい断絶など、少女の好奇心の前には取るに足らないまやかしだった。
──とは言っても。
「その星座、いつでも見られるんですよね。一緒に見に行くことはできませんか?」
「……あんたの親に、俺の事は話してないんだろ? 心配させるようなことはしないほうがいい」
あやすような仕草で頭を撫でられる。壊れ物を扱うような力加減が、なんだか物足りない。その手を掴んで、却ってつよく頭に押し付けた。
「子どもじゃありません。平気ですよ」
「子どもじゃないかはあんたが決めることじゃないだろう。俺の百……千分の一も生きてないくせに」
「とんだおじいさんですね」
「そう見えるか?」
いたずらっぽく除き込まれ、今度はたじろいでしまう。寡黙な男のこんな仕草に驚いたのも一因だが、どうもこの、深い蒼に弱い。
「……でも私、その星が見たいです。見て、祈りたい」
「祈る?」
「本当は死ぬことがないのに、あまりの痛みに不死の力を譲って死を選ぶなんて……よっぽど苦しかったでしょうね。彼が少しでも楽に過ごせるように、祈りたいです」
「……」
「魔法使いさん?」
「苦しいから死んだって話をしたのは俺だしな。確かに、計り知れない苦痛だったんだろう。あんたは……優しいな」
そこで話が終わると思った。だから、頭の隅ではもう別の事を考えていた。どうにか策を練って、それでも彼を説得できなかったら、お母さんに頼んでみよう。わざわざ星を見たいなんて言ったら、変な顔されるかも知れないけど。
男の手がちいさく震えているのに気付いたとき、もう不意打ちの疑問は落とされていた。
「あんたは、死ぬほど苦しかったら死んでもいいと思うか?」
あまりに真摯な瞳の色に、ふと、初めて会った「あの日」が脳裏を過った。ただ……どこかが違っている。光を乱反射して、宝石のように青かったはずの彼の瞳が、くすんだプラムを思わせるような。そんな景色。
は、とすると、やっぱり深青がこちらを見据えていた。逃がさない、とでも言うように。
彼を怖いと感じたのは、初めてだった。
「そ、う思ったことが、あるんですか?」
「……っ。答えてくれないか」
「死ぬほど苦しいなら、楽になる道もあると思います。──でも、あなたがそうだったり、そうだったことがあるのなら、今生きていてくれて良かった。こうして話せると、嬉しいですから」
そうか、と落とされた呟きは、あまりに儚くて。少女が受け取る前に霧散した。けれど、そこには確かに存在したと、知らしめるような。力強い響きの余韻を場に漂わせていた。
「変な事を言ってすまなかった。外まで送ろう」
星座観測の提案は紛れもなく本心だった。けれども、「たまには図書館の外で会いませんか?」という今日ここへ来た「本来の目的」は、とっくに行き場を失っていた。今朝の決心は何だったのか。肩を落とした少女は、ちいさい身体を更に縮こまらせてトボトボと家路についた。
朝日の輝きを携え溌剌としていた少女の長髪は、落日に照らされて萎れている。
*
願いとは、思いがけず叶うもので。出し抜けの幸運はその享受を拒みさえさせる。
「な……んで?!」
その日、少女は図書館へは行かずに公園へ赴いた。別に毎日図書館へ行っているわけでは無かったし、約束もしていない。ただ、何となく立ち寄るといつも彼がいて、何となく話すだけの関係。だから図書館でしか会ったことがなかった。けれど図書館に住んでいるわけがないのだから、考えてみれば外で会うこともあるはずで、けど、でも、なんで? これまで外で見かけたことなんか、一度も無かったのに。
──魔法使いが、公園で草花に水をやっていた。
なんて呑気な、そして、絵画的な光景だろう。ただ水をかける仕草さえ、愛しい恋人に抱擁するような。気品と、慈愛に満ちた空間。
「……あの」
「っ」
声をかけると、男は作品を台無しにしてずっこけた。瞬間、血流が止まってしまったんじゃないかと心配になるほど真っ青になって飛び上がる。見かねて手を差し出すと、少女の手を取ろうとして、そのまま──……停止した。
時間が止まってしまったわけではない。そう新鮮に感じさせるほどに、彼の顔色はみるみるうちに土塊へ近付き、指先は目視で確認できるほど震えている。だが、決して手を取ることはない。
あまりの異様さに少女は暫し戸惑い、けれどとにかく男を引き上げた。怯えたような深海の蒼黒に、つとめて柔らかく声をかける。
「驚かせてしまってすみません」
未だ震える大きな背を、大丈夫、大丈夫と声をかけながらゆったり擦る。いつか、お母さんがしてくれたように。怖いときのおまじないだ。
立ち上がると少し落ち着いたようで、だんだんと常の大様な様子へ戻っていった。
「ありがとう。すまなかったな」
「いえ、私のほうこそ。突然声をかけたりしてすみませんでした。外で会えると思ってなかったので、つい」
「ああ……。というか、なんでこんなとこにいるんだ? まだ学校のはずだろ」
「休みになったんです。だから……」
だから公園でスケッチしようかと思って、も、あなたこそどうして? も、紡ぐことはできなかった。「まだ学校のはずだろ」が表す事実に、突き当たってしまったから。
もしかして──……と言いかけて、結局それも形にならなかった。何だか最近は、怖いことばかりだ。
「もしかして……も、し今後、外で会えたら声をかけてもいいですか?」
「……」
沈黙が落ちる中、男はおもむろに手袋を嵌めていた。そういえば、先刻まで長い袖から肌色を覗かせている。手袋をしていない彼の白を見るのは、初めて会った日ぶりだろうか。
「……外には、出ない。今日は例外だ。この花が、そろそろ枯れそうだったもんだから」
寂寥を香らせながら、足元へ瞳を向けている。男が育てているのだろうか。植物を育てるというのほほんとしたイメージと、いつもどこかぴしりと引き締まっている無骨な男のアンバランスさに、衝撃も悲しみも忘れて微小が漏れる。
「お花がお好きなんですね。確かにこの種、朱い花びらがとっても綺麗」
「……次に水をやるときは、あんたも来てくれるか」
「もちろん!」
微笑んだ男が、魔法で右手を濯いだ。そう言えば、彼を引き上げたときに泥が付いたかもしれない。
こんな事ができるのに、花には自分で水をやるところが、とても彼らしいと思った。
*
「潔癖症、なんですか?」
また季節が巡り、彼と出会って約一年後。この数ヶ月、言おうとしては押しとどめた疑問を、ついに投げかけていた。
花の水やりに同行するようになって、気付いたことがある。
まず、彼は恐らく彼自身以外に触れられないということ。人はもちろん、草木なども例外ではない。時たま現れる子どもたちの遊びに巻き込まれ、鬼ごっこを提案された日は特に酷かった。少女ともどもその場から消え、少年に掴まれた袖は破り捨てていた。葉が舞えば避け、草を踏みそうになれば飛び退く。特に魚を酷く恐れているようで、跳ねる音にさえ見を竦ませた。だと言うのに、手袋を外してまで泥だらけになって水をやっているのはなぜなのか。
つぎに、人嫌いであろうこと。公園へ着いても自分たち以外には目もくれない。かの子どもたちもよく声をかけたものだと感心するほど、はっきりと拒絶を纏っていた。人がいると分かるとその道を避け、いつも話をする場所も図書館の隅、つまりはほとんど人の来ないスペースだった。
けれど矛盾が生じるのは花だけではない。彼が潔癖症だとして、図書館の本に触れられるのだろうか。あの日、彼とは同じ本に触れようとしていたから出会ったのだ。それに、元々この街の人々は図書館に寄り付かない。魔法や科学があれば、本など読まずとも充分生きるための知恵は身に付くのだ。偶然、誰もいない場所でばかり会っていて、道を変えたのもたまたまかもしれない。何より──……
「私に触れてくれるのも、触れられるのも、本当は……嫌でしたか。ごめんなさい」
確信の持てない状況。けれど、興味本位で聞いたのではない。他人に踏み込まれたくない領域かもしれない。失礼で、身の程知らずな行いかも。それでも詰問したのは、謝りたかったからだ。出会った日と公園の一件を除いて、彼は一貫して黒い革手袋を外さなかった。頭を撫でれば頬を綻ばす少女のために、苦痛に耐えて応じていたのなら。
彼を開放するべきだと思った。
彼のために、そして、自分のために。
「ごめんなさい。本当に。もう、誓って触れないようにします。だから……だから、これからもお側に居させて貰えませんか。あなたのお話をもっと聞きたいんです」
その時の彼の蒼は、これまで見たどの瞬間より昏く。恐れとも、憤怒とも違う。ひどく心を痛めたような、罪を暴かれた殺人者のような。深い、深い、蒼。
「ち、がう。あんたが悪いんじゃない。俺が汚いから、触れられないだけだ」
「汚い?」
「……俺は潔癖症じゃない。けど、触れられないんだ。命があるものと、赤いものに」
赤。言われてみれば、金魚の絵にすら眉を顰めていたような──
「とにかく、あんたに原因はない。謝らないでくれ」
「でも、なんだか最近あまりお会い出来なかったので。嫌な思いをさせてしまったのかと思って……それに私、とても……あかい、ですよね」
少女の髪は見事な紅だった。少し癖があるのは好まなかったが、色まで疎む日が来るとは思いもしない、長い長い深緋。
「そうだ。あなたの魔法で染めてもらえませんか? お揃いの黒なんて」
「駄目だ! 違うんだ。あんたの髪の色は、世界で一番美しいよ。許されるなら、俺だって……。でも、駄目なんだ」
話が一向に見えてこない。けれど、話したくても話せないといった彼の様子は嘘を吐いているとはとても思えない。
「あんたは、明日からもそのまま、いつも通り来て欲しい。要らない心配をかけてすまなかった」
──これは自分の問題だから。
そう、言外に線を引かれた。
*
いつも野菜をくれるおじいさんの家を目印に、手前の交差点で右に曲がって、そのままどこまでも行くと図書館に着く。けれど、今日はあの日彼に触れた指先がひりひりするような気がして。そちらばかり見つめていたせいか、左に曲がってどこまでも来てしまったようだった。
──この公園を嫌いになりそう。
「エレナ……」
魔法使いは、例の花に触れて愛おしげに名を呼んだ。知らない、女性の名前。触れているのは、ちいさく輝く朱い花。
薫風が吹き抜けて、草の香りに吐き気がした。
どうか別人であって欲しい。いや、本当に別人かもしれない。
そうやって目を凝らしたのが最悪だった。
微笑む彼の目尻には、やっぱり宝石のような涙が光っている。
──もう、会うのはやめよう。
わかってしまった。その名を呼ぶ彼が、今まで一度も少女の名を呼んだことのない彼が、初めて会ったとき同じ言葉をぼそりと口にした彼が、どんな思いでその名を発するのか。
最後に見た彼の残酷なまでの美しさが、裂けた心臓に染み渡った。
*
ずいぶん短い決別だったように思う。
白日が跳ねて、たまらず目を瞑った。
「花の名だ」
少女が図書館へ向かわなくなって、一ヶ月。魔法使いはその名に相応しい神出鬼没さで帰路の途中に現れた。
「あっ、ちょっ、こっち! ってどこなら触れていいですか、ここは、人がいっぱい……!」
「構わないさ」
「構いますよ! 怖くて仕方ないくせに! そんな顔で来られても話しどころじゃ」
「そうか」
そのたった一言で、一瞬にして周りの人々は本になった。図書館へ移動してきたらしい。
今日の深い蒼からは、感情が読み取れない。焦燥と、怒り……だろうか。どこか、途方もない孤独のような痛みさえ感じさせる。
「あの」
「見てたんだろう? あの日。それで、エレナを想い人だと思ったあんたは俺に会うのを遠慮するようになった。違うか」
「あ」
「頭の中は読んでない。あんたの考えそうなことぐらいわかる。なん……何でもな」
「……ちがうんですか」
「俺があんたに初めて出会ったとき、エレナと口にしたのを覚えているか」
「!」
「あんたとあの花が、よく似ていると思った。……当然だが」
──当然?
そう聞き返そうとして、男の白い指が頬に触れる。
革越しでない皮膚の感触。
「いや……もう、いいか。エレナ……」
言葉ではない何かが、ジットリと脳に広がる。
知らない景色に、知っている声が響く。
──魔法使いは骨にならない。代わりに石が残るんだ。今度のあんたには……でも、駄目だな。あんたにこんな思い、させたくない。
──本当に。人に頼るなんて出来ないくせに、最期に酷なことを言う。
──わかったよ。約束を守って寿命まで共に過ごしてくれた礼だ。この身と、あんたの美しい赤髪に誓って、何度生まれ変わってもあんたを殺そう。再び、人の身になるまで。
──すまない。すまない……っ。ああ。こんな、感触、ああ……。
──なぁ! この花に、あんたの名を付けていいか。俺は寿命の無い魔法使いだが、あんたは人の身だから……。こいつらを見る度、あんたを思い出せるように。
──確かに、計り知れない苦痛だったんだろう。あんたは優しいな。
──死すら、許してくれないなんて。酷いじゃないか。あんたが居ないのに、どうやって生きていけばいい?
──なぁ、まだ、思い出してくれないのか。思い出したく、ないのか。
──時間が経つほど、苦しくなる。あんたが人の身になるまでの時間……永い苦痛だったが、これに比べればまだマシだったよ。
──目の前にあんたが居るのに、俺の手は汚れていて、触れることさえ許されない。今のあんたに本当の事を話したら──……あんたはどうなる?
──えっ。あんたもこの本を? いや、そっちが先に読んでいいよ。俺は別のを……。はは、気が合うな、俺たち。
これまで彼が「なぜか知っていたこと」が、全てデジャヴになるような感覚。
フラッシュバックと視界の揺れに、まともに立っていられない。脳が白んで、チカチカ光って、足を付けていたはずの地は崩壊した。
思わず目を閉じると、今度は水中にいるような感覚。瞬間、焼け爛れそうな熱を持つ何かに押しつぶされて、わけもわからず視界が暗転した。
次は草と土の香り。と思うと、再び理解する前に引き抜かれ、火に焚べられる。叫ぼうとしてももう、喉が潰れているようだった。
空を飛んだり、地を這ったり、時には人に飼われたりした。けれど毎回、すぐに終わりが訪れる。
そうして必ず、擦り切れそうな謝罪が後に残るのだ。
途切れる意識の中で、愛おしくてたまらなくなった。
*
「エレナ! 見えるか? あれが昼に話した寓話の表す星さ」
「なるほど……。確かに、他とは輝きが違いますね。あれなら姿が変わっても、簡単に見つけられるかも」
魔法使いと少女は、共に星を見上げていた。やはり願いとは思いがけず叶うもので、両親が旅行へ行ったと話すと星座観測はアッサリ決行された。
彼はいつからか、少女を「エレナ」と呼ぶようになった。彼の愛する花の名らしい。照れくさいあだ名だが、すぐに誰に呼ばれたのか分かる点は気に入っている。
「あれ、今日は手袋してないんですか?」
「ああ……。その、何だ。少しずつ治していかないとと思ってさ。あんたにも、早く触れられるようになりたいし」
「そうですか。嬉しい。待たせてくださいね、ずっと」
やっぱり涙を浮かべながら、男は消え入りそうな声で零した。
「待ち仲間だな。あんたと、何度でも……人生を過ごしたい」
「……ずいぶんロマンチックですね。どちらかというとリアリストなイメージでした」
「リアリストさ。それに俺は、魔法使いだから」
紅色の魔法 哀 @3si_y
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