幸せだったから

久賀野

幸せだったから

春宵という名があまりにも似合う夜だった。


——はっくしょん。

丈を短くしたスカートのプリーツを直していた彼女は鼻を擦った。

「やっぱりドラスト寄りたいなあ」

少し赤くなった目元で彼女は呟く。

「あのね、今何時だと思ってるの。ドラックストアなんて二十二時には蛍の光流して閉店よ」

街はすでに夜に染まって、電灯の明かりだけが彼女の足元を照らしていた。いつも行くファストフード店で聞いた閉店を知らせる音楽を鼻歌交じりに彼女は続ける。

「薬切れちゃったよ。この世界は花粉症の人間に厳しいなぁ」

「いつも、新品ストックしときなさいって言ってるのに」

もう一度鼻を擦り、それから彼女は言う。

「閉店の時に流れる音楽って蛍の光じゃなくて別れのワルツっていう曲なんだってね」

「あんた、少しは人の話聞きなさいよ」

歩幅も背もばらばらな私たちはマイペースに歩きながら、満開に咲いた桜並木の道を抜けていく。優しい風が花を揺らし彼女の明るく染まった髪もなびかせた。

私は彼女から目を逸らし、雲に隠れてしまった月を追う。薄暗い雲にぼんやりと月の光が広がっていた。ふと、石畳に響いていたローファーの音が止まったことに気が付き、私は振り返る。

彼女は風で乱れた髪を手櫛で整えながら桜を見上げていた。

「さくらはなんでずっとここにいるのかな」

鼻にかかった声で彼女は問う。

「そりゃ、ここに埋められたからでしょ」

「なつはいつ来るのかな」

私は、何も言わずに彼女の元へ近づく。春の心地よい風が彼女の頬を撫でる。

彼女は再び足音を響かせながら、道を少し外れ、桜の木の間に置かれた古いベンチに腰を掛けた。木でできたそのベンチは所々塗装がはがれ鋭い木が突き出ていた。

「懐かしいな。中学生の頃はよくここでアイス食べてた」

「そうだね、中学生までは買い食い禁止だったからばれないようにわざわざ学校から離れたこの場所まで来て食べてたよね」

ベンチとは反対側にある車道に車が一台通り過ぎて行く。桜の木に寄り添うように建てられた時計は午前二時半を指していた。

彼女は左目を強めに擦って鼻を啜った。

「さくらはさ、なつのこと大好きなんだよ」

「へえ、なんで」

「なつだけがさくらを終わらせてくれるから。なつだけがさくらの幸せだから」

彼女はそう言ってまた左目を擦った。

「大げさじゃない?夏が来なくても桜は勝手に咲いて枯れるときは枯れる。それに、さくらはずっと咲いているべきよ」

枯れてしまうからこそ趣があるなんて、昔の人の考えることはよくわからない。綺麗な状態が長く続くのが一番いいに決まっている。桜は、強く生き生きと満開に咲いているのが一番美しいのだから。

黙ってうつむいてしまった彼女を時間が追い越していくようだった。時計はもうすぐ三時を指す。


唐突に彼女は大きく伸びをした。

「なんかもう全部めんどくさい。ここで寝ちゃいたい」

「だめよ。少し肌寒いし、こんなところで寝たら危険でしょ」

「怒るよね」

「怒るわよ。当たり前じゃない」

彼女は小さくため息をつくと、ブレザーのポケットからスマホを取り出した。

薄暗かった辺りがパッと明るくなる。スマホには何件も不在着信があってそれが誰からなのか想像に難くなかった。彼女はそれらを消去すると写真フォルダを開いた。そこは、二人の写真で埋め尽くされている。

白く細い指が画面をスクロールしていく。

二人の映る鮮やかな写真がゆっくりと流れる。過去五年分。私はただぼんやりとその画面を眺めていた。

「二人で放課後カフェ行ったりカラオケで歌ったりさ、すっごく楽しかったよね」

絞り出すように彼女は呟いた。スマホを見つめる彼女の顔は見えない。ゆっくりと時間が流れていく。


「目を閉じると、なつがまだとなりにいるように感じるの」

スマホの液晶に涙が落ちる。

「あれ、泣いてる」

彼女は今気が付いたかのように目元に手を持っていき、今度は右目を擦り鼻を啜る。そして、スマホを拭きポケットにしまった。

「本当はディズニーだって行きたかった。ルーズソックス履いて原宿制覇とかしたかったんだよ」

彼女はあふれる涙をそのままに目線を上げて少し大きめの声で呟く。

「砂糖も塩も水も取り過ぎたら毒になるんだって。だから幸せだって取り過ぎたら毒になるのよ」

「私たちはお互いの存在が幸せそのものだった」


「だから私は……死んだ」


私——なつの声なんて聞こえないはずの彼女——さくらと目が合ったような気がした。

さくらは目じりに赤く涙の跡を残しながら儚げに微笑んだ。

「なつ、ごめんね。ごめんなさい」

さくらの目はたった今雲から出てきたらしい月の光を映して物憂げに光っていた。

私はさくらの頬に手を伸ばす。

「さくらね、なつがさくらから離れていちゃうのが怖かった。この幸せを失うのが怖かった。この日々がなくなってしまうなら。それなら、それならいっそのこと……」

伸ばした手はさくらに触れることなくすり抜けてしまう。

「でも結局、さくら一人になっちゃった」


赤く染まった信号。走り出す車と同時に飛び出した身体。伸ばされた手。最期に見たさくらの顔は泣き顔なんかじゃなくて、


「でも大丈夫。さくらもすぐそっちに行くから。さくらたちはふたり一緒じゃなきゃ」

満面の笑顔だった。そう、今と同じような。

たった今しまったスマホを取り出したさくらは、新たに来ていた不在着信の一番上をタップする。

電話の相手はワンコールも待たずに出て、話し始める。

「はあ、なんですぐ電話に出てくれないの? で、あんた、小林なつって知ってる? その子が、今さっき……」

「知ってるよ。さくらがやったんだもん」

「は? あんた何言ってるの」

「ごめんね、お母さん。」

そう言うとさくらは一方的に電話を切った。

さくらのお母さんは何も知らない。さくらが何を好きなのか、誰と仲がいいのか、今どこにいるのか。


さくらは立ち上がり、歩き出す。スマホはベンチに置いたままだった。

「やっぱり、さくら死ぬつもりなの」

私の問いはさくらには届かない。

「さくら、さくら、」

私の声はさくらには届かない。

「あの時私の背中を押したのは……」

「さくらだよ」

届かない……はずだった。


「あの時、なつの背中を押したのはさくらだった」

「さくらはね、なつが他の子と話したり一緒にいたりするところを見るのも私の知らないなつがいるのも全部嫌だったの」

「さくらの知ってる、さくらと一緒にいるなつがなつの全部であって欲しいって思っちゃったの」

「だから、さくらがなつを殺したんだよ」

桜並木を抜け、さくらの足は迷わず進んでいく。夜に染まったままの町の中でさくらの足音だけが響いていた。


さくらは目当ての建物を見つけると、その規制テープに臆することなく中へ入っていく。そこは、つい最近取り壊しが決まった七階建てのビルだった。さくらは慣れたように階段を上り、屋上に入る。ここの屋上の鍵は暗証番号を入れるタイプで、ここの住民だったさくらはその番号をもちろん知っていた。

屋上に入るとさくらはようやく足を止めた。柵の近くに、ローファーを脱いで綺麗に揃えると鞄もそこに並べて置いた。

それから柵の外側に寄り掛かるように立ったさくらは、今まで続いていた沈黙を破るように深呼吸をして、話しだした。

「なつだって本当はわかってるよね」

私はさくらの言葉を黙って聞いていた。私たちの後ろでほのかに朝日が昇りだす。揺れる太陽の光は私の存在を連れていく。霞んでいく私はたださくらの言葉に耳を傾けることしかできなかった。

「さくら達はお互いに殺しあったんだって」

さくらは器用に体を回転させ、それから迷うことなく宙に飛んだ。

「だって、さくらの顔見て笑ってたもんね」

そして、しっかりと私の目を見て笑った。


「だから、さくらを殺したのはなつだよ」



入学式の日、前後になった席で初めて話した時。

「私、小林なつ。よろしくね」

笑いかけた私にさくらは、

「佐藤さくら。よろしく」

そう言った。


それだけで私には分かった。この子は、私と同じだと。

誰からの愛も知らない、不幸せな子なのだと。


似た者同士の私たちが仲良くなるのに時間はかからなかった。


誰もいなくなった教室に二人でいた時。

「世界に二人だけみたいだね」

窓際に立って風に当たっていた私にさくらは、

「そうだったらいいのに」

そう呟いた。


二人の世界は完璧だった。二人でいれば幸せだった。

でも、さくらの転校が決まった。


幸せが、壊れる音がした。


夕日に染まった桜並木に二つの影が伸びた時。

「さくら、私死にたいの」

何の脈略もなくそう言った私にさくらは、

「いいんじゃない?」

そう答えた。


別れのワルツが流れる店内で溶け切った氷を飲み干した時。

「さくら、私死のうと思う」

さくらは立ち上がって私に背を向けたまま、

「ふーん」

そう返した。


クラクションが鳴り響いた、あの時。

「なんで」

伸ばしかけた手を力なく握りながら聞いたさくらに私は、

「幸せ過ぎて」

そう笑った。


死を選んだのは、一人が怖かったから。

止めなかったのは、未来を恐れたから。


二人は殺された、自分たちの幸せに。


彼女たちは笑った、ただ、幸せだから笑った。

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