夢の清算

台風のめ

清算の過程

 空は、この世界に住む誰をも咎めるような曇天であった。瑠衣は擦り切れそうな靴のかかとをひきずって歩いた。肌に触れる空気が重く、街路樹の葉が重く垂れ下がっている。カラカラと鳴くカバンの中で、恭介のかきかけの原稿が夜の端でほんの少し震えていた。


 (投稿、するのだろうか。)体中が心臓のように脈打った五年前の夜の感触が、また脈を打ちだす。夢のなかで彼の手が自分の背に落ち、耳元に吐息がかかり、水底へと滑り落ちる浮遊の快楽。その映像はあまりに鮮烈で、現実に戻っても色褪せない焼き印のように残る。


恭介は――あいつは、それを小説にした。しかも、瑠衣の知らない、二人だけが知るはずの仕草、言葉の端、死んだ恋人の笑い方の輪郭までが、白地に浮かび上がっている。


―――


 当時、恭介は「取材」と言った。問われるままに瑠衣は答えた。なぜそのような夢を見るのか?それは、瑠衣にも分からない。じゃあ、彼はどんな食べ物が好きか?どんな仕草をするのか。瑠衣はじんわりとした痛みとともに過去の記憶を解凍しては、恭介にひとつずつ渡していった。そのやりとりはすこしずつ温度をはらんでゆき、恭介との手紙は、瑠衣にとっては甘い侵入であり、慰めにもなったのであった。


 だがその慰めは、彼女の夢を盗んだ痕跡でもあった。潜在意識ネットワークという言葉を初めて知ったのは、図書館で偶然、その言葉をみつけたときで、ある論文の断片が示していたのは、夢の断片が意図せず他者の観測に晒されることのある仕組みであるという。データ化された夢の共有領域、そこに接続できる「感覚観測者」が稀に存在するらしい。もし恭介がその観測経路を辿っていたとしたら。もし私の最も私的な夜が、彼の作業台で開示されていたら。


 怒りが澱のように溜まる。裏切りの種類はいくつもあるが、これは侵入という種類だった。愛を装った盗み。夢は瑠衣にとって、亡くなった恋人と対話するための最後の無垢な場所だった。誰かの創作物になることを、彼女はどうしても受け入れられなかった。恭介には罪があるのだろうか。彼が意図したかどうかも分からない。でも、結果は同じだ。私の記憶が素材になっている。私の悲しみが創作の燃料になっている。


 恭介が外出した午後、瑠衣は台所で簡単な朝食の残りを片付けながら、あの原稿を手に取った。ページの匂いは彼の書斎と同じで、紙の繊維が指先に冷たかった。彼の文章は静かに語る。だがページを追うと、やはりそこにあるのは瑠衣が自分でしか知らないはずの場面。亡くなった恋人が、夢の中で彼女の名を呼ぶところ。抱きしめるしぐさ。瑠衣は目を閉じた。胸の脈がつよくなる。


 復讐のかたちは、案外簡潔だった。恭介には知名度があり、彼が関わるものは往々にして注目を集める。瑠衣は恭介の制作過程を暴露する原稿を書いた。事実を。「取材」という名でどれほど詳細に私的領域へ踏み込まれたか、どのように潜在意識ネットワークが関与した可能性があるか。恭介が知らずに夢の断片を拾ったという可能性にも触れつつ、核心は揺らがないように書いた。恭介の創作行為が、私の喪の静けさを裂いたこと。夢を他者のために用いるという行為の暴力。


 瑠衣は投稿の下書きをXに打ち込みながら、何度も指を止めた。公開の波及を想像して、胸の奥が冷たくなった。復讐が欲しいのか。それとも公正にさばいてほしいのだろうか。あるいはただ、自分の痛みを外へ出してしまいたいだけなのか。紙面を前にして、自分の動機が次第に透けて見えた。傷つけられたという事実と、それに対して人前で泣いてみせることの価値。彼女は最後まで書き切った。タイトルにはこう付けた。「夢を盗んだひとへ」。


 投稿ボタンを押す手が震えた。指先が、ほんの一瞬だけ躊躇した。その一瞬の中で瑠衣は思い浮かべる。恭介と過ごした日々の他愛ないやりとり。彼が眠る前に送った短いメッセージ。お互いに見せた弱さ。憎しみは確かに深いが、愛情もまたそこにあったのだ。だがその思いは、彼女を正当化しない。夢は夢のままにしておきたかった。


 ボタンを押した。


 文字は世界へ出た。曇天の下、通知はすぐに鳴り始める。最初は数人の共感の言葉、次に拡散。恭介の名前もタグ付けされる。フォロワーが多いほど、波紋は確実だ。瑠衣は画面越しに自分の胸の鼓動が反射するのを見た。沈黙のあと、すぐに恭介からのメッセージが来た。

「瑠衣、読んだ。話がある。家に戻れるか」

その一言は無理に冷たくも温かくもなく、ただ必要な招集のベルのようだった。彼女はためらいなく帰る道を選んだ。曇天は相変わらずだが、歩幅は確かだった。


 帰宅すると、部屋には恭介がいた。机の上にはノートと、消しゴムの削り屑が散らばっている。彼の顔は長居の痕があった。疲れているが、目の奥は乱れていた。瑠衣は声を振り絞らずに言った。

「あなたは、私の夢を取材のために見たの?」

恭介はしばらく黙っていた。やがて、彼は椅子から立ち上がり、窓の外を見た。曇った窓ガラスに、ふたりの影がぼんやりと映る。彼は低く言った。

「違う。盗んだつもりはなかった。だけど、知ってしまった。ある日、夜中に何かが見せてくれたんだ。夢の断片が、勝手に手の中に滑り込んできた。書くつもりはなかった。でも、書かずにはいられなくなった。僕はそれを説明する術がなかった。隠した。ごめん」

それは告白にも似ていた。だがその言葉だけで瑠衣の心は収まらない。恭介の「知らなかった」は、彼女にとっては無力な言い訳だ。だが、彼の胸のうちにはまた別の苦しみがあるらしかった。彼もまた、夢を覗くことに自責を感じている。創作と倫理の間で揺れる人間の姿が、まざまざと示される。

「あなたは、私のいちばん大事な部分を、誰かの前にさらけ出したの」

瑠衣の声は冷たく、だが震えていた。

「そうだ。知らないうちに。だが、気づいたときにはもう遅かった。書いたことで僕は満たされた部分もあった。けれど同時に、きみを傷つけた。だから謝る。でも謝罪だけで済むなら、僕はそもそもこんなに苦しまない」

二人の言葉は交差した。恭介は自分の行為を正当化しようとはしなかった。ただ、胸の内の乱れを見せることで、何かを取り戻そうとしていた。瑠衣は怒りと哀しみと羞恥の間で揺れた。投稿はすでに公のものとなり、恭介は仕事を失うだろう。だがそれで彼女の夢が返るわけではない。返ることなどない。返ることがないからこそ、彼女は投稿したのだ。だがそれでも、虚無感だけが残る。


 夜が深まるにつれて、拡散の波は凪いだり荒れたりを繰り返した。支持する声、非難する声、倫理論を展開する言葉、同情する書き込み。恭介自身にも、制作過程を説明する会見や、謝罪文を出すという案が持ち上がった。瑠衣はしばらくその様子を見ていたが、やがて画面を閉じた。目の前には恭介が座っている。ふたりは言葉を尽くした。やがて、言葉が果たせないところへ達すると、彼らは無言で互いの距離を計った。


 翌朝、瑠衣は一人で神保町の古書店へ歩いた。今日は目次ではなく、湖に近い公園のベンチを選んだ。手許のコーヒーは冷えていて、空はまだくすんでいる。


 思えば、夢はいつから私のものだったのか。あの夜、バイク事故で彼が消えたときから、夢は彼と私の間に生まれた。誰にも触れさせたくなかったのは、その純粋さゆえだ。だが世界は他人の視線と混ざり合い、いつしか私の内側さえも公共物になってしまう。瑠衣はそれを誰かのせいにしたかった。恭介はその受肉だった。


 彼女は小さく息を吐いて、ノートを取り出す。今日は復讐でも告発でもない。自分自身へ向けた記録を書くためのノートだ。夢の断片を、自分の言葉で封じる作業。誰かに見せるためではない。自分の身体の内側でしか有効でない言葉を置くための行為。瑠衣はペンを走らせた。文字は滑らかに、そして厳しく湖面へ落ちる石のように波紋を広げた。


 数週間後、恭介の謝罪と釈明は公に出た。彼はしばらく人前から姿を消した。瑠衣の投稿は賛否を呼んだが、多くの人が夢と個人の権利について議論を始めた。瑠衣の望みは、とても小さかった。夢を、ただ一度でもいいから静かにしておいてほしかった。議論が何かを変えるとは思わなかったが、少なくとも彼女は自分の痛みを言葉にしたことで、眠りから少しだけ距離を取ることができた。


 ある夕方、湖畔で瑠衣は立ち止まった。水面は曇天の光を吸い込み、やわらかな息をしている。彼女は透明な石を拾い上げ、指先でその縁をなぞった。五年前のあの夜の手触りは消えないが、手の中の石は冷たく確かで、これが現実だと告げてくれる。

 

 だれも完全に清算できない傷がある。だが瑠衣は知っていた。暴露も復讐も、そして許しも、すべては自分の内側で完了させること以外に、本当の治癒はないのだと。彼女は石をそっと水に落とした。小さな波紋が広がり、やがて消える。その消える過程に、彼女はやさしい慰めを見た。胸の鼓動はまだ速い。だが脈のリズムとともに、彼女はゆっくりと歩き出した。曇天が少しだけ薄くなり、遠くのビルの輪郭が見えた。世界はいつも通り不完全で、それでいいのだと、瑠衣は思った。

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