第2話 噛ませ犬の流儀

 再び目が覚めた時、窓の外はすでに明るくなっていた。

 小鳥のさえずりと、カーテンの隙間から差し込む柔らかい朝の光。

 極上の目覚めだ。

 頭の痛みは鈍い重さに変わっているが、昨夜のような脳を直接焼かれるような激痛はない。


「……夢、じゃなかったか」


 俺は軋むベッドから重い体を起こし、ふらつく足取りで部屋の隅にある姿見の前に立った。

 磨き上げられた銀枠の鏡。そこに映っていたのは、やはり俺ではなかった。

 輝くような銀灰色の髪は、朝日に透けてプラチナのように煌めいている。肌は病的なまでに白く、陶器のように滑らかだ。

 切れ長の瞳は、血のように深い真紅。

 鼻梁は高く通り、唇は薄く形の良い孤を描いている。造作は整いすぎているほどに美しく、黙っていれば絵画から抜け出してきた堕天使のようだ。

 ただし、その瞳だけが、この世の全てを面倒くさがっているかのように半開きで、死んだ魚のような光を宿している点を除けば。


「……ヴァン・アークライト」


 俺は鏡の中の少年に向かって、その名を呟いた。

 記憶の奥底から、自分の名前としてその響きが馴染む感覚がある。違和感と納得感が同時に押し寄せる、奇妙な感覚だ。


 状況を整理しよう。

 俺――日本のしがないサラリーマンだった男は、実家の大掃除中に殺虫剤の缶を踏んで転倒し、頭を強打して恐らく死んだ。

 そして同時刻、この世界の「ヴァン」もまた、ドジっ子メイドの不慮の事故によって頭を打ち、意識を失っていた。

 そのタイミングで魂が入れ替わったのか、あるいは俺の記憶が上書きされたのか、はたまた前世の記憶が蘇ったのか。

 いずれにせよ、今の俺はヴァン・アークライトとしてここに存在している。


 俺は鏡に映る自分の頬を強めにつねってみた。


「……痛い」

 次に、無駄に長い銀髪を指で梳いてみる。サラサラとした感触。

 前世が天然パーマに悩まされていたので、これは素直に嬉しい。

 そして、シルクのパジャマのボタンを外し、自分の胸板を確認する。

 線は細いが、意外と筋肉がついている。手のひらには剣ダコらしき硬い皮膚の感触。

 これは、作り物じゃない。VRでも夢でもない、紛れもない現実だ。


「……はぁ」


 深いため息が、広い部屋に虚しく響いた。

 現実を受け入れるしかない。

 俺は今日から、このキザで性格の悪そうな貴族のボンボンとして生きていかなければならないのだ。

 元の世界に戻る方法は皆無。あのファンタジー然とした「回復魔法」を見た時点で、ここが物理法則の異なる世界であることは明白だ。

 なら、どうする?

 記憶喪失だと正直に打ち明けるか?

 いや、それは危険だ。「悪魔に乗っ取られた」と判断されて教会で浄化されるかもしれないし、あるいは「発狂した」として地下牢に幽閉され、貴族社会から排除される可能性もある。

 当面は、記憶が曖昧なフリをしつつ、少しずつ情報を集めるのが得策だろう。


 問題は、このヴァンの性格だ。

 鏡の中の男は、いかにも不機嫌そうで、傲慢さを隠そうともしない顔つきをしている。

 いきなり「おはようございます、今日もいい天気ですね! 朝ごはんは何ですか?」などと爽やかに挨拶したら、それこそ狂ったと思われるに違いない。

 使用人たちが俺を恐れていたあの反応からしても、普段のヴァンは相当な暴君か、あるいは陰湿な俺様キャラだったはずだ。


 俺は鏡に向かって、顎を少し上げ、目を細めてみた。


「……おい、水を持ってこい」

「……遅いぞ、愚図どもが」

「私の視界に入るな、三流が」


 いくつか台詞を練習してみる。

 驚くほどしっくりきた。どうやら、この身体には「偉そうな態度」と「人を小馬鹿にした視線」がプリインストールされているらしい。

 よし、方針は決まった。

 基本スタンスは、貴族の地位にふさわしい「傲慢で気怠げな態度」。

 これなら、多少ボロが出ても「機嫌が悪い」で押し通せるはずだ。

 内心はビクビクしていても、外見の性能に頼ればハッタリは効く。俺は社会人生活で「やったことがない仕事でも、とりあえず自信満々に頷いておく」スキルを磨いてきたのだ。その応用だと思えばいい。


 その時、コンコンと控えめだが芯のあるノックの音がした。


「ヴァン様。お目覚めでしょうか。お着替えをお持ちしました」


 昨夜、ドアを蹴破って入ってきたメイド長、ベロニカの声だ。


「……入れ」


 努めて低い声で、尊大に応答する。


 ガチャリと重厚なドアが開き、ベロニカが入室してくる。

 改めて見ても、彼女は息を呑むほどの美人だった。

 朝の光を浴びた彼女は、昨夜の鬼気迫る形相とは打って変わり、冷涼な美しさを湛えている。

 整えられたプラチナブロンドに近い金髪は、一糸乱れぬシミニョンにまとめられ、うなじの白さと首筋のラインの美しさを際立たせている。

 銀縁眼鏡の奥にある知的な瞳は、宝石のアイスブルーそのものだ。

 身体のラインを強調するタイトなロングスカートのメイド服は、彼女の豊満でありながら引き締まった肢体を包み込んでおり、歩くたびにスカートのスリットから黒ストッキングに包まれた艶めかしい足がのぞく。

 まさに「氷の女王」といった風情だが、その手に持っているのは、温かい湯気が立つ洗面器とタオルだった。


「お加減はいかがですか。昨夜は……少々、取り乱してしまい申し訳ありませんでした」


 ベロニカはベッドサイドに洗面器を置き、流麗な所作でお辞儀をした。

 その際、豊かな胸元が重力に従ってわずかに揺れるのを、俺の目は無意識に追ってしまう。男の悲しい性だ。


「……頭が少し重いが、問題ない」

「左様ですか。傷は完全に塞がっておりますが、念のため本日は安静になさってください」


 彼女は慣れた手つきで蒸しタオルを絞り、俺の顔を拭き始めた。

 温かい。そして、彼女から漂う微かな石鹸の香りと、大人の女性特有の甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

 こんな超絶美人に世話を焼かれるなんて、前世では考えられない役得だ。

 だが、俺の心にある疑念が、その快楽を冷や水を浴びせるように打ち消した。


 ベロニカの顔。

 そして「回復魔法」という言葉。

 この中世ヨーロッパ風の世界観。

 さらに、自分の名前がヴァン。

 これだけの材料が揃えば、もう疑いようがない。

 ここは、前世で見たあのゲーム――『エターナル・クロニクル』の世界だ。


(……待てよ。だとしたら)


 冷や汗が背中を伝う。

 俺の記憶にある『エタクロ』の情報は、断片的だ。ストーリーの詳細はほとんど覚えていない。

 だが、自分自身の役割と、俺を殺しに来る重要人物のことだけは強烈に覚えている。

 ヴァン・アークライト。

 主人公のライバルを気取り、事あるごとに突っかかっては返り討ちにされ、最終的には魔族に魂を売って無様に散る「噛ませ犬」。

 そして、その処刑人となる二人の存在。

 一人は、「断罪の皇女セレスティア」。

 もう一人は、「主人公」だ。


 脳裏に、あの陰鬱なイベントシーンがフラッシュバックする。まるで映画の予告編のように、鮮烈な死のイメージが再生される。


 ――『貴様のようなゴミは、私の視界に入るだけで不愉快だ』

 ――『死ね。慈悲はない』


 暗い地下室のような場所。

 冷たい石畳に這いつくばるヴァン。四肢を切断され、芋虫のように転がる自分の姿。

 その首元に突きつけられる、冷ややかな刃の感触。

 見下ろすセレスティアの瞳には、虫けらを見るような侮蔑の色。

 そして、視界を埋め尽くす鮮血――。


「――ッ!!」


 俺は弾かれたように叫んだ。


「ふざけんな!!」

「ヴ、ヴァン様!?」


 顔を拭いていたベロニカの手を振り払い、俺はベッドの上で暴れた。

 恐怖。圧倒的な死の予感。

 そうだ、やはり間違いない。俺はヴァンになったのだ。そして、このままでは間違いなく「処刑」される。

 主人公に倒された後、無様に命乞いをして惨殺されるか、あるいはヒロインの誰かに八つ裂きにされるか。

 どのルートを通っても、ろくな死に方をしない。それが「噛ませ犬」の宿命。


「俺は死にたくない! なんで俺が! よりによってこんな奴に!」

「ヴァン様、落ち着いてください! 錯乱なされたのですか!?」


 ベロニカが俺の体を押さえ込もうとする。

 だが、パニックになった俺の力は火事場の馬鹿力だ。シーツを引っ掻き、枕を投げ飛ばす。


「離せ! 俺は逃げるぞ! 田舎に帰るんだ! こんな死亡フラグだらけの場所にいられるか!」

「いけません、傷が開きます……っ、失礼します!」


 ベロニカの瞳が鋭く光った。

 次の瞬間、視界が回転した。


 ドンッ!


 俺はベッドにうつ伏せに組み伏せられ、背後からベロニカに羽交い絞めにされていた。

 柔らかい感触と、鋼のような拘束力。

 彼女の豊満な胸が背中に押し付けられ、華奢に見える腕が俺の腕を逆にひねり上げている。関節技だ。完全に極まっている。

 彼女の腕は、俺の動きを完全に封じていた。びくともしない。戦闘系のメイドなのか、こいつは。


「くっ……離せ……!」

「落ち着かれるまで離しません。深呼吸をしてください、ヴァン様」


 耳元で囁かれる凛とした声。

 彼女の吐息が首筋にかかり、別の意味で心臓が跳ねる。

 抗えない暴力的なまでの美と力。物理的な拘束と、彼女の冷静な対応によって、俺のパニックは急速に冷やされていった。


「……はぁ、はぁ……」


 荒い息を整える。

 そうだ。まだ死んだわけじゃない。

 今はまだ、ゲームの開始前かもしれない。あるいは序盤だ。

 俺には知識がある。

 確定した未来なんてない。俺が動けば、結末は変えられるはずだ。

 「目立たず、揉めず、働かず」。

 この精神を貫けば、死亡フラグを回避して、穏やかな老後を迎えられるかもしれない。


「……すまない、取り乱した。悪い夢を見たんだ」


 俺は力なく告げた。

 ベロニカはしばらく俺の様子を窺っていたが、抵抗の意志がないことを確認すると、ゆっくりと拘束を解いた。


「……悪い夢、ですか。昨夜の衝撃で、神経が過敏になっているのかもしれませんね」


 彼女は乱れた衣服を整えながら、少しだけ頬を赤らめていた。

 俺を組み伏せた際のアクションが、少々刺激的すぎたという自覚があるのかもしれない。あるいは、主君に対する不敬な行いを恥じているのか。


「少し、頭を冷やしたい。……誰か、事情に詳しい者を呼んでくれないか。今の俺は、昨日のことすらよく思い出せないんだ」


 俺は記憶の混濁をアピールした。

 ベロニカは心配そうに眉を寄せたが、すぐに頷いた。


「承知いたしました。執事のセバスを呼びましょう。彼なら、家のことも領地のことも全て把握しておりますから」


 数分後。

 部屋に入ってきたのは、白髪をオールバックになでつけた、初老の男性だった。

 燕尾服を隙なく着こなし、片眼鏡をかけたその姿は、まさに「THE 執事」。

 名前はセバス。

 彼はベッドの脇に立つと、恭しく一礼した。


「おはようございます、ヴァン様。ベロニカより、記憶が定かではないと伺いましたが……」


 その声は渋く、重厚な響きがある。だが、その瞳には探るような光があった。忠誠心はあるだろうが、決して侮れない古狸といった雰囲気だ。


「ああ。頭を打ってな。自分の名前と、ベロニカの顔くらいしか思い出せん。……ここはどこで、俺はどういう立場の人間なんだ?」


 俺は直球で尋ねた。

 セバスは眉一つ動かさず、淡々と説明を始めた。


「ここはアークライト伯爵家の屋敷。王都から馬車で3日ほどの距離にある、ルミナス平原を治める領主の館でございます」


 ルミナス平原。聞いたことがないが、窓の外に見える広大な麦畑を見る限り、かなり豊かな土地らしい。穀倉地帯を抑えている貴族というのは、それだけで権力があるものだ。


「ヴァン様は、現当主ゲオルグ・アークライト伯爵の次男にあたらせられます」

「……次男?」


 俺は心の中でガッツポーズをした。

 次男! 素晴らしい響きだ。

 家督を継ぐ責任はなく、かといって平民のような苦労もしない。

 貴族の地位を利用して、適当な役職に就いてのらりくらりと生きるには最高のポジションじゃないか。


「家族構成はどうなっている? 俺の他に兄弟は?」

「はい。まず当主である父君ゲオルグ様。そして継母であらせられるマリア様。ご兄弟は、長男のカイン様と、長女のエレナ様がいらっしゃいます」


 姉もいたのか。


「姉上はどうしている?」

「エレナ様は2年前に、隣領の辺境伯へと嫁がれました。現在は領地を離れておられます」


 なるほど、姉はすでに家を出ているのか。なら、家督争いには関係なさそうだ。


「で、兄貴がいるんだよな。なら、家を継ぐのはカイン兄さんか。俺は気楽なもんだな」


 俺が軽口を叩くと、セバスの表情が曇った。

 沈黙。

 部屋の空気が、急激に重くなる。温度が一度下がったような錯覚すら覚える。


「……何か間違ったことを言ったか?」

「……ヴァン様。記憶を失われているとはいえ、そのようなご冗談を」


 セバスは困惑と、微かな呆れを含んだ声で言った。


「当主の座を継がれるのは、ヴァン様。あなた様です」

「は?」


 俺の声が裏返った。


「なんでだよ。長男がいるんだろ? 普通は長男が継ぐもんじゃないのか?」

「カイン様は……その、お立場が複雑でございますゆえ」


 セバスは言葉を濁したが、要約するとこういうことだった。


 アークライト家の内情は、典型的な貴族のドロドロ劇だった。

 父ゲオルグ、継母マリア、兄カイン、嫁いだ姉エレナ、そして俺。

 実母は数年前に病死している。

 兄のカインは、父と「身分の低い側室」との間に生まれた子であり、しかも「魔力をほとんど持たない」という致命的な欠陥を抱えているらしい。

 対してヴァンは、由緒ある家柄出身の正妻の子であり、幼い頃から強大な魔力の片鱗を示していた。

 この世界――特に貴族社会では、血統と魔力が絶対的な価値を持つ。

 そのため、長男であるカインは「長子」でありながら冷遇され、次男であるヴァンが「正当な後継者」として育てられてきたのだという。


「……マジかよ」


 俺は頭を抱えた。

 気楽な次男ライフ、終了。

 いきなり「次期領主」という重責を背負わされていた。

 しかも、この設定……どう考えても「兄との確執」があるパターンだ。魔力のない兄と、天才肌の弟。嫉妬と憎悪の温床にしかならない。


「俺とカイン兄さんの仲は?」

「……決して、良好とは言えませんでした。ヴァン様はカイン様を……『魔力なしの出来損ない』『卑しい血』と呼び、事あるごとに見下しておられましたので……」


 セバスは言い淀んだが、それ以上聞かなくても分かった。

 ヴァン、お前という奴は。

 典型的な嫌な奴じゃないか。これ、兄貴が闇落ちして復讐に来るフラグだろ。あるいは、兄貴が魔王軍と手を組んで俺を殺しに来る未来しか見えない。


 俺が自分の撒いた種に絶望していると、廊下から再び足音が近づいてきた。

 先ほどよりも慌ただしい、ベロニカの足音だ。

 彼女はノックもそこそこに、少し息を切らせて入室してきた。


「ヴァン様。旦那様が――ゲオルグ様が、お戻りになられました」

「親父殿が?」

「はい。昨夜の騒ぎを聞きつけ、領内視察を切り上げて急遽帰還されたようです。……今すぐ、書斎に来るようにと」


 父との対面。

 胃がキリキリと痛み出した。

 厳格な当主。魔力至上主義の父親。

 そんな人物の前に、中身が入れ替わった今の俺が出て行って、ボロを出さずにいられるだろうか?

 いや、行くしかない。

 俺は覚悟を決めてベッドから降りた。

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