第10話:同族の断絶

 意識が、闇の底から浮かび上がってきた。


 背中に、冷たく濡れた石の感触。背骨せぼねに沿ったうろこに、直接。


 不快――いや、それ以上だ。


(私は……倒れていたのか……?)


 全身の筋肉が痙攣けいれんした。鈍い脈動みゃくどうが身体を内から突き上げ、逆巻く。


 尾が勝手に跳ねた。意図せず。まだ完全には制御下にない。


 あの青い奔流ほんりゅう。あの衝撃。まだ頭の中で音が鳴り響いている――


(この呪われたつながり……まだ叫んでいる……)


 ゆっくりと、痛みながら、体を起こした。片手を洞窟の壁に当てて。


 姿勢が低い。足元が定まらない。ぬるぬるした石にもたれかかり、頭を下げた。視界をはっきりさせようとして。


 まだ駄目だ。まだ揺らめいている。すべてが二重に。歪んで。


 頭蓋ずがいを内側から叩き割られるような痛み。


 ドン……ドン……


 こだま。私のものではない。異質。


(【ヘク人間】の恐怖と病……【トロ聖蝕】が我が身に宿っている。奴の混沌とした思考が精神を蝕んでいく)


(これは【カエレン・トール精神の侵染】か? 死せる【ヘク】の女神の穢れが遺した呪い。深く入りすぎた斥候隊が、共有された思考や夢のささやきを経験することがあるという……)


(だがこれはささやきではない。奔流だ)


(しかも【ヘク】から?)


(不可能だ。倒錯とうさくしている)


 共有された苦痛。引き裂く。望まれない。


 突然、めまいに襲われた。目を閉じたが、映像はまぶたの内側に焼き付いていた。


 体重を移動させると、爪が石にかすかな音を立てた。より安定した足場を見つけようとして。


 空気が重い。押しつぶされそうだ。呼吸しにくい。


 鼻孔びこうを突き刺すような悪臭。【ヘク】の血。鋭い鉄、むかつくような甘さ。


 そしてすべての下に――あの青い悪臭。【グル聖穢】の臭気しゅうき


 石を通して低いうなりが響いてきた。洞窟そのものが私の周りでうめいているようだ。不安定。


 粉塵ふんじんが降ってきた。私の肩に、私の角に冷たい砂利。


 天井からのにじみがより速くなった。あの呪われた青い液体。


 瀕死ひんしの【ヘク】が手にした松明の光に照らされ、それは薄青くかすかに脈打っていた。


 頭をわずかに上げ、状況を把握しようとあたりを見渡した。


 松明はまだ燃えていた。それから死体。三体の【ヘク】。転がり、壊れている。


 そして――奴。もう一人。意識を失っている。近すぎる。私の思考を汚染する源。私をこの精神的な歪みにつなぎとめている者。


(いつから私は意識を失っていた?)


「シャアイラ?」


 声。馴染みのある。鋭い。馴染みがありすぎる。


 それがすべてを切り裂いた。


(ヴァラ――)


 ヴァラの声が朦朧もうろうとした私の意識を引き戻した。


「シャアイラ?」


(ヴァラ……戻ったのか)


 あいつが横道の影から現れた。用心深く。片手を上腕じょうわんにきつく押し当てている。そこから暗い魔族の【コル】が彼女の指の間からにじみ出ていた。


 意識を失っている【ヘク】が私の近くに。滲み出る青い【グル】。


「【シュラク動け】!」


 ヴァラの声は低く、切迫せっぱくした響きを帯びて短く言い放たれた。


 ヴァラが顔をしかめた。負傷した腕をかばうように。


「この傷……手当てを要する。【グル】が【セズ生命力】の治りを妨げている。……【クラッカ氏族】へ報告せねばなるまい」


 意識が霧に閉ざされ、その言葉の切迫感をまるで掴めなかった。【カエレン・トール】からもたらされる【ヘク】のこだまがまだ私の内で渦巻うずまいていた。


 わずかに頭を振った。漠然ばくぜんとした遅い動き。焦点も合わないまま、意識を失った【ヘク】に視線を漂わせた。


「シャアイラ! 正気を取り戻せ!」


 ヴァラが鋭く言った。彼女の声は今はより鋭い。


「【ヘク】を殺せ、それから出るぞ」


 なぜか私は倒れた人間から目を離せなかった。呼吸は浅い。不規則。顔は残った痛みできつく歪んでいた。繋がりがもたらす精神の苦痛か?


(何故……? この【ヘク】を? 敵。同族殺し。弱者。病の器。だというのに……この感覚は何だ?)


 ヴァラは「チッ」と舌を打った。そして迷いのない足取りでこの【ヘク】に向かって歩みを進めた。


「どけ、シャアイラ。この【ヘク】は私が始末する」


 ヴァラは負傷していない手で人間に手を伸ばした。


 ヴァラの影が奴を覆った瞬間――私の本能がそれを拒絶した。激しく、そして腹の底からこみ上げるような衝動で。


(だめだ! そいつに触るな! そいつは……私の……!)


 それは己の判断ではなかった。訓練でもない。意図した思考ですらない。


 ただあらがえぬ命令が、背骨を貫いた。熱く。鋭く。私の意志とは無関係に。


(させられない。させない)


(何故だ!? 敵であり、弱者! この惨状さんじょう元凶げんきょう! だというのに……この抵抗は何だ!?)


(我が身を守る本能か? 否……もっとくつがえしがたい絶対的な命令……)


(これは【グル】の汚染か? それとも【カエレン・トール】が我が心を歪めたのか?)


(……私はもはや私ではないのか?)


 私は動いた。思考より速く、あいつと【ヘク】の間に滑り込んだ。


 立ちはだかるように。即座に低い姿勢を取った。攻撃的に。いつでも動けるよう体重を爪先に集め。


 喉の奥で低くうなった。


(だめ――そいつじゃない! そいつに触れるな!)


 あらがいがたい衝動がすべての本能を上回った。


 手を奴の擦り切れたすりきれた革の上着に押し当てた。尾をゆっくりと振り、【ヘク】の後ろを掃った。


 黒曜石こくようせきの爪が石を擦った。


「待て……」


 私はシューと言った。声は鋭い。


「チッ! こいつは……ただの【ヘク】……だが何かが違う! もう【トロ】だけじゃない……何か別のものが……!」


 異質な本能だけで動いていた。理屈では説明がつかない。


(なぜ動けない? なぜこの【ヘク】を……? 分からぬ! 分からぬが……守らねば……奴を?)


(心の片隅で、ヴァラの言葉に同意する自分が叫んでいる。逃げろ! 生き残れ! 報告しろ! それが【ゾルカー魔族】の道だ!)


(だが他の声、より深く異質な、つながりから生まれた声がこの人間を見捨てることを禁じた)


 緊張した対峙たいじ張り詰めたはりつめた秒が伸びた。


 ヴァラは私の決意と目に映る狂気が本物かどうかを確かめるように、【ヘク】に向かってもう一歩、威嚇的いかくてきに踏み出した。


 歯の間から鋭く息を吸った。その音は低いシューという音。うなりが深まり、胸の低いところで振動した。


 爪が石に対してより大きく擦れた。


 魔族対魔族。


 ヴァラが決断した。


「【シャーラク・コトール裏切り者】!」


 彼女は喉の奥で低く呪った。救いようのない者に吐き捨てる決別の言葉だ。


「その【ヘク】の汚物おぶつと共にここで朽ち果てるくちはてるがいい!」


 彼女は素早く手を振り下ろした。見慣れた動き。もはや救いようのない者を切り捨てる、あの仕草。


 ヴァラは突然私に背を向けた。負傷した腕を掴みながら、示されたトンネルの闘に一人で逃げた。


 足音が急いだ。不均一。薄れていく。


 消えた。


 ヴァラはもういなかった。

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