悪役令嬢は愛を信じない 〜氷の帳簿と侯爵の算盤〜【読切版】

西嶽 冬司

【悪役令嬢の論理的婚姻交渉】



王都ジルシュタットの空気は、石炭の煙と権力の匂いが混じり合っていた。


社交シーズンの只中にあるこの街では、馬車の往来が絶えることがない。

宮廷貴族たちは夜会に興じ、商人たちは相場の変動に一喜一憂する。

そして平民たちは、銅貨クロイズ——貴族たちが『卑銭ラッツェ』と呼ぶ小銭——を握りしめて市場を歩く。


そんな喧騒とは無縁の静謐が、リーフェルト侯爵邸の応接間には満ちている。


イルムガルト・フォン・リーデンは、通された部屋の隅々までを『鑑定』した。


彼女の視線が最初に捉えたのは、壁際に置かれたマホガニーの机。

木目は緻密で、表面の仕上げには一切の曇りがない。

これは 執事が毎日、適切な油を用いてメンテナンスを行っている証拠。

労働時間の配分が最適化されていなければ、この品質は維持できない。

つまり、使用人管理が行き届いている示唆だ。


床に敷かれた絨毯は、東方諸国製の逸品。

深い紺色の地に、金糸で幾何学模様が織り込まれている。

輸入品ゆえの関税と輸送費を考慮すれば、一枚だけで数十金貨ダケットの価値がある。

平民一家が十年は暮らせる金額だが、単なる見栄ではない。

この部屋で対峙する他家へ、『支払能力』と『格付け』を無言で示す戦略的備品だ。


壁には、先代侯爵の肖像画。

油彩の筆致は確かで、おそらく王都でも名の知れた画家の手によるものだろう。

額縁の金箔は丁寧に手入れされ、絵画そのものの保存状態も良好。

家門の歴史を可視化し、心理的圧力をかける——古典的だが効果的な手法だ。


イルムガルトは脳内で、調度品一つ一つに対する詳細なデータを瞬時に弾き出す。

購入価格、輸送コスト、維持費、そして耐用年数。

それらを合わせれば、この一室の維持に必要な年間経費が、おおよそ算出できる。


「固定資産の管理は完璧」


イルムガルトは内心で満足げに頷いた。

だが視線が机上の花瓶に移った瞬間、その柳眉がわずかに動く。


クリスタル花瓶には、深紅の大輪の薔薇が活けられていた。

この季節に咲く品種ではない。 温室で育てられ、王都まで輸送されたものだろう。

花弁は今が盛りで、芳香を惜しみなく放っている。

確かに心地よい香りだが、イルムガルトの頭の中では別の計算が走っていた。


温室の維持費。

専門の園丁の人件費。

王都までの輸送費用。

そして、切り花としての寿命。


「この季節に大輪の薔薇を、これほど贅沢に活けるなんて……。

 明後日には萎れて廃棄ロスになる。 美観への費用対効果が短期的すぎるわ」


彼女がその『損失』を脳内の帳簿に記録した時、重厚な扉が音を立てて開いた。


「待たせたかな、アイゼルク辺境伯令嬢」


その声に、イルムガルトは微かに視線を動かした。


リーフェルト侯爵——アルブレヒト・フォン・シュトロベルが姿を現す。


イルムガルトは反射的に椅子から立ち上がり、完璧な礼法を披露した。

背筋は定規で測ったように真っ直ぐ。

視線の角度は相手の胸元。敬意を示しつつも、卑屈にならない位置に固定。

手の位置、裾の流れ、膝を曲げる角度——すべてが社交界の作法書通りの所作。


しかし、そこには体温がない。


形式美を完全に遵守しながらも、自らの感情を一切介在させない。

精緻に計算された動き。 礼儀ではなく、むしろ儀式に近い。

あるいは、機械仕掛けの人形が行う模倣だ。


「いいえ、閣下。 ちょうど貴邸を拝見し、感銘を受けていたところです。

 特にこの絨毯の毛足の揃い方は、管理者の執念を感じますわ」


「社交辞令を絨毯の毛足で返すレディは、君が初めてだな」


アルブレヒトの唇が、皮肉めいた、だがどこか楽しげな弧を描く。

その声には嘲りではなく、むしろ純粋な興味のようなものが含まれていた。


イルムガルトは目の前の男を観察した。


侯爵は、彼女の記憶にある男性貴族たちの誰とも異なっている。


装いは洗練された仕立ての良い服で統一。

だが過度な装飾はない。 実用と品位の両立。

髪も爪も手入れが行き届いている。

靴底が床を叩く音すら、一定のリズムを刻んでいた。

泥一つ付着していない徹底ぶりは、まるで完璧に整理された帳簿を具現化。

二十三歳という若さながら、その瞳には、冷徹な合理性が宿っている。


——悪くない——


何よりも『信頼できそう』だ。

リーフェルト侯爵領は安定した農業地帯、交易路の関税、都市からの地代収入を持つ豊かな土地だが、構造が複雑で管理コストが高い。

自分の実務能力が活きる舞台としては申し分ない。


彼女の内部で、契約締結に向けた期待値がぐんと上昇した。


二人は対面のソファに座った。

侍従が紅茶を運んできたが、イルムガルトはそれに手をつけなかった。 アルブレヒトも同様だ。


「本日はお時間をいただきありがとうございます。

 早速ではございますが、わたくしの能力と、貴家への貢献度について、具体的な数字を以てご説明差し上げたく存じます」


挨拶もそこそこに、イルムガルトは傍らに置いた革鞄から、厚い書類の束を取り出した。

彼女が差し出したのは、『アイゼルク辺境伯領 財務諸表および次期中期経営計画書』。

人差し指の関節一つ分はある、分厚い冊子だった。


通常のお見合いであれば、まずは天候の話、社交界の噂話、互いの趣味の確認——そうした無難な会話から始まる。

だが、イルムガルトにとって、そのような儀式は時間の浪費でしかない。


彼女にとってのお見合いは、自分という『高付加価値な人的資源』を、最も高く買い取ってくれる『家門』に売却するための、『投資交渉ピッチ』に他ならない。

感情や個人的な趣向は、契約を阻害する無駄なノイズだ。


アルブレヒトの眉が微かにひそめられる。

だが、それは無作法を咎めるものではない。


アルブレヒトは差し出された書類を手に取り、最初の頁を開いた。

一頁一頁、丁寧に読み進めていく。

その目の動きは速く、正確。 数字を読み慣れた者特有の動きだ。


イルムガルトが感心していると、男の瞳に鋭い光が宿った。


「……これは……借方、貸方……まさか、複式簿記か」


「はい、閣下」


「貴家の一年間の財政状況と、収支予測。 これだけの精度で……実に見事だ」


アルブレヒトの声には、抑えきれない好奇心と、かすかな興奮が混じっていた。

複式簿記は、商人の間では普及しつつあったが、貴族の領地経営に導入している例は極めて稀だ。


「恐れ入ります。 わたくしが、この二年間で完全に定着させました」


イルムガルトは淡々と説明を続けた。

その声には、自慢も謙遜もない。 ただ事実を述べる者の、平坦のみが宿っていた。


「辺境の鉱山収益を再投資し、輸送路の警備費を三割減じました。

 さらに開拓農地の収益性を改善し、木材供給計画を最適化。

 全体的な利益率を一割以上向上させております」


彼女は書類の特定の頁を開き、数字を指差した。


「例えば、この警備兵の配置図をご覧ください。

 従来は経験則と慣習に基づいていましたが、過去五年間の盗賊出現記録を分析し、出現率、経路、地勢的要因を統計学と確率論に基づいて再検討いたしました。

 その結果、警備兵の総数を減らしつつも、被害件数を四割減少させることに成功しております」


「統計学と確率論、か」


アルブレヒトは感心したように呟いた。


「 無駄は美しくありません。 一人の警備兵を雇用する費用で、何人の農民を養えるか。

 その計算を怠る者に、領地を治める資格はないと愚考します」


アルブレヒトが書類から目を離し、イルムガルトを注視する。

その視線に、評価と、そして『試す』ような意図が含まれているのを、彼女は感じ取った。


「貴族の令嬢がこれほど深く学んでいるとは驚きだ。 家庭教師の質が良かったのか?」


テオドール辺境伯は成果を重んじる方です。

 わたくしは、幼少期から父の実務を傍で学び、その後は商人の手法を参考に、帳簿と交渉術を実地習得いたしました」


イルムガルトは流れる水のように、淀みなく答える。


「制度上、女性では軍事の道が閉ざされていたため、内政・行政に活路を見出したに過ぎません。

 兄のヘルマンが軍事を担当し、わたくしが内政を担当する。 能力差ではなく、制度による必然です。

 もっとも、その『必然』がなければ、わたくしはここまで帳簿に没頭することもなかったでしょう。

 ある意味では、制度に感謝すべきなのかもしれません」


侯爵の顔に浮かぶ表情を、イルムガルトは冷静に観察していた。


それは、彼女がこれまでに会ってきた他の求婚者たちの、虚栄と傲慢に満ちた表情とは、明確に異なるものだ。

彼らは自分の領地の自慢話ばかりを並べ立て、イルムガルトが数字の話を始めると途端に目を逸らした。

中には、「女が帳簿など見るものではない」と説教を始める者すらいた。


だが、この男は違う。 彼は、本当に数字を見ていた。


アルブレヒトは書類を閉じ、これまで以上に真剣な視線で、個人的な質問を投げかけた。


「なぜテオドール殿は、これほど有能な右腕を手放すことにしたのだ?

 この帳簿を見る限り、君を失うことは辺境伯領にとって相当な損失のはずだが」


イルムガルトは一瞬、思考を巡らせた。


父の顔が脳裏に浮かぶ。

武骨な手、日に焼けた顔、そして不器用な笑み。

辺境の厳しい環境で戦い続けてきた男の顔だ。


「現在、リーゼン家は安定期に入りました」


父から賜った言葉を、イルムガルトは何度も分析した。

何を意図して『あの言葉』を発したのか。 その真意を、彼女は自分なりに解読していた。


「兄ヘルマンが軍事担当の正統後継者として成長し、内政業務の多くを引き継げる体制が整いつつあります。

 複式簿記も定着し、わたくしがいなくとも運用できる状態になりました」


「それで、君を手放すと?」


「父からは『お前の役目は終わりだ、幸せになれ』との指示を受けております」


「幸せに、か」


アルブレヒトは低い声で繰り返した。

その口元に、嘲りとは異なる、どこか複雑な感情が混じった笑みが浮かぶのを、イルムガルトは認めた。


「武人気質の辺境伯らしからぬ、随分と情愛に満ちた言葉ではないか」


「いいえ、閣下」


イルムガルトは真面目くさった顔で、まるで業務報告をするかのように続けた。

その表情には、一切の冗談の気配はない。


「父は私の能力をアイゼルク領で使い潰すことは、長期的損失になると判断したのでしょう」


アルブレヒトの表情が、微かに固まる。


「私の『幸福』、すなわち『最適化された環境での能力発揮』は、より高位の——例えば複雑な利権構造を持つリーフェルト侯爵家のような大規模領地において最大化されます。

 辺境伯領は確かに安定しましたが、その規模には限界がございます。

 わたくしの能力を十全に発揮するには、より大きな舞台が必要なのです」


イルムガルトは一息に言い切った。


「つまりこれは、父からの高度な人材再配置の勧告。

 『お前の能力に見合った場所で、より大きな利益を家門にもたらせ』という指示だと解釈しております」


沈黙が落ちた。


アルブレヒトが、呆然としたかのように動きを止めている。

その瞳には、驚きと、そして何かを『見つけた』かのような複雑な愉悦が宿っていた。


やがて、彼は堪えきれないといった様子で、深々と息を吐き出しながら笑い出した。


「く……ふふ」


肩を震わせ、声を殺して笑う。

その笑いは徐々に大きくなり、ついには声を出して笑い始めた。


イルムガルトは困惑した。

自分の発言のどこに笑う要素があったのか、まったく理解できなかった。


「申し訳ありません、閣下。 私の論理に何か問題でもございましたか?」


自身の完璧な論理に瑕疵があったのかと、真剣に問い返す。

その困惑した表情を前に、アルブレヒトはさらに笑いを深めていった。


「いや、いや。失礼。人材再配置、か」


彼はようやく笑いを収め、しかし口元には笑みが残ったまま。

その目には、涙すら浮かんでいた。


「……素晴らしい。 これほど気の合うレディは初めてだ。 いや、本当に素晴らしい」


アルブレヒトの瞳には、打算とは別の、『熱』が宿り始めているように見えた。


それは、イルムガルトの計算にはない、予期せぬ変数。

彼女の脳内で、何か歯車がズレたような、奇妙な感覚があった。


アルブレヒトは書類を置き、身を乗り出してくる。

その姿勢には、先ほどまでの評価者としての距離感が消え、より踏み込んだ興味が見て取れた。


「ところで、イルムガルト嬢。 君には不穏な噂が付きまとっているようだね」


「噂、ですか」


イルムガルトの声はあくまで平坦。

噂についてはとうに把握済み。

自分にとって不利たりえないことも計算済みだ。

それより、さらりと『アイゼルク辺境伯令嬢』から呼び名が変わっている。

その事実に、イルムガルトは手応えを感じ、少しだけ胸を撫で下ろした。


「まず一つ。 君は王都で『吸精令嬢サキュバス』と呼ばれているそうだが」


アルブレヒトは面白がるような口調で続けた。


「君と見合いした男たちが、例外なく顔面蒼白で帰還し、精気を吸い取られたかのように憔悴していたとか。

 中には、寝込んだ者もいると聞いているよ。 私からも精気を吸い取るつもりかな?」


イルムガルトの表情は変わらない。 想定内の質問でしかなかった。


「閣下、正確には『精気』ではなく『論理的根拠のない自信』を吸い取っているに過ぎません」


「ほう、『自信』か」


「彼らは自身の領地経営の甘さや、家計の不透明さを私に徹底的に『監査』された結果、プライドが耐えきれずに精神的疲労を訴えたのです」


イルムガルトは淡々と続け、顔も名前も朧げなお見合い相手を脳裏に浮かべる。


「例えば、ある伯爵家の嫡男は、自分の領地の年間収入を三割も過大申告しておりました。 わたくしが商館報ハンデルスハウス・クーリアの相場情報と照合して矛盾を指摘したところ、彼は顔を真っ赤にして退席されましたね。

 また、ある男爵家の方は新規事業計画を滔々と語られましたが、初期投資の回収計画が存在しないことを指摘したところ、やはり青ざめて帰られました」


「……なるほど」


「『十八歳の小娘に論理で負けた』とは口が裂けても言えなかったのでしょう。

 『私が恐ろしい妖術で精気を吸う』という神秘的な話を流布し、自らの無能を隠蔽しようとしただけのことです」


「それで、君はそれを否定しなかったのか?」


「むしろお見合いの回数が減り、事務作業に専念できる時間が増えました。

 根拠のない噂を鵜呑みにし、実績や数字という一次情報を確認しない男は、そもそも共同経営者として不適格ですから」


アルブレヒトは一瞬目を見開き、そして再び笑い出した。

今度の笑いは、心からの感嘆が混じったものだった。


「君は本当に面白い。 いや、面白いという言葉では足りない。 実に合理的だ」


アルブレヒトは笑いを収め、トーンを一つ落とした。

その表情には、先ほどまでの軽さが消え、より慎重な色が浮かぶ。


「……もう一つ。君が自らの侍従の首を刎ねたという事件。

 社交界では『鮮血の辺境伯令嬢』と恐れられているが」


イルムガルトの表情から、温度が消えた。

先ほどまでの淡々とした様子とは異なる、凍てついた湖面のような静けさが、彼女を包んだ。


「これは私にとっても気になる点だ。 『吸精令嬢』の噂は笑い話で済むが、処刑となれば話は別だ」


沈黙が落ちる。


応接間の空気が、重く、冷たくなったように感じられた。


イルムガルトは視線を逸らさず、静かに答えた。


「彼は、私との親密さを匂わせる情報を『商館報』へ売り込んだのです。

 『辺境伯令嬢と侍従の密会』という記事が掲載される寸前でした」


それは『吸精令嬢』という噂が社交界で囁かれ始め、縁談が次々と破談になっていた頃のことだ。


『お労しい……周囲は何も分かっていないのですね』


イルムガルトはその言葉に、事務的な微笑みを返した。 無論、特別な感情は一切ない。

侍従の士気を維持することは、業務効率の観点から合理的な行動だと判断しただけだ。


だが侍従は、それを決定的に誤解した。


イルムガルトが他の男を論破する姿すら、彼の目には『自分への愛を貫くために、他の男を追い払っている』という『恋の防衛戦』に映ったらしい。


度し難いほどの、認知の歪みだ。


「……情報の汚染か」


アルブレヒトの声が更に低くなる。

侍従の行いの意味を、彼は正確に理解したようだ。


「はい。 彼は『辺境伯令嬢を籠絡した』という既成事実を作り、継承権に介入しようと企てたのです」


イルムガルトは感情を込めず、そして寸分の迷いもなく語り続けた。


「侍従との恋愛疑惑は、私個人の名誉の問題ではありません。

 辺境伯家の血統の正統性、婚姻交渉、そして将来生まれる子の嫡出性——すべてを破壊する致命傷です。

 たとえ事実無根であっても、一度広まった疑惑は消えません」


「それで、処刑を?」


鋭い言葉を前にしても、イルムガルトの声は凍てついた湖面のように静かだった。


「彼個人への同情はありました。 十年以上、真面目に仕えてくれたので。

 しかし、家門全体、領民全体の利益を考えれば、迷う理由はどこにもありません」


アルブレヒトはその答えを、まるで極上のワインの香りを嗅ぐように、深く吟味した。


「……君を『残酷な毒婦』と呼ぶ連中は、何も見えていないな」


「と、申しますと?」


「イルムガルト嬢は道具に油を差しただけだ。錆びないよう。 ちゃんと機能するよう。

 その道具が勝手に燃え上がって家を焼こうとしたから、処分した。 違うか?」


イルムガルトは息を呑んだ。


「……社交界の人間は皆、私が彼をなぶり殺したのだと信じていますが」


「私は数字を見る男だと言ったはずだ」


アルブレヒトはただじっと、イルムガルトの瞳を射抜くように見つめている。


「商館報の不自然な記事の差し止めと、その後の貴家の信用格付けの推移を見れば、感情的な処刑ではないことくらい見当がつく。

 差し止めにかかった費用、処刑後の補償金の支出、遺族への対応——すべてが記録に残っている。

 君は無駄な殺生をするような、損得に鈍い女じゃない。

 家門の名誉に関わる件である以上、他に選択肢がなかったのだろう」


社交界の誰もが自分を怪物として見る中で——この男だけは、自分の『論理』を正しく査定している。


イルムガルトの心臓が、微かに、しかし確かに、普段より速く鼓動した。


それは、彼女の計算外の領域で起こった、極めて非効率な生理現象だった。


「……君を正しく『合理的な実務家』として評価しているのは、世界で私一人だけのようだな」


その言葉は、どんな甘い愛の告白よりも深く、イルムガルトの胸を撃ち抜いた。


しばし見つめ合う二人の間へ、侯爵家の書記官が婚姻契約書を滑り込ませる。

やや気まずげに、二人揃ってその契約書へ同時に視線を落とした。


持参金の額と形態。

子の帰属。

跡継ぎ不在時の相続順位。

離縁時の財産処理。

そして配偶者の政治・行政への関与範囲。


気を取り直したイルムガルトは、自身の持参金が侯爵家の領地運営資金としてどのように活用されるか、そして自身の関与範囲がどこまで許容されるかを詳細に確認した。

一つ一つの条項を読み上げ、不明点があれば質問し、必要に応じて修正を提案する。


「この条項ですが」


イルムガルトは、契約書の一条を指差した。


「ああ、不貞行為による契約解除条項だな」


「はい。不貞は、契約の根幹である『血統の純度保証』を破壊する重大違反です。

 これは感情の問題ではなく、家門の資産価値を希釈する不正行為ですから。 双方に平等に適用されることを確認したいのですが」


「同感だ」


アルブレヒトは深く頷いた。


「私も前妻との件で、その重要性は痛感している。

 もっとも、彼女の場合は不貞ではなく、単なる価値観の不一致だったが……。

 いずれにせよ、この条項は双方に適用される」


「承知いたしました」


イルムガルトはペンを握り、自身の署名欄に迷いなく筆を走らせた。


続いて、アルブレヒトが署名する。


二つの署名が並んだ契約書を見て、イルムガルトは小さく頷いた。

あとは両家の正式な合意と、王権の認可、そして宗教的祝福を経れば、婚姻は完了する。


「これで、契約成立ですね。 閣下」


「ああ、そうだ」


アルブレヒトは署名を終えたペンを置く。 どこか、芝居がかった余韻がある手つきだった。


「……だが一つ、契約書に書き漏らした事項がある」


イルムガルトは弾かれたように顔を上げ、万が一の不備による損益を瞬時に計算し始める。


「書き漏らし、ですか? どの条項でしょうか。 必要であれば追記いたしますが」


彼は席を立ち、イルムガルトの前に膝をついた。


その行動は、王都の貴族が求婚の際に行う儀礼的なものだと、イルムガルトは瞬時に理解する。

ただ、形式としては知っていても、自分が対象になるのは想定外だったが。


アルブレヒトは、イルムガルトの右手を取った。

ペンを握りすぎてマメができた、貴族の令嬢らしからぬ労働者のような手。


その甲に——そっと唇を寄せた。


イルムガルトは予期せぬ身体的接触と、その唇から伝わる微かな熱に、思考の一時停止を余儀なくされた。


心拍数と体温の急上昇。

頬の毛細血管の拡張。

脳内演算速度の著しい低下。


それは、これまで経験したことのない、計算不能な——しかし明確な『不具合』。


「閣下、その行為は現在の関係において、儀礼的な範囲を超えて……契約書にも身体的接触に関する条項は……」


「君という、最良の伴侶を得たことへの、ささやかな前祝いだ」


アルブレヒトは優雅に、かつ茶目っ気を含んで微笑んだ。


その瞳の奥には、彼がイルムガルトの論理を完全に理解し、そしてそれを超えた何かを求めている、という揺るぎない確信が宿っているように見えた。


イルムガルトの胸の中で、これまでにない『計算不能な鼓動』が、ますます速く、そして強く鳴り響く。


彼女は必死に自己分析を試みた。


——これは、契約を円滑に進めるための『潤滑油』と解釈すべきだわ。 そう、単なる形式……——


だが、この感情の揺れは、これまでの経験には存在しない。

処理能力の低下を伴う、未曾有の事態だ。


「……その、演出は」


イルムガルトは、真っ赤になった顔で、しかし真剣な眼差しで問い返した。


「継続的な運用を前提としておりますか?」


アルブレヒトは一瞬目を見開き、今度こそ心からの爆笑を返した。

応接間に響き渡る声は、純粋な喜びの笑いだった。


「あぁ。 終身契約の満了日まで、毎日欠かさず運用すると約束しよう」


アルブレヒトの視線が、物理的に熱を孕む。 そんな風にイルムガルトには感じられた。

そして、彼女自身もまだ自覚していない感情の萌芽を、愛おしむようにも。


イルムガルトは混乱した頭で、必死に言葉を絞り出した。


「……その運用コストを補填するに足るリターンを期待いたしますわ」


「全力を尽くそう」


そう言って、アルブレヒトは再び破顔した。




***




侯爵邸を後にする馬車の中。


窓の外を、王都の夜景が流れていく。

ガス灯の明かりが、石畳の道を橙色に照らしている。

馬車の車輪が石畳を踏む音が、規則正しく響いていた。


膝の上には、署名の乾いたばかりの契約書がある。 インクの匂いが、まだかすかに漂っていた。


イルムガルトは、自身の右手をじっと見つめた。


そこには、まだアルブレヒトの唇の微かな熱が残っているようだった。

物理的にはありえない。 あれから一時間以上が経過している。

唇が触れていたのは、ほんの数秒。 熱が残っているはずがない。


だが、感覚は消えなかった。


彼女の脳内では、侯爵邸での出来事が、何度も再生されている。


『君を正しく評価しているのは、世界で私一人だけのようだ』


あの言葉が、繰り返し響く。


それは、イルムガルトがこの十八年間で一度も得られなかった評価だった。

父も、母も、兄も、彼女の能力を認めてはいたが、彼女を理解してはいなかった。


だが、あの男は違った。


彼は、イルムガルトを正確に理解していた。


「……明日、もう一度帳簿を確認しましょう」


彼女は静かに呟いた。


リーフェルト侯爵家の財政状況。

経営計画。

今後の領地運営の方針。

そして、彼という存在が、自分の予測に与える影響。


すべてを数字に置き換えて、分析しなければならない。


——何かが、狂っている気がする——


彼女は自分の右手を、反対の手でそっと抑えた。


胸の奥でまだ鳴り止まない鼓動を、どうにかして論理的な数式に変換しようとして。


失敗した。


心拍数の上昇は、通常、運動負荷か精神的ストレスによって引き起こされる。

今日は特に運動はしていない。 では、精神的ストレスか?

だが、契約は成功裏に締結された。ストレスを感じる理由がない。


では、この鼓動は何なのか。


この、胸の奥で燻る熱は。


『鮮血の辺境伯令嬢』と呼ばれた少女は、自分の帳簿に記載されていない感情の正体を、必死に分析しようとしていた。


答えは、まだ出ない。


だが、それは確かに——彼女の冷徹な世界を、静かに、しかし決定的に溶かし始めていた。

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