いろんな彼と

ゆうり

硝煙の匂いと危険な男

【前書き】


今回の彼:裏社会を生きる彼

軽やかな余裕

距離が近いのに、踏み込みすぎない

優しいのに、全部は見せない


ヒロイン:腕の立つ諜報員



【本文】


「きゃあっ……! す、すみません」


私の手元から滑り落ちたグラス。

赤褐色の液体が、彼の胸元に広がる。


「すぐに拭くものを」


上司の声に小さくうなずき、私は急いでタオルを取りに行く。


内心、舌打ちをしたい気分だ。


本来、こんな風に直接彼に接触する予定ではなかった。

だが、状況が変わってしまったから仕方ない。


戻ってきて、彼のスーツにそっと触れる。

上等な生地だ。

仕立ての良さが一目でわかる。

その辺のサラリーマンが着れる代物じゃない。


「……あぁ、いいよ」


彼はにこりと笑って、私の手からタオルを取った。


「自分で拭くから」


その笑みは柔らかいのに、目だけが冷たい。

軽薄そうに見せているが、油断ならない男。


「あの……本当に、申し訳ありません」


何度も頭を下げる私に、彼はわざとらしく片目を瞑ってみせる。


「大丈夫だよ。かわいい子からなら、頭からワインをかけられたって構わない」


女慣れしていそうな声。


「でもなぁ」


彼は立ち上がり、濡れたスーツを一瞥して、わざとらしく肩をすくめた。


「さすがに、いくら僕の顔が良くても、このままじゃ困るなぁ。

このあと、大事な商談があったんだけど」


「本当に、本当に申し訳ありません!」

私は深く頭を下げる。

「クリーニング代は、私が負担させていただきますので」


「これ、けっこう高いよ」


「それでも……払わせてください」


一瞬の沈黙。

彼は私を値踏みするように見つめ、それから、ふっと笑った。


「ん〜。それよりさ」


彼は私の目線まで身をかがめ、耳元へ顔を寄せる。

甘く、ねだるような声。


「君の連絡先、教えてくれたら——なかったことにしてあげるよ」


反射的に、足を払おうとする衝動が走る。

――ふざけんな。

私はそれを、息と一緒に飲み込んだ。


「……ふふ。なんてね」


彼はあっさりと身を離す。


「冗談だよ。部屋に替えのスーツがあるから大丈夫。

気にしないで」


そう言って背を向けた彼の足音が、フロアの奥へと消えていく。


——作戦成功。


これで彼は、次の接待の前に部屋へ戻る。


すぐに、耳元で小さなノイズが走った。


『対象、部屋に入室。確認した』


インカム越しに聞こえた仲間の声に、私は視線を落とす。




——ここからが、本番だ。

 



バー店員の服を脱ぎ捨て動きやすい服に着替える。腰元には拳銃。


203号室。

彼の部屋番号を確認後、持っていたマスターキーをかざし部屋に入室する。


彼がこちらに気づいた様子はない。

その一瞬を逃さず、距離を詰め、後頭部に銃口を当てた。 


「動くな。動いたら殺す」


彼は無言で両手を挙げる。


「そのまま振り向かずに、こちらの質問にだけ答えろ」


「オーケー」



「最近、若い女性の行方不明者が増えている。……それと同時にお前たち組織に多額の金が舞い込んでいる。お前は、いやお前たち組織はそのことに関わっているんじゃないのか」


少しの沈黙があったあと彼は答えた。


「……ノー」

そう言った彼の声に動揺の色は見えない。


「だが、お前の参加した会合、お前と関わりのある取り引き先、お前たち組織が援助している施設の女性たちが狙われている。

それでも関係ないと言えるのか」


「イエスノー以外で答えてもオッケー?」


「許可する」


「それは偶然。たまたまだよ。ちゃんと調べたの?」


「当たり前だ。だからこうして動いている。行方不明になっているのは20代の女性。そしてその誘拐された女性たちに共通しているのが、多言語を話すことができるというところだ」


「そこまで調べてるのに、気づかないの?もう一つの共通点に」


彼がこちらを振り向く。瑠璃色の瞳が月明かりが差し美しく輝く。

銃口を向けられているというのに、彼には全く恐怖の色が見えない。


「彼女たちはみんなある仕事に従事していた」


「……ある仕事?」


彼の口元がゆっくりと弧を描いたと思うと銃を持っていた手首を一瞬で払われた。


くそ。

反射が一拍遅れた。

次の瞬間、金属音とともに視界が反転する。


「形成逆転だね」


銃を突きつけらたまま、壁に押しやられる。

そのまま、口元のマスクを奪われてしまい顔を晒す羽目になった。



「君は、あのバーの……。もしかして、ずっと僕を見張っていたのって君?」


彼の瞳がますます鋭さを帯びていく。

ゆっくりと耳にかかった髪をかきあげられ、インカムを取り外される。


そのまま彼はインカムを踏みつけた。


「ふふ。なんてね。気づいてたよ。気づいていて泳がせた。上手く消してるつもりかもしれないけど、

僕みたいな同業者にはさ。

君がどれだけ綺麗に隠しても、硝煙の匂いはすぐ分かっちゃうんだよね」


そのとき、窓の向こうでキラリとなにかが光るのが見えた。


あれは――。


「伏せてっ」


私は咄嗟に彼に覆い被さる。

その瞬間、窓を撃ち抜く音と共に銃弾が飛び込んできた。



彼は少しだけ驚いた様子だった。


「……なんで僕を助けたの」


「お前からは詳しい話を聞く必要があるから。それまでは殺させない」


「ふふ、女の子に守られるのも悪くないね」


「必要になったらお前は殺す」


「君みたいにかわいい子には殺されてもいいかもね」


余裕さえも感じさせるその笑みに苛立ちを感じる。殺される気なんてないくせに。


「さっきの話の続きだけど、僕もその事件を追っている側。だから今だけ共闘ということにしない?」


彼と組むのは危険だ。

本能がそう告げていた。



なにが危険なのかは、そのときの私にはまだ分からなかった。





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いろんな彼と ゆうり @sawakowasako

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