宿雪
堂園みこと
残雪に芽吹く、春の気配
私の心が「まだ終わっていない」と囁いたの
は、冬の静けさが一瞬だけ音を忘れたような
一刻だった。
その瞬間、私は言葉にできない余韻を抱きし
めるしかなくて、
まだ消えきらない感触を探すように歩いてい
た。
足跡が続く地面を、
一歩ずつ確かめるように踏みしめながら、
心は静かに過去をなぞっていく。
好きと幸せは、別のところにある。
その違いを私はあなたと過ごした時間の端々
で知った。
初めて並んで歩いた日の空気の冷たさ、
笑いをこらえた横顔、
ふと手を繋いだ瞬間のぬくもり。
名前を呼ばれたときに胸が跳ねた脈。
どれも確かで、
どれも満たすには少しだけ届かなかった。
言葉を選びながら話すことは、心遣いであ
り、どこか美しい行為にも思えた。
でもいつしかそれは、自分の心を慎重にしま
い込む癖になっていた。
時間はゆっくりと静かに積み重なり、
気づかないうちに私たちの距離を育てていっ
たのだろう。
あなたと過ごしたその時間は、
砂糖がほんの少し溶けたぬるいコーヒーのよ
うで、ほんのり甘く、でも心を芯から満た
すには足りなかった。
嫌われないように。
失わないように。
優しさで外側を取り繕いながら、
本音を遠くにしまい込み、
心のどこかで自分を守ろうとしていたのだと、私は振り返りながら、ようやく気がついた。
大人になるというのは、
心の奥の感情を消したり閉じ込めたりせず、
そっとその存在をまるごと受け止められるよ
うになることかもしれない。
そしてその気持ちが自分をどこへ導こうとし
ているのかを感じ取りながら、自分の足で
ゆっくり一歩ずつ進めるようになるのかもしれない。
安心。
信頼。
弱さを預けても帰ってこられる場所。
それらがなかったことを、
今なら否定せずに認められる。
あなたの声を思い出す。
低くて柔らかい声で
私の名前を呼ぶたび、
空気の温度が変わるように感じた。
その響きに触れると、
胸の奥が静かに揺れる。
それは痛みでも、
苦しみでもなく、
ただ特別な感触だけが、そこに残る。
忘れたいわけじゃない。
戻りたいわけでもない。
ただ、
その時間の細かな輪郭は鮮明に
今も私の中で生きている。
もしあなたが
横断歩道の向こう側で待っていたとしても、
私はもう、
迷うことなく歩き続けるだろう。
好きだった。
それは疑う余地のない事実。
でも、
幸せではなかった。
その二つが同時に在るということを、
私は静かに受け止めている。
ふと、あの日の言葉が胸に浮かんだ。
「雪が解けたら春になるね」
いつか私が言ったこの言葉を、
あなたはこれから先、
雪が溶けるのを見かけたり、
季節の節目にふと立ち止まるたびに
思い出してくれるだろうか。
居場所にはならなかった人。
けれど、
あなたは確かに
私をここまで連れてきてくれた。
足跡はもうすぐ消える。
でもそこにあったという事実だけが、
私の胸の奥で静かに息をしている。
私はもう、
その場に留まらない。
思い出を抱きしめながら、
ゆっくりと歩き出す。
そしてまた、
愛する人を想う強さを
自分自身の力に変えられるように生きてい
く。
宿雪 堂園みこと @hakuu_ka
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