夜をやり過ごした記録
いすず さら
本稿は、ある夜から朝にかけて自分の中にあった思考と感情を、そのまま書き留めた記録である。
特別な出来事が起きたわけではないし、人生が好転した話でもない。
疲れていた。
理由ははっきりしないが、確かに疲れていた。
夜は、いつも同じ匂いがした。
濡れたアスファルトと、誰にも触れられないまま冷えていく金属の匂い。それに、どこにも行き場を見つけられなかった一日の残り香が混ざって、肺の奥に沈んでいく。
深く息を吸うたび、胸の中に溜まっていたものが少しずつ形を失っていく気がした。
――疲れた。
そう思った瞬間、なぜか笑ってしまった。
辛いとか、悲しいとか、そういうわかりやすい理由はない。ただ、理由のない重さだけが体の奥に溜まっている。それを抱えたまま今日も終わりに向かって歩いている。それだけだ。
今日も僕は笑っていた。
誰かと話して、適当に相槌を打って、何も問題がない顔をして、生き延びた。
だから明日もきっと来る。
希望、始まり、夢。そんな言葉が無理やり詰め込まれた朝が、当然のようにやって来る。
でも、それはいつも僕の少し先にあって、決して同じ場所には立ってくれない。
手を伸ばしても触れられない光みたいに、朝は僕を追い越していく。
最終電車を一本見送ったホームで、僕は立ち止まっていた。
帰れない理由があったわけじゃない。ただ、今すぐ部屋に戻ってしまったら、今日という一日が完全に終わってしまう気がした。
スマートフォンの画面は暗いままだ。
誰にも連絡する気になれなかった。こんな気持ちを誰かに投げつけるつもりはないし、そもそも話す気なんてなかった。
最低だな、と心の中で呟く。
僕の全部が最低だ。
人生は努力ひとつで、ある程度どうにでもなる。
そんな言葉を、いつから疑わなくなったんだろう。
もしそれが本当なら、僕の人生は何なんだ?
努力が足りないだけ? 覚悟がないだけ? 根性がないだけ?
どれも正しそうで、どれも残酷だった。
頭に浮かんだ答えは、ひどく安っぽいものだった。
よくある、つまらないSF映画。
設定だけは立派で、世界観も壮大なのに、肝心なところで何も起こらない。
気がつけばエンドロールが流れていて、観た人の記憶には何も残らない。
そんな人生。
生きていけたら、いつか大人になって、出会う人も増えて、手に入れるものも大きくなる。
そんな未来を、疑いもせずに眺めていた時期が確かにあった。
次は心でも買えたらいいのに、と思う。
今の僕の中にあるものは、全部レプリカだ。本物みたいに見えて、決定的に何かが違う。
理由もなく、ノートを開いた。
書かなければ、壊れてしまいそうだった。
ペンを走らせても、言葉は指の隙間から零れ落ちていく。
幸せも、意味も、形になる前に消えていく。
――そのくらいで、いちいち病むな。
どこかで聞いた声が、頭の奥で再生される。
心が持たないから? そうだね。でもさ、あなたに何がわかるんだ。
他人に寄り添って、励まして、それを良心とか親切とか呼ぶ。
でも、どれもしっくりこない。
それは偽善だ。
人に、他人の痛みが本当にわかるわけがない。
結局は、ただの他人だ。
こんなことを考えているから、だめなんだろう。
わかっている。それでも、吐き出さないと抱えていられない。
ホームに座り込んだとき、足音が近づいた。
同じ学部の先輩――相沢だった。夜遅くまで研究室に残る人で、ここで何度か見かけたことがある。
「まだ帰らないの?」
それだけの言葉だった。
でも、なぜか胸の奥が痛んだ。
気づいたら、口が動いていた。
「……人って、何だと思いますか」
自分でも驚くほど、唐突な質問だった。
相沢は少しだけ考えてから、肩をすくめた。
「わからないもの、じゃないかな」
拍子抜けするほど、簡単な答えだった。
でも、その言葉は不思議と否定できなかった。
電車の音が、遠くで鳴る。
夜はまだ、名前を持たないまま続いていた。
電車が来る気配はなかった。
ホームに吹き込む風が、夜を引き延ばしているみたいだった。
相沢は僕の隣に立ったまま、何も言わない。
気まずさ、というよりも、沈黙そのものを受け入れている感じがした。
「人は、わからないものだって言いましたよね」
僕がそう言うと、相沢は小さく頷いた。
「うん。自分のことですら、よくわからないからね」
その言葉は、慰めでも答えでもなかった。
ただ事実を並べただけ、という響きだった。
僕は線路の奥を見つめた。
闇の中に、何か答えが落ちていないか探すみたいに。
「心から愛せる人を見つけられたら、幸せなんだと思うんです」
言葉にすると、急に軽く聞こえた。
安っぽい理想論みたいで、少しだけ恥ずかしくなる。
「でも、第三者から見たら『よかったね』で終わる話ですよね」
相沢は、少しだけ困ったように笑った。
「そうだね。外から見れば、だいたい全部そうなる」
それは否定でも肯定でもなかった。
むしろ、突き放すでもなく、寄り添うでもなく、距離を保った言い方だった。
「でもさ」
相沢は続けた。
「本人にとっては、人生が丸ごとひっくり返ることもある」
その一言で、胸の奥がざわついた。
それまでに、どれだけの人を好きになっただろう。
どれだけ裏切られて、利用されて、期待して、失望してきただろう。
名前だけが残って、顔も声も思い出せなくなった人たち。
消えていく背中ばかりが、記憶に残っている。
「人って、欲深いですよね」
ぽつりと零れた言葉に、相沢は否定しなかった。
「うん。欲深いし、身勝手だ」
あまりにもあっさりした返事だった。
「自分の欲で、誰かの心を壊すこともある。
気づかないうちに、ね」
それでも、人は誰かのために自分を犠牲にできる。
自分が一番大切なはずなのに。
その矛盾が、どうしても理解できなかった。
「……僕には、わからないです」
声が少し震えた。
寒さのせいにしたかった。
「わからなくていい」
相沢は、はっきりと言った。
「わかろうとして、無理に自分を削るほうが危ない」
その言葉は、正論だった。
でも、正論なのに、なぜか救われる感じがした。
「みんな、わからないまま生きてるよ」
「わかってるふりをしてるだけで」
電車の接近音が響いた。
ようやく、この夜が終わるらしい。
「僕は、普通じゃない気がするんです」
言ってしまってから、後悔した。
重すぎる言葉だった。
相沢は少し考えてから、電車を見つめたまま言った。
「普通って、便利な言葉だよね」
ドアが開く。
「はみ出た人を、一瞬で孤独にできる」
相沢は乗り込む前に、こちらを振り返った。
「でも、ずれてるって思えるうちは、まだ大丈夫だ」
「……どういう意味ですか」
「本当に壊れると、自分がずれてることすらわからなくなる」
電車のドアが閉まる。
相沢は、小さく手を振った。
その仕草が、やけに現実的で、胸に残った。
電車が走り去ったあと、ホームには僕ひとりだけが残った。
静かすぎて、耳鳴りがした。
わからないままでも、生きていていい。
その言葉が、頭の中で何度も反芻される。
信じ切ることはできなかった。
それでも、完全に否定することもできなかった。
夜は、まだ終わっていなかった。
でも、さっきよりほんの少しだけ、暗さが薄れていた。
家までの道は、昼間よりずっと長く感じられた。
同じはずの距離なのに、夜になると世界は伸び縮みする。
歩きながら、相沢の言葉を何度も思い返していた。
わからないままでも、生きていていい。
そんな都合のいい免罪符が、本当に存在するんだろうか。
鍵を開け、部屋に入る。
電気はつけなかった。暗闇のほうが、今の自分には正直だった。
床に座り込むと、急に身体が重くなった。
張りつめていた糸が切れたみたいに、力が抜けていく。
過去は、どこよりも遠い。
そう思う。
時間の流れに置き去りにされたというより、最初から手の届かない場所に隔離されているみたいだった。
――あの時、ああすればよかった。
――ああしなきゃよかった。
何度繰り返しても、答えは変わらない。
どれだけ願っても、過去は戻らない。
僕は、何もしなかった。
正確に言えば、何もできなかった。
傷つくのが怖くて、拒絶されるのが怖くて、失敗するのが怖くて。
だから動かない選択をした。
それなのに、欲だけは一人前だった。
誰かに必要とされたい。
理解されたい。
特別な存在になりたい。
何も差し出さずに、そんなことばかり考えていた。
努力が向いていないことは、ずっと前からわかっていた。
頑張れない自分を、何度も見てきた。
それでも、努力しない自分を許すこともできなかった。
人生に名前をつけるなら、「希望」じゃない。
そんな明るい響きは、僕には似合わない。
もう何年、こんな夜を繰り返しているんだろう。
数えようとすると、途中でわからなくなる。
時間は確かに流れているのに、自分だけが同じ場所に留まっている感覚。
周りの人間は前に進んでいるのに、僕だけが停止している。
普通でいられたなら、と思う。
もっと強かったなら、とも。
普通って何だ。
強さって何だ。
答えは誰も教えてくれない。
目を閉じる。
目蓋を落として、蓋をして、夜が明けないまま眠れたらいいと思った。
眠ることは、逃げることだろうか。
それとも、生き延びるための手段だろうか。
自分を許せたら、楽になれるのだろうか。
問いだけが増えていく。
答えはひとつも見つからない。
生きた先に、何がある。
どうして人は笑っている。
どうして泣くことができない。
どうして全部を話せない。
どうして、どうして。
人生にタイムカードがあるなら、終わりの時間はいつなんだろう。
僕が生きた分の給料は、誰が払うんだろう。
どうでもいい、と言い切れたら楽なのに。
自分も、他人も、世界も。
でも、本当にどうでもよかったら、こんなふうに考え続けたりしない。
胸の奥が、じくじくと痛む。
壊れているのか、壊れかけているのか、それすらわからない。
わからないことだらけだ。
それでも、心臓は勝手に動いている。
夜は深くなり、部屋は静まり返っていた。
この静けさが、少しだけ怖かった。
目を覚ましたとき、部屋はまだ暗かった。
眠ったのか、ただ意識を失っていただけなのかはわからない。時計を見る気にもなれず、身体を起こして壁にもたれた。
夜は、相変わらず僕を置いていく。
抱きしめてくれるわけでも、突き放してくれるわけでもなく、ただ淡々と通り過ぎる。
逃げたい、と思った。
でも、どこへ行けばいいのかわからなかった。
逃げることは弱さだと、どこかで刷り込まれてきた。
最後まで立っている人間だけが、価値を持つみたいな顔をして。
だけど、本当にそうなんだろうか。
溜め込みすぎると、人は壊れる。
それを、頭では理解している。
それなのに、苦しいって言えない。
辛いって口にするだけで、何か大切なものを失ってしまう気がして。
誰にも演じず、仮面もつけず、ただ泣ける場所。
そんな場所が、この世界のどこかに本当に存在するんだろうか。
ふと、相沢の顔が浮かんだ。
わからなくていい、と言ったあの声。
逃げる場所は、人それぞれ違う。
それはきっと、地図に載っていない。
人だったり、時間だったり、夜そのものだったり。
あるいは、こうして言葉を書き留めることなのかもしれない。
ノートを開く。
昨夜の文字が、少し歪んだ字で残っていた。
読み返すのは怖かった。
でも、消してしまうのはもっと怖かった。
ここにある言葉は、確かに僕の一部だ。
偽物でも、レプリカでも、それでも僕が生きていた証拠だった。
泣きたい夜もある。
傷つく夜も、何度もあった。
それをなかったことにしてきたから、こんなにも息が苦しいのかもしれない。
気づいてほしい、と思う。
誰かに、じゃない。自分自身に。
――もう無理だよ。
――よくやったよ。
そんな言葉を、自分に向けて言えたことが、これまで一度でもあっただろうか。
カーテンの隙間が、わずかに白んできている。
朝が近づいていた。
相変わらず、希望に満ちた顔をしているんだろう。
それでも今日は、昨日ほど憎くはなかった。
逃げてもいい。
そう思えたことが、ほんの小さな変化だった。
逃げることは、終わりじゃない。
壊れないための選択肢だ。
僕はまだ、どこへ逃げるのか決められていない。
でも、逃げていいと自分に許しただけで、胸の奥が少しだけ緩んだ。
夜は、もうすぐ終わる。
それでも、完全には消えない。
この夜を、無理に忘れなくていい。
思い出にしなくてもいい。
ただ、抱えたままでも生きていける。
そんな可能性が、ほんのわずかに見えた気がした。
朝は、何事もなかったみたいな顔をしてやって来た。
カーテン越しの光は柔らかくて、昨夜の重さを嘘みたいに隠してしまう。世界は、今日も正常に動いているらしい。
それが少し、腹立たしかった。
生きた先に、何があるんだろう。
そんな問いに、朝は何も答えてくれない。
どうして人は笑っているんだろう。
どうして泣くことができないんだろう。
どうして全部を話せないんだろう。
答えのない「どうして」が、胸の奥に溜まっていく。
人生にタイムカードがあるなら、終わりの時間はいつなんだろう。
僕が生きた分の給料は、誰が払うんだろう。
馬鹿みたいな問いだ。
でも、真剣だった。
自分も、他人も、世界も、どうでもいいと言い切れたら楽なのに。
それでも、こうして朝を迎えてしまった。
普通じゃない、と何度も自分を切り離そうとした。
みんなとはずれている。強くない。
だけど、普通でいることが、そんなに正しいんだろうか。
強くなれない人間は、生きる資格がないんだろうか。
答えは出ない。
たぶん、この先も出ない。
それでも、ふと思う。
もし自分を許せたなら、少しは楽になれるんじゃないか、と。
許すって、何をすることだろう。
頑張れなかった過去を?
逃げた自分を?
何も選べなかった時間を?
全部一度に許すなんて、無理だ。
そんな器用さは持っていない。
だから、今日はひとつだけにする。
生きていることを、否定しない。
それだけでいい。
昨日の夜、確かに苦しかった。
それでも、壊れずに朝まで来た。
それは、何かを成し遂げたわけじゃない。
前に進んだとも言えない。
でも、生き延びた。
それだけで、今日は十分だと思うことにする。
逃げる場所は、きっとこれからも見つからない。
それでも、逃げてもいいと自分に言えるなら、少しだけ世界は違って見える。
泣きたい夜も、傷つく夜も、これからも来る。
そのたびに、またわからなくなる。
それでもいい。
わからないままでも、生きていける。
朝は、僕を祝福しない。
でも、拒絶もしなかった。
それで十分だ。
僕はノートを閉じる。
夜が完全に消える前に、名前をつけないまま。
いつか、怖くないって笑える日が来るかどうかはわからない。
それでも、今日の朝は、昨日よりほんの少しだけ静かだった。
夜をやり過ごした記録 いすず さら @aeonx
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