第13話 管理者と役割を外した時間

 結界の異常は、早朝に起きた。

 正確には、異常というより――揺らぎだった。


「……反応、出てる」


 リビングの一角。

 ノートパソコンを前に、カナデは淡々と呟いた。

 相変わらず、男物のワイシャツは肩から少しずり落ち、黒のミニスカートとのバランスがちぐはぐだ。

 だが、本人は一切気にしていない。


「危ないやつ?」

「即時崩壊レベルではない」


 キーボードを叩く指は早い。


「……ただし、放置すると“滲む”」

「滲む?」

「境界が」


 それだけで、十分だった。

 調査名目で、俺とカナデは家を出た。

 他のメンバーは、それぞれの用事で不在。

 珍しく、二人きり。

 目的地は、住宅街の外れにある、古い歩道橋。


「ここ?」

「……うん」


 彼女は立ち止まり、周囲を見渡す。

 目を閉じる。

 風が、わずかに歪む。


「……結界、薄い」


 そう言って、スマホの画面を確認する。


「ここが、入口のひとつ」

「直せるのか?」

「応急処置なら」


 淡々とした口調。

 感情は、読み取れない。

 作業が始まると、会話は途切れた。

 彼女は集中すると、周囲が見えなくなるタイプらしい。

 ただ、時折、無意識に俺との距離を詰めてくる。

 近い。

 だが、それを指摘する気にはならなかった。

 作業が終わったあと、歩道橋の階段に並んで腰を下ろした。

「……完了」


 カナデは短く言う。


「お疲れ」

「……ありがとう」


 珍しい言葉だった。

 少しだけ、間が空く。


「……あなたは」


 唐突に、彼女が口を開いた。


「どうして、ここにいる?」

「住んでるから、だけど」

「……違う」


 彼女は、こちらを見ない。


「どうして、“拒まない”」


 問いの意味は、すぐに分かった。

 異界の住人。

 霊。

 危険な存在。

 普通なら、排除する。


「……成り行き?」

「……成り行きで、世界は歪まない」

 少しだけ、声のトーンが変わった。

「……でも、ここは歪んでいる」


 風が吹く。

 カナデのワイシャツが揺れ、彼女は反射的に裾を押さえた。

 その仕草は、あまりにも人間的だった。


「……役割を外すと、判断が鈍る」


 ぽつり。


「管理者としては、失格」

「じゃあ、今は?」


 少し考える。


「……休憩中」


 それは、初めて聞く言葉だった。

 沈黙。

 だが、居心地は悪くない。


「……あなた」

「過去に、何かあった?」

「……まあ」


 答えを濁す。

 だが、彼女はそれ以上踏み込まなかった。


「……それでも、ここにいる」


 小さく、頷く。


「……なら、問題ない」


 評価基準が独特すぎる。


「……結界は、あなたに反応している」

「俺に?」

「……精神状態が、錨になっている」


 聞き覚えのある言葉。


「……不安定だが、壊れていない」


 彼女は、ほんの一瞬だけこちらを見た。

 その目は――柔らかかった。

 ほんの、一瞬。

 すぐに視線を逸らす。


「……だから、ここは保つ」


 それが、彼女なりの肯定だった。

 帰り道。


「……今日は、仕事だった」


 唐突に言う。


「でも──」

「……悪くなかった」


 それだけ。

 それ以上の言葉はない。

 だが、管理者としてではなく、

 一人の“カナデ”として過ごした時間。

 感情は、最小限。

 表情は、ほぼ変わらない。

 それでも。

 確かに――距離は縮まっていた。

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