第6話 三皇炮捶拳
激越なタイヤの悲鳴が止み、立ち昇る白煙の中。
沈黙を破り、黒塗りのセダンから三人の暴力が這い出してくる。
「……死にてえのか、ガキが」
リーダーの鮫島が、蛇のような目で光希を射抜く。
「熊田、多喜。そいつを挽き肉にしろ」
「おうよ」
巨漢の熊田が、後部座席から引き抜いた極太の鉄パイプを肩に担ぎ、一歩前に出る。その隣では、猫背の多喜が特殊警棒を伸ばす。卑屈な薄ら笑いを浮かべて光希の死角へ回り込もうとしていた。
ヘッドライトの逆光を背負った三人の影。
光希の喉が、微かに鳴った。
戦いにおいて、武器を持つ相手に素手で立ち向かうことは『死』に等しい。道場で交わす組手とは、次元が違うのだ。
鉄パイプを腕で受ければ、骨は一撃で粉砕される。
特殊警棒の先端が頭部を掠めれば、意識は一瞬で刈り取られる。
そしてナイフに一度でも深く切り込まれれば、そこから命が滴り落ちる。
防具もなければ審判もいない。一度のミスが、そのまま修復不能な後遺症、あるいは死に直結する。
光希は、自身の右手が微かに震えているのを自覚していた。
実戦の経験は多いとは言えない。今、目の前に立ちはだかっているのは、これまで向き合ってきた『技』ではなく、剥き出しの『殺意』だ。肺に吸い込む空気は鉛のように重く、心臓の鼓動が耳元でうるさいほどに警鐘を鳴らしている。
(……見るな。考えるな。重心を安定させて浮足立つな)
光希は深く息を吐き、震える手をゆっくりと構えの形に固めた。
格闘技の試合ではない。
これは、生き残るための実戦だ。
多人数を相手にする際、立ち止まることは死を意味する。囲まれてしまえば、どれほど強力な突きも無意味に終わる。
(――敵が武器を持つなら、踏み込んで、その間合いを殺せ)
老師の教えを、呪文のように脳内で繰り返す。
恐怖を消すことはできない。
ならば、その恐怖を一点の集中力へと昇華させるしかない。光希の瞳が、夕暮れの中で峻烈な光を帯び始めた。
「……来い」
短く、震えを殺した声。
その瞬間、熊田が鉄パイプを振り上げ、ダンプのような突進を開始した。
光希は、逃げない。
彼の意識は、背後の車内に囚われた梨花の震える気配を捉えていた。
(……拳は、身を守るためのもの。……義のために、振るえ)
老師の言葉が、光希の
「死ねやぁッ!」
口火を切ったのは熊田だった。
丸太のような腕で振り下ろされた鉄パイプが、空気を引き裂く。並の人間なら左鎖骨を粉砕される一撃。
だが、光希の身体は、衝突の寸前にわずかに開いて躱す。
光希の足裏がアスファルトを爆発させた。
【震脚】
玄人が行えば周囲を震わす程の蹴る動作となるが、音を出すこと自体が目的ではなく、重心を瞬間的に落とし、その衝撃力を打撃の威力向上や体勢の安定に利用するための技術。
地鳴りのような衝撃が、熊田の足元を揺らすだけでなく、肝さえも揺らす。
瞬間、光希の右拳が、下から突き上げるように放たれた。
驚愕に目を見開く熊田。
光希は円を描くような歩法で、熊田の懐へ滑り込む。
片足を大きく前に踏み出し、前足の膝を曲げて重心をかけ、後ろ足はまっすぐ伸ばす。重心は主に前足に体重をかけ、安定した下半身を作る。これにより、前方向への強力な推進力や安定性を生み出す。
脚が、弓歩を形作る。
光希は右拳を、男の分厚い胸板――心臓へと打ち込む。
大砲の砲弾が着弾したかのような衝撃。
熊田の巨体が、まるで風に吹かれた紙屑のように後方へ吹き飛び、セダンのボンネットを激しく凹ませて沈黙した。
その余韻が空気に震える中、光希は静かに拳を引いた。
かつて放課後の教室で、梨花に
それは間違いではない。
しかし、彼が学んでいるのは、テレビで見かけるような華やかな演武を目的とした国際競技スポーツとしての武術太極拳でも、公園で老人たちがゆったりと舞う健康法としての武術でもなかった。
彼が老師から授かったのは、
清朝の時代、皇帝の護衛官や、命懸けで荷や人を守る鏢局の鏢師たちが、賊と戦い生き残るために磨き上げた、実戦と殺傷の理そのものだ。
その名にある『三皇』とは神話に登場する伏羲、神農、黄帝の治世に生み出されたことに由来し、『
打撃の瞬間に全身の力を火薬のように炸裂させ、相手の表面を叩くのではなく、その内部にある臓器や骨へ衝撃を直接叩き込む。
光希が日々繰り返してきたのは、メダルを競うためのトレーニングではない。
一撃の精度を高めるために地を蹴り、腰を回し、空を貫く。それは、自己の未熟さを削ぎ落とす修行であると同時に、自らの身体を以て理不尽を打ち砕く武器へと変える孤独な修練。
梨花の想像した
嘘ではないが、真実のすべてではない。
その真意が今、夜の路上に転がった巨漢の姿によって証明されていた。
眼鏡をかけた地味な少年の内側に眠っていたのは、平和な日常という皮を被った、苛烈な『武』の深淵。
光希は、痺れる右拳を無造作に開き、そして再び硬く握りしめた。
残る二人の男――多喜と鮫島が、予想外の威力に喉を鳴らすのが聞こえる。
光希の瞳に、迷いはない。彼にとってこれは暴力ではなく、義を守るためにのみ許された武の執行だった。
敵を一人倒したという、一瞬の隙。
光希の耳に、ジジジッと猛り狂う音を耳にする。
スタンガンのスパーク音。
背後から多喜が飛びかかった。
光希に振り返る余裕はない。剥き出しの頭部へ、多喜が特殊警棒を振り下ろす。
特殊警棒の威力は素材と長さ、そして重量に大きく依存する。最も頑強なドイツ製4140鋼を使用したものは、1.5tの過重に耐えるものもあり片手持ちでコンクリートブロックをたたき割る威力がある。
基本的には殺傷力の低い護身用具・捕具として使われるが、扱いようによって相手を死傷させかねない、れっきとした武器ともなる。
(――しまっ……!)
背後から迫る脅威に、光希の身体が素早く反応する。
気配や殺気を感知する。などという高尚なものではない。死の恐怖が、彼の脳幹に直接警鐘を鳴らしたのだ。
光希は、咄嗟に身体をひねった。
半分叫びのような声を上げながら、無我夢中で横へ跳ぶ。
直後、空を切った特殊警棒が光希の制服の肩をかすめ、布地を引き裂く感触が走った。あと数秒、反応が遅れていれば、後頭部を叩き割られていただろう。
「死ねッ!」
多喜が猫背をさらに丸め、狂ったように特殊警棒を突き出す。
特殊警棒は伸縮式なので、突きは使わないというのは都市伝説だ。安価な特殊警棒の多くは中国製だが、よほどの安物でない限り、接合部分が圧力をかけて密着しており、普通に突いたぐらいでは縮まなくなっている。
光希は、何度も繰り返した回身――目線から腰、骨盤、つま先へと連動させて回転する転身の動きを、必死に思い出した。恐怖で足がもつれそうになるのを、震脚で強引に大地に食い込ませ、軸を安定させる。
特殊警棒の打撃が、光希の視界を掠める。
光希は、多喜の突き出された腕の下へ潜り込むようにして突っ込む。
もつれ合うような、泥臭い密着状態。
光希は、多喜の警棒を持つ手首を、縋り付くような必死さで掴み取った。洗練された技ではない。ただ、その腕を止めなければ殺されるという、生存本能。
(止める……回す……落とす!)
何度も練習した、相手の力を逃がす円の動き。
光希は自分の体重をすべて、掴んだ腕に預けるようにして身体を翻した。多喜の猫背の身体が、自分自身の突進の勢いと光希の強引な引きによって浮き上がる。
「あぎゃっ!?」
顔面からアスファルトに叩きつけられた多喜が、カエルが潰れたような声を上げた。
光希は心臓が口から飛び出しそうなほどに激しく脈打ち、冷や汗が目に入って視界が滲む。
多喜が地面を這い、スタンガンをなおも押し付けようとする。
光希は、考えるよりも先に動いた。膝を多喜の背中に落として昆虫標本のように地に縫い留めると、突きを、多喜の側頭部へと打ち下ろす。
重い音とともに多喜の頬に、光希の拳がめり込み、ようやくその動きが止まった。多喜の意識は闇に落ち、特殊警棒がカランと乾いた音を立てて転がった。
光希は、激しく肩を上下させながら立ち上がる。
手は小刻みに震え、制服の肩は破れ、額には冷たい汗が光っている。
達人には程遠い。
一歩間違えれば、今、地面に伏しているのは自分だったという戦慄が、光希の身体を支配していた。
立ち昇る白煙が夜風に流され、路上には奇妙な静寂が戻っていた。
巨漢の熊田は、凹んだボンネットに投げ出されたまま動かない。猫背の多喜は、アスファルトに這いつくばって意識を失っている。
残るは、一人。
鮫島だけだ。
「……ふん。使えねえ連中だ」
車の影から、鮫島がゆっくりと歩み出してきた。
仲間が二人、中学生に沈められたという異常な事態を目の当たりにしながら、その足取りには微塵の動揺もなかった。むしろ、獲物をじっくりと料理する前の愉悦さえ、その濁った瞳には浮かんでいる。
乾いた金属音が響く。
鮫島の指先で、バタフライナイフが生き物のように躍動した。銀色の刃が翻るたび、街灯の光を跳ね返して不気味な光の筋を描く。
「中坊にしちゃあ、上出来だ。……だがなぁ」
鮫島が、低く、ねっとりとした声で笑う。
「ナイフを持った相手を倒す方法は、空手の先生には教わってねえだろ?」
光希の身体が、本能的な恐怖で強張った。
組手や、先程までの鉄パイプや特殊警棒とは、絶望の質が根本から異なっていた。
鈍器の暴力は『破壊』。骨を折り、肉を潰す。
だが、刃物の暴力は『切断』――すなわち、修復不能な『喪失』だ。
人間の身体は、あまりに脆い。
皮膚の下を走る太い動脈、指を動かすための細い腱、命を繋ぐ内臓。それらはすべて、わずか数cmの鋼の鋭利さの前に、水に浮いた紙屑も同然となる。
(……一撃も、掠ってはいけない)
光希の喉が、熱く乾いた。
バットやパイプなら、肉を切らせて骨を断つ覚悟で受けることもできるだろう。
だが、ナイフは違う。
腕を一本差し出して防ごうとすれば、その瞬間に腱を断たれ、二度と拳を握れなくなる。太ももをかすめれば、数分と経たずに失血死の淵へ立たされる。
「どうしたガキ。足が震えてんぞ」
鮫島の嘲笑が耳に刺さる。
ナイフを扱う人間にとって、リーチの短さは欠点ではない。それは密着した瞬間に勝負が決まる、という絶対的な優位を意味する。
殴るために振りかぶる必要さえない。ただ、突き出し押し込むだけで、一つの命が終わりを迎える。
わずか数秒、判断が遅れれば。
わずか一瞬、引きが浅ければ。
わずか数mm、回避の軌道が狂えば。
血が、アスファルトにぶちまけられる。
鮫島は、ナイフをチラつかせる。その姿は、獲物の喉笛を狙う猛毒の蛇そのものだ。
「自慢の空手が台無しだな……その薄い制服ごと、中身をズタズタにしてやるよ」
夜の冷気が、ナイフの冷たさを伝播させるように光希の肌を刺す。
光希は眼鏡の奥で、必死に鮫島の手ではなく、動きの起こりを捉えようとした。
一瞬の油断も許されない、命のやり取り。
中学生という未熟な器に、かつてないほどの緊張と、死の予感が重くのしかかっていた。
熊田の暴力は『重圧』であり、多喜のそれは『狡猾』だった。
だが、目の前の鮫島から放たれているのは、もっと純粋で、冷酷な『殺意』だ。刺すこと殺すことにためらいがない。
光希の視界の中で、鮫島の姿が陽炎のように揺れたのは、疲労から。それは、構えていた腕が下がることに繋がった。
その瞬間、鮫島が踏み出した。
(――来る!)
光希は必死に構え直そうとした。
だが、ここに来るまでに酷使した足が、鉛を流し込まれたように重い。多喜との泥臭いもみ合いで、スタミナは底を突きかけていた。
「死ね!」
短い呟きとともに、鮫島がナイフを振り上げる。
特殊警棒のような『点』の突きでも、鉄パイプのような『線』の振りでもない。鮫島のナイフは、空間そのものを細切れに刻むような、変幻自在の『円』を描いて迫った。
「っ……!」
光希は咄嗟に身を引いたが、ナイフの先が制服の胸元を裂いた。冷たい刃の感触が肌を掠め、一拍遅れて熱い痛みが走る。
鮫島は止まらない。
一度目の斬撃の勢いを殺さず、狂ったような動作でナイフを振り、光希の喉元を切り裂きにかかる。
光希は、稽古を必死に思い出す。
だが、ここに着くまでの持久力を無視した走りと、命のやり取りという実戦の重圧が、培ってきた技をバラバラに分解していく。
喉元を狙う刃を、かろうじて仰け反って躱す。
しかし、鮫島はそれを予期していたかのように、空いた左手で光希の襟元を掴んだ。
「捕まえたぜ、ガキが!」
「――ッ!!」
引き寄せられる。
眼前に迫る、鮫島の濁った瞳とナイフ。
光希の脳裏に、死の予感が閃いた。
(……負ける。殺される)
弱気が心を支配しかけたその時、光希の耳に、車内から響く微かな音が届いた。
窓ガラスを叩く、梨花の拳。
梨花は、後部座席のドアノブを何度も激しく引いていた。
だが、鮫島によってチャイルドロックをかけられた扉は非情にもびくともせず、彼女を冷たい車内に閉じ込め続けていた。
車のチャイルドロックとは、後部座席のドアが走行中に子どもによって内側から開けられるのを防ぐ安全機能で、ドアの側面にあるレバーやスイッチを操作して設定。これにより、車外からのみドアが開けられるようになり、子どもが誤ってドアを開けて外に飛び出す事故や、隣の車にぶつけるのを防ぐのだが、使い方次第ではこうした監禁にも使用できるのは皮肉だ。
梨花にできるのは、窓ガラスに額を押し付け、血を流して戦う光希の名を叫ぶことだけだった
「佐京くん、逃げて!」
悲鳴のような、彼女の声。
その瞬間、光希の心臓が大きく跳ね上がった。
恐怖で凍りつきかけていた血液に、熱い義憤が混ざり合い、再び全身へと駆け巡る。
(逃げられない……。ここで僕が逃げたら、誰が守る――!)
光希は、掴まれた襟元をあえて引き離さない道を選んだ。
鮫島のナイフが、光希の左脇腹を狙う。
光希はそれを『避ける』のではなく、『迎え撃つ』ことを選択したのだ。
敵の力が最も強い瞬間に、その力を利用して自らの爆発力を上乗せする。それは突き出されるナイフの側面(腹)に向かって左拳を放つことで、自分の腕の外側にナイフを逸らせることを意味した。
それは、素拳でナイフを迎え撃つ危険な賭け。
もし叩く位置が数cmでも柄に近ければ、鮫島の力に押し負けて、そのまま脇腹に突き刺さる。逆に、刃先に近ければ、光希の左拳そのものが切り裂かれる。
ナイフの突進の力が強いほど、擦れ違った瞬間の切れ味は増してしまうのだが、体力が尽きかけている今の光希にはこれしか思いつかなかった。
光希は、残されたすべての力を左拳に込めた。
足の震えを、地を踏みしめることで強引に静める。
地に根が張るがごとく、重心が定まる。
少年の瞳に宿った、神々しいまでの『義』の光。
鮫島のナイフが届くのが先か。
光希の拳が爆発するのが先か。
ヘッドライトの光の中で、二つの影が激しく交錯した。
鮫島の放った必死の突き。その刃先が光希の脇腹を捉える寸前、光希の左拳がナイフの側面に激突した。
「――っ!!」
鋼と肉がぶつかり、火花が散るような衝撃。
光希の計算通り、刃の軌道がわずかに外側へと逸れる。
だが、死神の鎌はタダでは通り過ぎてはくれない。逸れた刃は、外側ではなく僅かに下方に逸れ、光希の制服の脇を切り裂き、左脇腹の皮膚を熱く、鋭くなぞった。
鮮血が舞い、焼けるような激痛が神経を走る。
しかし、光希は瞬き一つしなかった。
その痛みさえも、自身の打撃を爆発させるための導火線へと変える。
「哼!」
光希は、鮫島の無防備な懐へと踏み込んだ。
大地を蹴り、腰を回し、背中の筋肉をバネのようにしならせる。すべての力が左拳の一点へと収束し、圧縮され、限界を超えて溢れ出す。
夕暮れの静寂を、物理的な爆音が引き裂いた。
光希の左拳が、鮫島の肋骨を。
そして、その奥にある肝臓を、装填された砲弾のように貫いた。
「が……はぁっ……!?」
鮫島の口から、肺の中のすべての空気が吐き出される。
ナイフが手から滑り落ち、アスファルトに空虚な音を立てて転がった。
鮫島の視界は白濁し、世界が激しく揺れる。
tを超える質量の塊に打ち抜かれたような衝撃。内臓を直接握りつぶされたかのような劇痛。
光希の拳に伝わる、確かな手応え。
それは暴力への嫌悪感と、同時に、大切なものを守り抜いたという確信だった。
「あ……、が……」
鮫島の口から、意味をなさない湿った吐息が漏れた。
吹き飛ぶような衝撃ではない。浸透する一撃は、鮫島の身体を通り抜け、その奥にある思考と行動の維持を直接、強制停止させた。
鮫島のナイフを握っていた指先から力が失われ、カラン、と乾いた音を立てて凶器がアスファルトに転がる。
膝から力が抜け、鮫島の身体がゆっくりと、折れ曲がるようにして沈んでいった。
それは、糸の切れた操り人形のような無様な姿だった。
ハ虫類のように冷酷だった男が、今はただの肉の塊となって、その場に膝をつき、ゆっくりと横倒しに崩れ落ちる。
激しく打ち付けた衝撃音さえしない。
ただ、命の灯火がふっと消え入るような、重苦しい沈黙の中での完全な沈没。
「…………っ、はぁ……、はぁ……」
静寂が戻った路上に、光希の荒い呼吸だけが響く。
左脇腹からは熱い血が滴り、制服の脇を赤黒く染めていた。
左腕の感覚はない。
ただ、心臓の鼓動が激しく耳元で打ち鳴らされ、脳が終わったのだという信号を全身に送り続けている。
光希は、崩れ落ちた鮫島を一瞥もせず、ただ真っ直ぐに黒塗りのセダンへと向かった。
一歩。
また一歩。
足の筋肉が、千切れそうなほどの
後部座席のドアノブに手をかけ、力を込める。
チャイルドロックによって内側から閉ざされていたその扉は、外側からの光希の手によって、重々しく、しかし確実に開かれた。
「…………羽住さん」
掠れた、けれど穏やかな声。
車内の冷たい空気の中に、戦いを終えたばかりの少年の体温が流れ込む。
後部座席で身を縮めていた梨花は、目を見開いたまま固まっていた。
目の前に立つ少年は、ボロボロに破れた制服を纏い、脇腹から血を流し、肩を震わせて息を切らしている。
梨花は見た。
学年すべての女子が憧れるような藤田世那が、恐怖に震えて立ち尽くしていた。
命をかけて自分を助ける理由など、何一つ持たないはずのこの少年が、たった一人で轢かれる覚悟で車の逃走を止め、三人の暴力を、その小さな拳一つで、この場所に縫い留めたのだ。
「……もう、大丈夫だよ。帰ろう」
光希は、梨花に手を差し伸べる。
彼の指は、酷使によって小刻みに震えていた。その震えが、彼がどれほどの恐怖と戦い、どれほどの覚悟を積み重ねてここまで来たのかを、言葉以上に物語っていた。
梨花は、光希の差し出した手を握りしめた。
光希は、梨花を安心させるように、不器用な、けれどこの上なく優しい微笑みを浮かべた。
それは、どんな華やかなスポットライトよりも、梨花の目には眩しく、そして美しく映っていた。
(続く)
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