第17話:裸の鱗

 静寂。


 私はそれを受け入れた。


 湿った壁にもたれかかり、目を閉じる。冷えたうろこに、ゆっくりと暖かさが染み込んでいく。


 一瞬だけ、狩人としての警戒心が薄れた。何日もの間、絶え間ない連れであった肩の緊張が、わずかに和らぐ。


(……休息だ。どれほど短くとも)


 普段は警戒のために巻いている尾も、洞窟の床に力なく横たわっていた。


 * * *


 ——その時、奥のどこかで音がした。


 石が転がるような。あるいは、水滴が落ちたような。


 体が凍りついた。尾が跳ね上がる。耳が音の方角を探る。


 十秒。二十秒。


 ……何もない。


 ただの洞窟の呼吸だ。岩が温度差できしむ音。それだけ。


 だが私は、その後も長い間、暗闇を睨んでいた。


 何も現れなかった。


(安全だ。今のところは)


 その時初めて、私は池の近くに落ち着くことを自分に許した。奴の近くに。肩は水面の上に出したまま。湯に浸けると傷が燃える。


 奴は湯に浸かっている。半分眠っているようだ。


 震えが止まっていた。


 移動中は絶え間なく震えていた。私が離れると、さらにひどくなった。


 今は——静かだ。


(……暖かさのおかげか)


 それとも、別の理由か。


 考えても仕方がない。


 * * *


 どれほど時が経ったのか。


 薄明かりの中、池から蒸気が立ち上る。鉱物の尖塔から水が滴り落ち、規則的な音を刻んでいた。


 乱れた思考をまとめるには、ちょうどいい。


(……壊れやすい。束の間の慈悲だ)


 自分の腕を見下ろした。


 雪獅子の爪痕。鱗を横切り、赤黒く腫れ上がった線。露出した暗い肉が脈打っている。


 鈍い痛み。絶え間なく。


 見るたびに、己の油断を戒められる。


 熱せられた石の上で身じろぎし、尾を横にゆるく巻いた。暖かさが、わずかに痛みを和らげる。


 だが血はにじみ続けていた。


 私の血が乳白色の泉に流れ込み、煙のように渦を巻いている。厳しい光景だ。そう遠くない過去の闘争の痕跡。


(こぼれた血。無駄になった【コル】)


 だがここでは、生の神聖な汚染――【グル聖穢】――の圧迫するような重さが和らいでいる。石に、蒸気に、大地そのものに、力が和らげられているのだろう。


 試す価値はある。ここでなら、あるいは。


 * * *


 目を閉じた。ゆっくりと息を吸い、自分を中心に据える。


 疲弊は甚だしい。だが、この傷を放置はできぬ。


 我が【セズ生命力】は残りわずか。だが、内に【カールヴァラ癒しの女神】の恩寵おんちょうが一片でも残存するなら――我が呼び声に応えよ。


 良い方の手を上げ、傷の上にかざした。そして詠唱を始める。喉の奥で、低く響く音が震えた。本能のままに紡がれる古代の音節おんせつ。【シャールン治癒魔法】の神聖な韻律いんりつ


サ・カールヴァラ……癒しの女神よ……カゾ・グルシュ・キ・ラーン、私は弱さの中にひざまずくが、


チェク・サゾ・カーズ・キ・クルアズ内なるあなたの力を呼ぶ


カゾ・コル・ドエナズ、我が血を捧げ、カゾ・カラーズン・ツォルクアズ我が息を明け渡す


ドロセン・レザールン、壊れたものを繕い、グラーズ・サルアズ出血を止めよ


グレーヴ・ネクシャアズ、痛みを退かせ、ヴェスク・ネクタズアズ生命を保たせよ


サカーリク・カーズ・クンあなたの不朽の力によって――シャールナク小治癒!】


 手の周りで空気がゆらめいた。淡い紫の線が皮膚と傷の間の空間に形作られる。単純で寸分の狂いもない【シャールン】の紋様。それは優しく脈動し、私の暗い鱗に柔らかな光をそっと灯した。その下で引き裂かれた肉がピクピクと動き、端が震えながら繋ぎ合わさろうとしている。


(……効いてはいる。だが、微弱だ。治癒と呼ぶには程遠い)


 より強く念じた。持っていないはずの気力を絞り出す。もう一欠片。


 紋様がわずかに明るくなった。緊張で額にしわが寄る。


 遅い。浅い。


 紋様がぐらついた。ちらつく。風に煽られた炎のように。


 線が震え、脈動が乱れる。私の集中が滑った。石を通して、空気を通して、紋様を通して――抵抗が湧き上がる。


 微細だが、覚えのある抵抗。


 【グル】。ここでさえ。


 チッ……まだ汚染されている……! 【グル】が祈りの流れを塞いでいる!


 紋様は霧散した。暖かさも消えた。


 傷は変わらない。


 静かなシューという吐息が漏れた。苛立ち。鋭い。


 手を下ろし、顎を食いしばる。肩が張り、それから沈んだ。


 ここでさえ、私は弱められていた。聖域でさえ、癒すことはできなかった。


 * * *


 目を開けると、再び腕の切り傷が目に入った。


 まだ開いている。まだうずいている。


 我が【セズ】はあまりに薄い。そして【グル】の穢れが、未だに私をさいなむ。


 治癒は……叶わぬか。


 我々は逃れた。今のところは。必死の逃走を経て、今ここにいる。


 聖域はどうにか見つかった。この隠された泉は暖かさ、隠れ場所、そして時間を与えてくれた。


 近くの泉に視線を向けた。


 【ヘク人間】が漂っている。体の重みを失ったかのように、熱と蒸気に身を委ねて。半分眠って、呼吸して。


 奴は休んでいる。暖かい。安全か?


 ……今のところは。


 だが壊れやすい静寂の下で、いくつもの疑問が頭をもたげていた。静水の下の石のように。


 この場所で、いつまで持ち堪えられる?


 蓄えには限りがある。時間は、ない。


 【ズル追跡者】は本当に回避できたのか? それともまだ狩りを続けているのか?


 ヴァラは報告したはずだ。この山域は我らの哨戒しょうかい範囲内。捜索が始まれば、ここは真っ先に調べられる。


 この温もりは、猶予ゆうよでしかない。


 そして――この聖域に留まるには、どんな代償を払うことになるのだろうか?


 常に代償はあるものだ。


 静寂は残った。


 だが前方への道は、まだ冷たく、影に覆われている。


 * * *


 二昼夜が過ぎた。


 俺は眠った。起きた。また眠った。


 あれ以来——すべてが崩壊して以来、初めての本当の休息だった。


 乳白色の池に、長時間浸かる。最初は熱すぎて不快だった。でも、すぐに慣れた。筋肉が緩んでいくのが分かる。


 関節の痛みが和らぐ。胸の奥で荒れ狂っていた聖蝕のうずきも、静かになっていく。


 荒れた砂浜を、潮がゆっくり均していくみたいに。


 雪獅子との戦いから続いていた熱。あれは最初の一昼夜で下がった。汗でずぶ濡れになって、それから涼しくなった。


 呼吸も楽になった。深く吸うと、まだ肋骨ろっこつきしむけど。


 手の震えも、だいぶマシだ。


 回復している、という実感があった。何週間もの中で、最も頭がはっきりしている。


 * * *


 薄暗がりの中で目を開ける。


 魔族の女は池の端で休んでいる。


 横たわったままなのに、体は張り詰めている。狩人のような気配。尾は横にゆるく巻かれていて、先端だけが時々、微かに動く。


(休んでるのか? いや、違う。いつでも動けるようにしてる。獣と同じだ)


 雪獅子の記憶が、頭の中で弾けた。


 望んでもいないのに蘇る。牙が噛み合う音。あいつの叫び。


 俺は地面に転がっていた。肋骨が折れて、動けなくて。


 あいつが一人で戦っていた。俺を庇いながら。


 そして——あの爪が、魔族の肩を抉った。


(俺が弱かったからだ)


 魔族は今、隠された泉の端で静かに横たわっている。蒸気で濡れた岩の上。暗い影みたいに。


 負傷している。俺のせいで。


(あいつは俺をここまで引きずってきた。あの洞窟から。俺を生かし続けた)


(そして今、俺はただ……ここに座ってるだけか?)


(いや)


 腹の底に、ずしりと重い何かが沈む。


 罪悪感か。それとも義務か。どっちでもいい。


(何かしろ。何でもいい)


 暖かい水から体を引き上げた。


 洞窟の冷気が、拳みたいに全身を殴りつける。熱でだるくなった筋肉が悲鳴を上げた。


 ……でも、動く。反応する。


 視線が池の端へ向かう。さっき見つけた苔だ。


 深い緑。密に生えている。傷薬になる。


(後回しにしている場合じゃない)


 苔を一掴み、岩から引き剥がす。


 指に触れると冷たく、湿っていた。


 口に押し込む。噛み始めた。


 ……苦い。土臭い。砂利が歯に擦れる。


 じっくり噛んで、湿った緑の練り薬にした。慎重に手のひらに吐き出す。


 筋張っていて、暗い色。


 ……奴が動いた気がした。


 いや、空気の変化を感じ取ったのかもしれない。


 見ると、あいつの紫の目が開いていた。


 俺を、見ている。


 横たわったままなのに、その場の空気が張り詰めた。


 慎重に近づいた。無言で魔族の横にひざまずく。


 片手に苔の塊。もう片手に湿った布。差し出す。


 ゆっくりと身振りをする。苔を示して、それからあいつの最悪の傷——肩を指す。


(理解するか。それとも、俺の喉を掻き切るか)


(どっちだろうな)


 奴の呼吸は浅い。


 暗い血は止まっている。引き裂かれた鱗の周りで固まっていた。でも切り傷は生々しい。赤黒く腫れ上がって、開いたまま。


 手が震えた。


 ……聖蝕からじゃない。


(神々め、こんなに近くにいると……)


 魔族は——動かなかった。


 布を使って手を伸ばした。奴の肩の傷を清め始める。


 ゆっくり。慎重に。


 乾いた血と洞窟の汚れを洗い流していく。


 指が端に触れた。


 ここの鱗は硬くて、鋭い。黒曜石の破片みたいだ。


 それから——もっと大きく開いた傷の奥。


 皮膚。


 淡い紫。光を透かすほどに薄い。


(この感触……生身の、皮膚だ)


(温かい。生きている)


 無防備。


 苔の塊をそっと当てた。湿った塊を、肩の引き裂かれた部分に押し添える。


「クッ……!」


 魔族が、食いしばった歯の間から短く鋭い息を漏らした。


 * * *


 低い息が、喉から漏れた。


 尾が石を打つ。強く。冷たい泉洞の岩に。


(火だ……!)


 爪で裂かれる、あの鋭利な痛みとは違う。


 もっと深い。鱗の下で、溶けた鉄を擦り込まれているような——


(この【ヘク】……何をしている? 新たな毒か? 呪いか?)


 だが。


 【ヘク】の手は止まらない。


 奴の手は【トロ聖蝕】に震えている。だが、作業は正確だ。


 矛盾だ。病に侵されながら、この作業においては熟練している。


 * * *


 俺は作業を続けた。最も痛む箇所を避けながら。


 集中して。丁寧に。


 洗浄が終わった。


 俺は——自分の上着から布を裂いた。


(無駄かもしれない。でも、何もしないよりはマシだ)


 包帯が肩に巻かれる。


 粗雑な出来栄え。だが、きつい。確実だ。


 魔族の脇へ移った。深い裂傷を縛る。


 動くたびに痛みが走っているはずだ。だが奴は声を上げない。


 慎重に。ゆっくりと。


 * * *


(……奇妙だ)


 なぜ私の手当てを? 何を得る?


 この弱さ。奴に触れさせていること。


 恥ずべきことだ。


 だが——傷は縛られた。清められた。燃えるような痛みが、鈍い疼きへと変わっていく。


 奴がようやく身を引いた。


 半眼で見つめる。湯気の向こう、火の光がちらついている。


 奴は泉の反対側に戻った。私たちの間に、再び距離が生まれる。


(奴は私に触れた。手当てをした。……私はそれを許した)


 なぜだ?


 * * *


 俺は泉の反対側に座っていた。


 手がまだ震えている。苔の匂いが指にこびりついている。


 魔族を見た。


 半眼で、こちらを見ている。読めない表情。でも、さっきまでとは違う何かがあった。


(俺はあいつに触れた。手当てをした。あいつはそれを許した)


 なぜだ?


 分からない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る