#月替わり物語

翡翠

アイドル信仰 (1月のお題「信仰」)

 土井友加はひとり、大きな溜息をついた。見上げた先には雲一つ無く、空の高さを思い知れと言わんばかりの青が高層ビルを見下ろしている。

「カナタくん、信じてるからね……」

 新進気鋭の男性アイドルグループに所属する十九歳、久地くじ奏汰の「殺人疑惑」が世に知れ渡ったのは、つい昨夜のことだった。『スタキン・KANATAに捜査の手! 被害者Hとの因縁も判明!?』と題したネット記事は瞬く間に拡散され、その名は一夜にして界隈の外にまで知られることとなった。

 被害者Hとは、スタキンことStar☆Kingsスターキングスのライバルグループに所属していた二十二歳、空弥大和そらやひろかずのことだ。先月の中頃から連絡が取れず行方不明となっていた彼は、その二週間後に山中から遺体で発見された。警察の捜査が進み、殺人の可能性が高いと発表されたのが先週の水曜日。様々な犯人像が噂されていたが、故人のプライベートを漁るような話ばかりで、熱を上げる人間と非難する人間で二極化していた。何人か芸能人の名前も挙げられていたが、その中に久地はおろか、Star☆Kingsのメンバーは一人もいないはずだった。

 ところが昨夜のネット記事で、久地が警察の任意同行に応じたことや、空弥とプライベートで交流があった事実を認めたことなどが広められてしまった。ご丁寧に、署に入る久地の後ろ姿を捉えた「証拠写真」付きだ。記事には警察関係者からの情報として他にも久地の証言がいくつか書かれていて、それによると二人の間には金銭トラブルが発生していたらしい。とは言え、その気になればどうとでも言えてしまうネット記事の「関係者」は、本当に関係者であるか疑わしい。眉唾ものだと考える土井は、その苛立ちから本当に唾を吐いてやろうかと思ったくらいだ。誹謗中傷こそしないものの、土井は完全な久地擁護派の一人だった。

 ネットの反応は当然ながら様々で、記事を信じて久地を糾弾する者、ドラマのようだと面白がっている者、久地を信じて記事の取り下げを申し立てる者もいる。記事サイト盲信派と久地の擁護過激派は、こうして土井がバス停へ向かっている間にも、互いに罵詈雑言を浴びせ合っているのだろう。肝心の久地は沈黙を貫いており、そのことも対立を激化させる要因の一つになっている。どこの誰とも知れない第三者の言葉ばかりが氾濫し、前後左右も分からない。

『カナタくんの言葉でちゃんと否定してほしいよ。苦しい…………』

 普段は十人も見ていないような零細アカウントにも、アンチたちは虫のように湧いて出てくるらしい。

『この期に及んでまだ信じられるのがすごい』

『盲目信者』

『人殺し祀り上げてどうすんだ笑』

 送られてきたコメントを片っ端から通報していたら、いつの間にか職場の最寄りに到着している。土井はまた大きく、朝だけで何度目かも分からない溜息をついた。

 席に着いても、始業のベルが鳴っても、土井の頭の中は久地を巡る議論でいっぱいだった。

『──と申しますが、ドイ様はいらっしゃいますか?』

「……いえ、弊社にそのような名前の者は……」

『あれ? でも……』

 休憩明けに出た一本の電話。その向こうからは不安そうな、それでいて怪訝そうな声が返ってくる。土井はその言葉にハッとした様子で、相手には見えもしないのに思わず背筋を伸ばした。

「すみません。もしかして、土に井戸の井ですか」

『あ、はい。そうです。ドイ……トモカ様』

「紛らわしくてすみません。それ、ツチイですね。ツチイユウカ。私です」

『えっ、あっ……申し訳ございません』

「いえ、大丈夫です。同じ字でドイと読む方が圧倒的に多いですし、名前もどちらでも読める字ですから」

 今の相手先を担当しているのは土井の他に一人しかいない。それに、ドイと読み間違われることも少なくない。向こうの担当者が代わったらしく聞き覚えのない声ではあったが、社名と合わせれば自分宛の連絡だとすぐに分かったはずだ。普段では考えられないほど頭が回っていない事実を、土井は痛感した。

「ともちゃん、大丈夫?」

「あっきぃ……」

 二度目の休憩に入る頃、土井は自分に向けられる視線がいつもより多いことに気が付いていた。しかし、今の土井にそれを気にし続ける余裕は無く、深く考えることまではしていなかった。

「全然大丈夫じゃないよぉ、助けてあっきぃ……」

 あっきぃと呼ばれたベリーショートの女性──宮原あきらは、土井の同僚兼友人であり、土井の身近にいる唯一の「同士」だ。

「だろうね。一応聞いてみただけ。ヤマさん達も心配してるよ、今日のあいつは様子がおかしいって」

 土井と宮原の仲が良いのは周知の事実だからだろうか、土井の上司や同僚たちは、わざわざ宮原に事情を聞きに行っていたらしい。なるほど視線の多さはそういうことかと、土井はぼんやり考える。

「なんて答えたの?」

「土井の大切な人が音信不通なので、心配なんだと思いますって」

「大切な人……」

「嫌がるかもなとは思ったけどさ、彼氏のことだって勘違いされてた方が余計な追及されなさそうだなと思って」

「それはまぁ、確かに……」

 不服そうだなあ、と笑いながらコーヒーを啜る宮原に礼を言う。不服はあるが、もちろんそれは宮原にではない。推しを彼氏と勘違いしてもらわねばならない、この最悪の状況に対してだ。

「カナタくんはさぁ、太陽なんだよ」

「うん。だから私たちが近付ける存在じゃない、でしょ?」

「うん……」

 土井が久地に出会ったのは三年前。元彼の浮気に友人との絶交、愛猫の死までが重なって、全ての気力を失っていた時だった。何気なく見ていたテレビに映る久地の真っ直ぐな目と、屈託の無い笑みに釘付けになった。

 その日から、土井の日常は久地のためのものになった。食費も光熱費も交際費も切り詰めるだけ切り詰めて、その分スタキンのアルバムを買えるだけ買った。行けるだけのライブに行き、人が引くほどのグッズを買った。一度栄養失調で倒れてからは流石にもやしと豆苗だけで生きることは諦めたが、それだって「死にたくないから」ではなく、「死んだら貢げないから」だった。誰が何と言おうと、土井は満足だった。

「あんなふうに笑えるカナタくんに悪いことなんてできるわけないじゃん……」

 失意の底に沈んでいた自分を引き上げてくれた久地のことを、土井は太陽と呼ぶ。本当はグループ名にちなんでメンバーごとに星が割り当てられているけれど、彼は一等星とは違う。遥かに近くて、それでいて手を伸ばすことを許されないほど、圧倒的な明るさを誇る星。だから、太陽。

「そうだよ! カナタくんが誰よりも真剣にグループのこと大切にしてくれてたの、私たち他担もずっと見てたもん。みんな殆ど信じてないよ」

「あっきぃ……」

「よし、今日は私がともちゃんの推し語り黙って聞いててあげる。カナタくんの良いとこいっぱい教えて」

「うん……!」

 宮原の優しさに縋るように、土井は時間いっぱいまで喋り続けた。出会ってから今までの久地のパフォーマンスやその成長、好きな仕草、声、顔、手、身体つき、メンバーとの関係性。昨夜からの疑念も怒りも滑り込む余地など無いほどに、絶え間なく言葉を並べ続けた。

 その後なんとか一日を終えた土井は帰りのバスに乗り込むと、すかさずスマホを開いた。いくつか久地のSNSアカウントを確認するが、いずれも更新は無い。代わりに、その名が再びトレンドワードに上がっているのを発見した。

「え、何?」

 慌てて火種を辿る。程なくして土井の視界に入ったのは、『スタキン・KANATAが逮捕目前!? 防犯カメラ映像にファン「間違いない」』と題した新しいネット記事だった。

「何、これ…………」

 身体の全てが記事を拒絶する。動悸がする。自分の心臓が「うるさい」と思ったのは初めてだ。それでも指が動いてしまう。サイトを開く。大きな字で書かれた表題。息が詰まる。スクロールすると出てくる写真。見覚えのある後ろ姿。これは、本物?

「嫌……」

 慌てて本文に目を移すが、記事に何が書いてあるのか分からない。よく知る言語のはずなのに、目が滑って頭に入らない。知らない単語じゃないのに、うまく理解ができない。それでも土井はスクロールの手を止めない。いや、止められない。

「……嘘だ」

 別角度からの写真が目に入った途端、土井は頭の中で何かが切れるのを感じた。それはまるで、喧騒の中にいながら自分だけ丸く切り取られたかのような、唐突で決定的な静寂だった。写っているのは紛れもなく、その熱で三年間土井を焦がし続けた男の顔だ。

「嘘だ…………!」

 そうだ、全て嘘だ。土井は夢から覚めたかのような鮮明さを覚えた。これだ、と思った。これこそがだ、と。事実がどちらかなど関係が無い。なぜなら彼は、彼だけが、土井の救世主メシアなのだから。

 土井の頭の中に、もはや事件の重大さを理解するだけの隙間は無かった。人ひとりの命が永遠に喪われた現実も、その後多くのファンが後を追う事態となったことも、何もかもがどうでも良かった。

「誰かがカナタくんを陥れようとしてるんだ」

 声が震える。今はフェイク動画が作れてしまう時代だ。写真の合成技術だって、素人目ではそうと分からないほど進歩している。だからこれは偽物なのだと、土井は頭の中で繰り返す。他の誰がどれだけ離れていこうと、自分だけは信じていなければならない。あの日見た光を、自分だけは疑ってはいけない。彼は無実でなければならない。それがファンとしての願望なのか、はたまた救われた者の義務感なのか、土井にはよく分からなかった。

『次は、日向町ひむかいちょう七丁目、日向町七丁目。お降りの方はお知らせ願います』

 爽やかなアナウンスと共に、バスが土井の降りる停車場に近付いている。けれど、その声が土井に届くことはない。バスの扉の開閉音も、発車の合図も──自分が何を呟いているのかさえも。

「殺す。殺す殺す殺す殺す」

 土井の脳裏には、今この瞬間もあの日の久地の姿が鮮明にある。他の誰より煌めいて見えたその瞳が、画面越しにほんの一瞬交わった視線が、土井を捉えて離さない。

「カナタくんを返せ……カナタくん、カナタくん……」

 厚い黒雲が覆う空には、星も月も見当たらない。明日の朝昇る太陽も、泣き濡れる土井を照らしはしないだろう。

 いつかこの雲が切れる時、そこに変わらず陽が射すか否か、まだ誰にも分からない。




この物語はフィクションです。実在する人物や団体とは一切関係がありません。

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