聖域

上雲楽

もののけ

 仕事納めは酔っぱらいを避けていたし、吐瀉物が雨で洗い流されたあとをわたしの住むアパートのごみ捨て場に見かけて以来、外出していない。

 日記を捨てるついでに作業していた、たまり続けた、いろとりどりの警戒色の税金の郵便物や、英会話のチラシを捨てるおだやかな年始に、あけおめLINEの通知も消しながら、間宮から半年前にLINEが来ていた。ステレオグラムの、月面の写真だった。宇宙服が着陸していたから、たぶんアポロだった。「アバター」の新作が公開されてなついな、と感慨に浸っても3Dメガネのことは忘れている。それに気がついた。間宮の連絡はそれだけで、それ以前の会話の記録は機種変したからか、ない。間宮が誰かもわからなかったが、たぶん中学校の同級生だった。いつか聞いた中学時代の同級生のあこがれ、極相林のブナやシイとたわむれながら、終わらない山津波や指笛と混同されるカッコウなどの断末魔、氾濫する川、赤色のあせた立ち入り禁止の看板をもてあそぶ、妖怪や神霊として名づけられる前の原始的なもののけに出くわすこと、きっと、現象に名前がついてしまわない、おそろしいできごとを期待していたその同級生は、UFOは嫌いだった。それを間宮と考えることにした。

 もののけへの信仰でも畏怖でもない、なんとなくいぶかしい感じがすでに、Discordの通知もさかのぼり、わたしが考えたことがすでに書かれているのに気がついた。VR Chatの、過疎サーバーで知り合った人だった。そのサーバーは、どこでもないありふれた寂れた団地を模していて、わたしのなつかしむ上京以前の濃尾平野にそびえたふるびた団地を崇めるように、仕事終わりに過疎サーバーに入り浸り、でもわたしはこどものころも団地の外のアパートに住んでいた。同級生の半分はどこかの団地に住んでいた。終わらない歩き続けられる薄暗い廊下も「P.T.みたいだね(笑)」って、仕組まれたホラー的なグリッチ、ささやき声や、団地の壁に刻まれた予言めいた落書き、わたしのアバターを反射しないエレベーターの鏡、監視カメラにへらへらおびえながら、はじめは用意されたお化けと思っていた「hajimezzz」さんの、ケモノアバターはあとから趣味と知った。青い二足歩行の太った犬で、目が大きかった。しばらく、ノイズのように繰り出されるこんにちはも、やはりサーバーの仕組んだ、不釣り合いな、廃墟の遊園地のマスコットにおびえさせるようなサービス精神だと思って、ヘッドセットごしにくすくす笑っていたら、

「どうしてここに?」

 と言われた。それで向こう側に人がいるのに気がついて、

「なついなーって。原風景的な感じですね……」

「これ、YouTube回しているけど大丈夫ですか? 興味あります?」

「まあ」

 それでDiscordに入った。「hajimezzz」さんは、過疎サーバーをいくつも配信していて、百人くらい視聴者がいた。Discordで、

「このサーバーは団地のしみとか、ボヤ騒ぎとか、一九六〇年代以来の団地土地計画に基づいた批評性があるんですね、けっこう仕掛けがあって面白いですよ。団地のエントランスに月面写真が飾られていて、アポロ計画への目配せなんですけど、このVRゴーグルで見ると、シュードスコープになっているんです。どうしてでしょう?」

「わたし、森に行きたいけど、小学校で行った中津川は整えられていて、コレジャナイ感(笑)でした。だから、団地にいりびたって、のろのろ動くエレベーターで鬼ごっこしていたこどものころの記憶も、座敷わらし的に擬人化、というか神霊化されるわけでもなく、なんか変だな、って思って、森が切り開かれたわけでもなく、田んぼが広がって町になって住みよい暮らしも、空襲で焼かれて大勢死ぬ。焼け野原に団地がぞろぞろ出来上がってあたらしく思えたらしい団地も、わたしが知るころには、安いドラッグストアやスーパーや、ときどきテレビで紹介されるつけ麺屋さんに囲まれて住みよいし、ボヤや孤独死で数か月にひとりは死ぬ。鬼ごっこで、ひとり多いとか、そういう目に見える変化じゃなくて、もっと薄皮一枚ぺりっとされた感じで追われている感覚自体、誰かに見られているな、というより、視線の痕跡があったんだなって、こどものころは想像していて、それはパレイドリア現象でもなく、もっと根元的にたばこの臭いがないのに、路上喫煙があったんだな、って直観したり、ねずみが逃げるから地震がくるんだね、ってわかったあとの震度〇って感じで、団地で騒ぐなと騒いでいたばあさんも老死しました(笑)」

「『アンフラマンス』ってきいたことあります?」

「しらないです」

「マルセル・デュシャンは『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』という作品を作りました。大きなガラスを使いました。フィラデルフィア美術館に展示されていて、見に行ったことがあります。これが展示されているスペースの横に独立した空間があって、そこに入るとデュシャンの遺作とされている作品が収められているんです。すると壁があって、周りを煉瓦で囲んである古い木の扉があって、覗き穴が開いていて、裸の女の人が股を開いてこっちを向いていて、左手に照明用ガスを握っている絵がある。覗き穴は観覧者の歴代の皮脂で汚くて、欲望の雰囲気? でした。そういう痕跡というか、物質的な薄さや人間の感覚域に関わる薄さではなく、もっと、」

「もののけ的な?」

「そうでしょうね。事実、」

 それで、メッセージが途絶えていた。わたしも仕事が忙しくなって、団地のサーバーに無目的にリラクゼーションすることもなくなったし、思い出したDiscordも廃墟になっていたけど、間宮も「hajimezzz」さんもアポロに興味をもっていて、わたしはわたしのうまれる前のことには興味なかった。でも、月面の星条旗の揺らぎは、もののけ的だと思った。間宮もそう思い、LINEしたのだろう……。半年近く前に、久しぶりに月面に人が着陸したのは、わたしではないし、宇宙飛行士になるには目が悪い。ロシア語も中国語もわからないし、英語もネットニュースや、チャットで人種的にわたしを侮辱するミーム以外読み取れなかった。月面の都市計画は資金集めのための、虚勢だと言われていたし、ケネディも暗殺されてフォン・ブラウンも癌で死んでから、宇宙にときめきを感じる暇がなくなってしまったのだと、「hajimezzz」さんが言っていた。むかし流行った、月面の土地の権利の与太話が現実化して、裁判があった。

 団地は無料配布されたアセットをでたらめに読み込んでいくように造形されているのか、ボヤの見える遠くの棟からオーボエの音の東方アレンジが流れる。にじむ人影から、パイプオルガンの音の東方アレンジが流れる。こどものころに塗り忘れた日焼け止めのせいだと信じている肌のひりひりが、いくども皮がむけて、トランペットの東方アレンジが流れる。これは「少女幻葬」を勝手に使った、イカのおもちゃがバズったからそれのパロディですね、と「hajimezzz」さんが教えてくれたことだったが、イカがいるのか? 不可視のイカが見かけられる仕掛けの団地なのだろうか? わたしは、団地のことをよくわからないまま、インスタントコーヒーを机に置いた部屋のままログインしている。

 誰もいなかったし、かすかに電線の鳴る音が聴こえる。団地は曇り空でこどものくすくす笑いを再生していて、これ見よがしな恐怖演出で、いらいらした。生理痛もあった。これを設計した人物は、たぶんホラーゲームを作ろうとして、あきらめたんだと思う。その証拠のように、ジャンプスケアにもならない、違和の破片が、にぶく残っていて、仕様ともバグとも判別のつかないそれは、例えばログイン時にも、団地の間の道を五メートル程度の高さから落下し、人の視線の位置になり、「同期に失敗しました」が三度表示される。団地の看板は赤いテクスチャで埋めつくされている。団地に侵入して直進してから左手側にあるB-3棟のゴミ捨て場の袋詰めにされたメルちゃんを右の視界に入れるとブロックノイズが激しくなって、さらに右の視界外にメルちゃんがレンダリングされ、近づくたびにそれが繰り返され、延々とB-3棟の外縁が引き伸ばされ、こらえていた吐き気も思い出す。視点の位置にしろ、歩行感覚にしろ、操作感がどうも直感と反していて、それは、動作がもっさりしているとか、物理エンジンがおかしいとか、そういうわけでもなく(それも一因だろうけど)わたしも大人になってしまったんだな、と思った。わたしの知る団地を通学路にしていたころも、団地の外の人を見張る痩せ細ったピンクのキャミソールの老婆が、わたしの通るたびに、くちびるが、「痛い、痛い……」とつぶやいていて、それと目を合わせたら、わたしの気圧性の頭痛も悪化した。だから、常に視界外に入れるようにしたのに、東から差し込む太陽光のまぶしさに一瞬手袋がおっくうになり、外すべきか迷いながら通学路の団地を歩き続け、徒歩十五分の間に、すれ違う主婦や学生やベンチで顔を手で覆っている老人も、見慣れた風景のはずなのに、わたしと人々や光景の間に薄皮一枚かまされたような、ビニールカーテンで屈折した朝日をフィルターにしているような感覚の中で頭痛が悪化して、痛いと思うわたしは、「痛い」とつぶやく老婆を脳内でよみがえらせて、くちびるの動きをわたし自身で再現し、憑依されたと今気がついて、みがわりにメルちゃんにキャミソールを着せたい。でも、メルちゃんに追いつけない……。そのようにして延々と引き伸ばされるB-3棟にもうんざりして、雑多に本を並べたままのベッドに寝ころがって、団地の公園の滑り台へ移動し、このサーバーでノスタルジーにひたっていた数年前はコロナもひどかったし、誰も立ち入らない朝の新宿駅にうっとりしたり、「hajimezzz」さんの教えるSteamのよくわからないフリーゲームをプレイして、Discordで感想を話していた。Discordの感想と、「hajimezzz」さんのフリーゲーム実況動画の感想はよく食い違っていた。わたしは、街がマスクをやめるころには、大学を留年して充実していたし、生理痛もピルでおさえるようにして充実していたし、お酒も飲める年齢を過ぎた。下戸だった。そのようにして変化してしまったわたしの身体は、もはや団地をわたしの知る団地と同一視して、昔もこうしてレンダリングが失敗していたな、と客観的に思うだけだった。間宮は、そのような不和をもののけとよびならわしたいものだったのだろう。地元の、レンダリングに失敗して、壁に向かってのびているコンクリートの階段や、こどものいないベビーカーをおす女、Google Mapでは残存するマクドナルド、マクドナルドのフライドポテトは永遠に腐らないから、食べていると脳が腐ると学校では言い伝えられていた。

「hajimezzz」さんの言っていた、月面写真のステレオグラムは、各棟のエントランスに、ゴミ収集の注意書きや、お祭りの予定などといっしょに貼り付けてあった。同じく写真が二枚並んでいるだけのように見えるそれを凝視すると、システムか脳かわからないけど、一枚の像が結び、クレーターが飛び出して見えるし、宇宙飛行士が遠のく。星条旗は見えなかった。もしかしたら、気がついていないだけで、他の場所にも、似たような仕組みの見え方があるかもしれない。

 生命の痕跡をふるい宇宙飛行士の足跡だけ残し、ときどき落ちる大気ともすれ違うことのない隕石のあとと、森林火災から逃れて恒常的に繁り続ける陰樹林は人間の侵入を拒絶せずとも、生態系には影響を受けることなく、聖域として変化をやめているように見える。団地も、ときどきのボヤであたかも修繕されているように見せかけながら、その実あたらしく人が入ってくることも出ていくこともなく、空き部屋は増えないのに、毎月のように老人が死ぬ。根から腐る陰樹のように……。見渡す団地は苔のテクスチャすらなくて、かつて製作者が遺した化石じみた機構以外、おぼろげに動く気配すらなく、音さえなければ真空的だった。生活音を模した、遠くでトラックの走る音や、救急車らしきサイレンにまぎれるわたしの移動よりひとつ多い足音が、生命の痕跡らしきものを感じさせてくれたが、それはわたしの痕跡だった。太陽の位置もわからず、UFOもなかった。わたしは空腹だったけど、部屋の片付けもしなくてはならなかったし、LINEの返事も考えていた。ひとまず、団地に表示される月面写真のスクショだけした。冷蔵庫には、ドイツパンと板チョコとチーズとコチュジャンしか入っていない。それらも、いつから入っていたのか思い出せない……。

 このまま団地でうすぼんやりするだけの隠遁者に成り果てたいけど、税金の紙もLINEも届く。きちんと未踏の森には行ったことがないし、生き延びることも死に絶えることもできず、森の周囲のガードレールをぐるぐる回って、いずれ余所者がいると通報されるとわかっていた。それより、荒涼とした団地で不審死するまで、団地を通りすがる通学中の小学生を舌打ちで威嚇しながら、ぼろきれのような服で住みよい暮らしを享受する方が現実的だろう。わたしの団地もアンタッチャブルな聖域として、もののけにおののきながら、電気代は払って、月面写真の反転した凹凸にうっとりする。スクショの月面写真は、すでに普通の平面写真に見えた。スクショには、見たときには気がつかなかったけど、月面写真の横に、注意書きが書いてあった。


わたしは宇宙にとっての目だ

宇宙はわたしを介して自分自身を見る

音楽と詩歌のすべての調和

あらゆる予言あらゆる医術はわたしから

芸術と自然のあらゆる光

勝利と称賛はわたしの歌から発する


 間宮は目がよくなるといって、ステレオグラムを教室に持ち込んだ気がするし、ステレオグラムで描かれた森の立体視に慣らして焦点を繰り返し移動させているうちに、眼球運動もわたしの恣意的な操作だとわかって、呼吸の仕組みを小学校で教えられたときの、幻肢痛じみた横隔膜の動きの不自然さを思い出し、長く滑っていたスケートをやめた直後の、大地が摩擦を発揮する感覚を思い出す。でも、わたしは隠遁者になることはできず、仕事で疲れているし、Uber Eatsは便利だった。

 遠くでインターホンの鳴る音が聞こえて、わたしはヘッドセットを外した。紙ごみを踏み潰しながら、玄関のドアの方を見ていた。Uber Eatsを頼んだ記憶はなかった。穴から外を覗いても、誰も立っていなかった。廊下を挟んで向かい側の部屋の扉が見えた。誰か住んでいるらしいけど、挨拶をしそびれた。

 わたしが住人を知らないということは住人もわたしを知らないはずで、むかしにおそれられていた、団地に住んでいるはずなのに、姿を見せず、風呂でスープになっているとうわさされていた老婆や、月面の裏側に基地を作ってUFOを飛ばすナチスの残党と、同じ扱いをされているんだろうし、わたしはしているし、間宮はUFOは嫌いだった。鬼火と呼ばれていた現象もUFOになり、ロマンは変異し、間宮はもっと根元的におそろしい光をおそれていた。根元的なおそろしさってなに? と聞いたら、

「お母さんのお母さんのお母さんが生まれる前に空襲は鬼の仕業じゃなかったし、警報があった。おばあちゃんのおばあちゃんのおばあちゃんが生まれる前は、おそろしい光もたいていよそもので、叩いて殺したからこわくなかった。でも、ひいおばあちゃんのひいおばあちゃんのひいおばあちゃんが生まれる前に、見た光が、北斗七星でもなければ、篝火でもなく、もちろんエジソンも生まれる前で、光を見て、祝いでも呪いでもなければもののけでしょう? そうやって、わたしたちにもっとも原始的な光がよみがえるんだよ……」

「口裂け女の方がこわい。整形に失敗した女なんでしょ?」

「ポマードポマードポマード」

 そして「紫の鏡」という言葉も忘れ、わたしは生き延びている!

 わたしが間宮に見られたら、もはやおさないころの面影はなく、団地でおそろしかった、痛いとつぶやく老婆にすら見えるだろう!

 空腹をごまかすインスタントコーヒーにも腹が痛み、小さなキッチンには裂きイカがあり、もぐもくするにはじゅうぶんだった。唾液が多く出た。遠くから「少女幻葬」の小学生の鼻歌が聞こえ、そんな時期? まだ年始の休みが続いているように思えた楽しい時期もいつの間にか終わり、わたしは小学生に裂きイカをくいちぎりながら、扉を叩いて威嚇するだろう! 暗い部屋もいつでもVRで昼間の薄暗い光が。

 それを思い浮かべながら、裂きイカは団地にはなく、ヘッドセットを装着して眠っていたい……。でも、年始の休みが終わればシャワーを浴びて仕事で街へ繰り出し、嘔吐をこらえて皮膚すれすれの冷たさも手袋でおおいかぶせ、肺から冷やされながら、電車で押し潰され、化粧している。ビジネスマナーだった。だからわたしは、滞納していた税金もコンビニで支払うし、スーパーで豚こま肉や牛乳を買った。腐る前に冷凍した。

 月面でのあたらしい着陸はわたしじゃないし、生きている間に月面都市へ移民することもなさそうだし、間宮に返事した月面写真のスクショは未読無視されている。

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聖域 上雲楽 @dasvir

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