香らずの花

顛末

 残り一分で発車する渋谷行きのオレンジラインをした地下鉄に、遅れてやってきた同僚を押し込んで飛び乗る。何とか間一髪で駆け込むと、背後から地獄の門が勢い良く閉まる時のような煙と鉄の音がした。

 「な、間に合ったろ?」

 「何がな、だ馬鹿野郎。あと六〇秒遅かったらお前を祟り殺すところだった」

 「俺の俊足がお前の怨念を追い抜いた訳だ」

 「ハァ」

 「わかってるよ。お前の九十八日間が無駄にならなくて良かった」

 切り揃えられたオカッパ頭が視界の端で優雅に揺れる。反省しているのかいないのか、呑気な顔をした琴挽(ことひ)は唇から白い歯を覗かせていた。

 荒くなった息を整えるのもそこそこに、俺たちを乗せた鉄の塊は外苑前を過ぎて二つ隣の表参道駅へ到着する。兎にも角にも前髪とスーツの皺の状況だけは確認し、ボンヤリした同僚を抱えて俺は再び外界へ駆け出した。

 「なぁ、そんなに急がなくてもまだ閉まらんだろ」

 「じゃお前は後から来い! 俺は行く」

 「そうも言ってられん。何せあと二回しか無いんだからな」

 無視を決め込んで走り続ける俺に、意外にも同僚は訳もなく追い付いてきていた。この為に走り込みすら始めた自分と同じレベルを維持していることは何だか腹立たしいが、時間を浪費されるよりはまだマシだ。

 次の角を曲がって目的地がもう目と鼻の先、というところで立ち止まると、急ブレーキのかかった車のように琴挽も立ち止まる。遠心力に振り回されてつんのめりながら、軽いステップでたたらを踏んでいた。

 狭い路地裏の街灯に照らされ、琴挽と俺の二つの影が伸びている。誘蛾灯に引き寄せられた幾つかの羽音を聞き流しながら、スマートフォンのスクリーンを最大限明るくして自分の顔面を照らしてみせた。

 「俺の顔どこか変じゃないか」

 「はいはい、大丈夫だ色男」

 「どうしよう、汗臭いかもしれない」

 「まぁ物凄い急いで来ましたって感じだな」

 「否定してくれ……ふぅ。よし、行こう」

 「ん。遂に九十九回目か。何だか俺まで感慨深い」

 「ああ。ここまで長かった」

 「全く、女は得だな! 若くて美しいというだけでこうまで継続した売上がある」

 「俺には若くて美しいだけに見えてるお前が心底羨ましいよ」

 軽口を叩き合いながら、乱れた身なりを整える。念入りにワックスで固めたはずの髪の数本は流れに逆らっていたが、一分一秒でも惜しい今は気にもしていられない。シンとした夜の細い路地に、ひっそりと隠れるように佇むその店へ、焦る心音を落ち着かせながら鷹揚な足取りで向かった。

 意を決して死角から顔を出し、ゆっくりとその花屋へと一歩、足を踏み入れる。来訪者を報せる鈴の音が鳴り響き、アンティーク調の硝子戸が思いの外軽い力で容易く開いていった。早鐘を鳴らす心臓を抑え付けてカウンターに近付くと、あの艶やかな黒髪が月光を跳ね返して幽玄に光る。

 「アラ。鳳様、今晩は」

 「どうも」

 「本日こそ遂に、いらっしゃらないかと思いましたのに」

 「……いつもの物を一つ。今日も、明日も来ますよ。今の俺の生き甲斐ですから」

 「ハア。承知いたしました」

 「初音さん、こんばんは。コイツももう九十九日目だってよ。大の男の執着は、ここまで来るとやっぱり恐ろしいかな」

 「おい」

 「柳様もいらしていたのですね、今晩は」

 「この馬鹿のことは無視して良いので、お願いします」

 「ハイ」

 白梅のような白い指先がレジ横の造花にスッと伸び、丁寧に検品されたそれが流れるような仕草でOPP袋に包まれていく。ラッピング用のリボンより余程赤い彼女の唇が微かに震え、チロリと唐紅の舌が覗いた。

 「……」

 集中した様子の彼女をジッと見つめていると、玲瓏な瞳が瞼の裏からゆるりとこちらを向く。咎められたような気持ちになりながら、短い梱包の時間が永遠になることを祈っていた。

 「どうぞ」

 「ありがとうございます」

 「なぁ、俺も百日通えば君に相手してもらえるのかい?」

 「琴挽、いい加減黙れ。……遅くにすみませんでした。閉店時間ですし、お暇します」

 「ハイ」

 「本当はあなたと、もっとお話したいのですが」

 「御冗談を……。毎度あり」

 全く感情の篭もっていない生返事に押し出されるようにして、入ったばかりの店を出る。天高くからこちらを見下ろす月すら入店前と姿を変えておらず、違うのはただ、俺の右手に一輪のドライフラワーが握られていることだけだった。

 パチリと音がして、陽炎のように伸びていた細長い影が姿を消す。電気の落とされた店は誰も知らない墓地のように静かで、月影に紛れてひっそりと、そして美しく黙していた。

 「……」

 「そう怒るなよ」

 「貴重な数分をお前みたいな冷やかしに奪われる俺の気持ちを考えてから発言してくれ」

 「ふん、笑わせる。本当は助かったと思っている癖に」

 「は?」

 「口下手なお前じゃあ間を持たせられないだろう? 少納言の鶏鳴狗盗ってな」

 「まず、俺は『あけて待つとか』なんて思い上がったことは言わない。それにお前の例えは普通は通じないから、今は余計に嫌味ったらしい」

 「お前には通じるじゃないか」

 「俺はごっこ遊びに付き合う気は無い」

 こんなやりとりを、もう幾度重ねただろう。ケラケラと愉快そうに笑う男を尻目に、俺は長い旅路を終える直前のような、深い感傷に浸っていた。

 会社の同僚・柳琴挽(やなぎことひ)と彼女の店を訪れるようになって、もう九十九日が経過している。目的はその店で働く彼女──初音桐乃(はつねきりの)。表参道に佇む、あの花屋一家の一人娘だ。二階建ての上が初音家の実家としての役割も果たしているので、シフトが無くとも必ずその小さな花園のどこかには必ず彼女が居る事になる。だからこそ、俺達は駄目元で毎日通い詰めているのだった。彼女が店先に現れない日は別の店員に言伝を頼み、丁度店番の日には他の客人が一段落するまで所在無く身を持て余して待機する。大雨で辺り一面が浸水した日にすら長靴を履いて、俺たちは欠かさず一輪の造花を買いに赴いていた。

 もう三ヶ月以上、就業後はこの店にしか足を運んでいない。コンペの打ち上げも、華金の飲み会も断って、俺は一目散にこの店へ駆け付けているのだから。避けようもない残業が見込まれる日には、昼飯を抜き、代わりに食えもしない花を持って休憩から戻った事もあった。

 「お前も中々紳士だな。そんなに好きなら幾らでもやりようがあるだろう。閉店間際の店、ワンオペで店番をする女、金も権力もある男」

 悪魔のように口を三日月型に歪めながら、琴挽は低俗なボヤきを漏らす。下品な話し方をそのまま表すように、マナーを知らない人差し指が真っ直ぐ俺に突き付けられていた。

 「琴挽こそ、何も分かってないな。俺は彼女を手に入れたい訳じゃない。彼女に好かれたいんだ」

 「ふぅん。そんなものか」

 「どうせ理解不能だとでも思ってるんだろ」

 「そうでもないさ。『しつこい男は嫌われる』だろ?」

 「はあ。もうそれで良いよ、俺は帰る。じゃあな」

 「おいおいもうお暇か? どっか寄って行こうぜ、相棒」

 「離せ。俺の用事は済んだ。お前も満足しただろ」

 「つれないな」 

 「明日は絶対に失敗できないんだ。俺はとっとと帰って寝る」

 背を向けて歩き出すと、観念したのかそれ以上琴挽は追って来なかった。俺の「用事」を知った途端勝手に付き纏うようになった図々しい男だが、案外サッパリとした性質のようで、毎晩の「これ」以外には付き合いらしい付き合いも無い。一応は何度か休暇に誘われたりしたが、それも形式上のものだろう。

 ギュルギュルギュル───……

 「っ⁉」

 高い悲鳴のような、断末魔のような音がして、直後に並木道の背の高い樹木から何かが飛び立つ。蝙蝠のような影を落としたそれは、よく目を凝らしてみれば鳥の一種のようだった。

 ──これは面白い。

 今さっき鶏の鳴き真似を持ち出したあの男を、少し揶揄ってやろう。そう思って反対側へ振り返ると、琴挽は何故か直線ではなく俺と別れた曲がり角を右折して歩いていた。……まるで、あの花屋へ引き返すかのように。

 「琴挽?」

 胸の内が嵐の夜のようにざわついて、何となく不快な思いで満ちて行く。浅黒いその感情は蜷局を巻いて次第に肥大化し、俺の心臓から飛び出てはち切れんばかりに膨らんでいた。……けれど闇に溶けて小さくなって行くその寂しげな背中を目で追ううち、その苛烈な感情も空気が抜けるように萎んでいく。次第に俺は、他人の見てはいけない何か重大な秘密を目の当たりにしているような罪悪感に駆られてきた。琴挽はその無防備な背を、今まさに誰かに見られているだなんて露ほどにも思っていないのだろう。

 ──しつこい男は嫌われる、だろ?

 噛んで含むような呟きが、耳の奥で再び木霊する。それは低いアルトの調べで、悠々とした鳥の音色のように紡がれていった。

 「……」

 街頭の周りを埋め尽くす木々が夜の風に揺られて音を立てている。ザワザワとした喧騒に包まれながら、俺は琴挽を追わず、前へと向き直して歩みを進めた。

 彼女はもう店を閉めているし、同僚にだって自由に過ごす権利がある。そもそも琴挽が興味を抱いているのは、彼女自身ではなく俺との関係についてなのだ。禄に会話もしたことの無いあの人にいきなり言い寄ったりもしないだろう。そして万一そうなったとして、彼女にすげなく追い返されるのがオチだ。丁度九十九日間の、自分がそうだったように。

 往来にポッカリと空いた地下鉄へと繋がる穴に、無気力な顔をした人々が吸い込まれていく。

 俺はそこへ落ちていく人間の濁流に身を任せながら、雲に身を隠した月から不思議と目を逸らせずにいた。

*

 「おい」

 「……驚いたな、成壱から俺に話しかけてくるなんて」

 パリッとしたスーツの社員で混み合う昼下がりの食堂。銀光りするトレーを手にした人波に紛れ、昨晩ぶりのオカッパ頭に今度は俺からにじり寄っていた。許可を得るより早く、勝手にその隣に腰を下ろす。

 琴挽は蕎麦に天ぷらという、なんとも王道なメニューの黄金色の海老を頬張っているところだった。ぱりぱりの衣とギッシリ詰まった身を捕食しながら、ぱちくりと瞬きしてこちらを見上げている。

 「お前、昨日あの後どうした?」

 「……ん、もが」

 「汚いな。食べ終わってからで良い」

 「ふう。なるほどな、見てたのか」

 「別に」

 「なあ。何故あの女にそこまで拘る? ここまで付き合ったんだ、いい加減教えてくれても良いだろう」

 「……俺は着いて来てくれだなんて頼んだ記憶はない。お前が勝手に付き纏ってるだけだ」

 「取り引きの基本は、等価交換。それがわからんお前じゃないな?」

 「チッ」

 俺の舌打ちに、目の前の同僚は満足したように瞳を細めた。丁度その細い睫毛と同じように、瞳孔が猫のように縦に長く変形している。

 「そうだ。そういう男なんだよ、お前は」

 「はぁ?」 

 「俺の知る限り、鳳(おおとり)成(な)壱(いち)という男は目的の為なら手段も選ばん狡猾な男で、その上実行する時は露骨に面倒臭そうな顔をする。女の為に百度も堪えるような、湿っぽい紳士じゃあない」

 「お前は俺を何だと思ってるんだ」

 「飯はデスクで十秒でチャージするし、俺に無駄話をしかけたりもしない効率の鬼。好きなものは実力社会、嫌いなものは無意味な時間。そうだろう?」

 「別に……否定はしないが。俺はロボットか何かか」

 「なぁ成壱。何がお前を変えた? お前は何に成ろうとしている」

 「はあ」

 大袈裟に溜息をついてみせるが、かといって琴挽にも引き退がる気は無いようだ。獲物を捉えた狩人を思わす鋭い視線が、好奇心という名の熱に浮かされて燃え盛っている。先程からまるで俺をとんでもなく頑固な人間のように言い張っているが、俺に言わせればコイツも同じことだった。

 「わかったよ」

 観念したと両手を上げて降参のジェスチャーを取り、まだ手の付けていないホットサンドを丸呑みにする。俺の答えを沈黙を湛えて待っている同僚と向かい合うと、食べながら頭の中で組み立てておいた順序通り、プレゼン資料を読み上げるようにゆっくりと語り始めた。

 食器同士がぶつかり合う音の波の中で、俺たちの間に流れる沈黙だけが静謐だ。

 「──知ってるだろうが、俺と彼女と出会ったのは、九十九日前の雪の挽。十二月の末だ。クリスマスイヴだというのに孤独だった俺の前に精霊のように現れたのが、初音琴乃……彼女だった」

 「いや、お前はクリスマスに関係無く年がら年中孤独だろう。友人も知人もまるで居ないじゃないか」

 「煩いな、そうじゃない。別に俺は一人で居ることもクリスマス自体も嫌いじゃなかったんだ。好きでもなかったが」

 「へえ?」

 「でも、今回は違った。選び取った自由と、問答無用の孤独ではまるで世界の見え方が変わるんだよ。その時は一緒にケーキを食べる仲間も、プレゼントをやれる相手も存在しなかった。移り行く四季の中で、一番虚しくなる瞬間だったのさ」

 「……ふむ」

 「いつも通りの大通りを通ると、下品なイルミネーションもサンタのコスプレをしたケーキ屋の店員も煩わしいだろうから、その日の帰路は一つ外れの裏通りを通った。──でも。真っ暗な路地裏にポツン、と一つ。小さな光を灯すように、リースを売ってる花屋がある。俺は絶望し、失敗したと思ったよ。どこまで逃げても、クリスマス・キャロルを両耳から流し入れられるのかって」

*

 ──今から九十九と、半日前。

 視界にチラつく氷の塊と競い合うように立ち昇っているのは、俺一人分の吐息だ。冬の日のそれは、憂鬱の形をして漏れ出た溜息すら酷く白い。

 「地獄」の二文字を頭に浮かべた俺はなるべく花屋から距離を取り、一方通行の逆端を早足で駆け抜けようとしていた。

 「もし」

 「……」

 「もし、そこの人」

 珍しい客人の来訪に態々店先へ出てきたのか、単なる偶然なのか。硝子戸の外に立つ誰かが、花屋には目も向けていない俺に何かを語りかけていた。

 が、こんな場所に留まれば何を言われるか知れたことじゃない。一層強く爪先をコンクリートに付けて踏み込んだところで、鈴の音のようなその声が──宵闇の中で高らかに、けれど慎重に。人々へ齎される、福音のように響いた。

 「──御見舞いですか」

 「ッ⁉」

 「ふふ、今晩は」

 「……あんた。何で分かった」

 思わず横を向くと、満足したような顔をした女が楚々として微笑んでいる。練絹のような艶やかな黒髪に暖色のⅬEDライトをいっぱいに浴び、生え揃った睫毛で風を起こしながら瞳を横長に細めていた。

 飛縁魔か、雪女とでも言おうか。

 過ぎた美の恐ろしさが、彼女の堀の深い鼻筋から妖艶な香りを湛えて香り立っている。

 「花屋の性でございます。御見舞いへ行かれる方は、皆同じ顔をしてらっしゃいますから」

 「……」

 「コチラを」

 店員らしき女が徐ろに取り出したそれは、手のひらよりは少し大きなスノードームのようだった。円形の分厚い硝子の内側で、玻璃の花にハラハラと雪が降り積もっている。色を持たない花弁を白く染め上げるように、降雪はゆっくりとその小さな身を幾重にも重ねて積み上がっていた。

 「お受け取りください」

 いつの間に移動したのか、女は俺のすぐ真横に立っている。耳朶を震わせるようにして、静かな玉音がヒッソリと響いた。

 「……」

 促されるまま受け取ると、案外重みのあるそれが一層近くで目に入る。月影に透かしてよく観察すると、どうやら舞っているのは雪ではなく桜の花弁のようだった。

 けれどその種は染井吉野や、八重桜ではない。それよりはずっと白く、隅々まで雪と同じようにどの色素も持たない、幻想のような花が水圧に押されて方々に舞っているのだ。

 「本来は、春にならねば出回らぬ品でございます」

 「そうか」 

 「貴方にも、必ず、春が訪れます」

 見る者を引き込まんとする硝子の夢想から、弾かれるようにして顔を上げる。

菩薩のような笑みを浮かべた女の周りで、雪か桜か見分けのつかない、純白の翅が煌めいていた。

 「──あんたに、何が分かる」

 「……。御免なさい」

 「あ、いや……忘れてくれ。これも、その。あんたに返すよ」

 「私には何も、分かりません。これは只、私の我儘にございます。……御免なさい。貴方に受け取っていただけたら、愚かな女が勝手に救われるだけなのです」

 一陣の風が背後から背中を押し、降り積もっていたそれが舞い昇る。一面白妙に染まった俺と彼女だけの世界で瞼を落としたその女の姿は、物語の天使より怪談の怪異より、底知れない神聖さがあった。

 ──救われる。

 そんな風に言われたのは、一体いつぶりだろう。幼かった妹の愛くるしい笑みがフラッシュバックして、締め付けられるように胸が痛む。そのせいか、俺は断ることができなかった。

 思い出したのだ。自分は幸せな世界に型通り収まることができずとも、誰かのサンタクロースには成り得るのだということを。

 彼女は自分が救われると言ったが、その一言に救済されたのは寧ろ俺の方だった。

 「あ、あの──……」

 一層風が強まって、彼女の姿も覆い隠す。次に夜空の藍が戻ったとき、そこにはもう誰の姿も無かった。

 CLOSEと書かれた看板が、無言の拒絶を突き付けている。

*

 「──と、言う訳でそれからお前はストーカーまがいの付き纏いを始めたと」

 「ストーカーじゃない。俺は決められた営業時間に花を買いに行ってるだけだ」

 「はいはいわかったよ。それが何故、百日間だなんて話になる」

 「……次の日も、その次の日も、俺はあの花屋へ通った。初めは好奇心から顔を出すだけだったが、すぐにこれは恋だと確信したよ。今までと変わらない毎日を、俺は彼女抜きで過ごせなくなっていたんだ」

 「ふぅん」

 「だけど何度食事に誘ったり、贈り物をしてみても、困った顔をしてあしらわれるだけだった」

 「お前に興味が無いんだろう、諦めた方が身の為だ」

 「知ってる。が、それで忘れられるんなら、俺はこうはなってない。俺の脳味噌の物を考える部分はとっくに彼女に焼き焦がされて、もうマトモに機能してないんだよ。少しでも可能性が無いか、毎日通って考えた」

 「へえ」

 「それで、彼女ももういい加減痺れを切らしたのか、ちょっと強めに怒られた日に……」

 「思い切り嫌がられてるじゃないか」

 「『百日通います。そうしたら、信じてくれますか』って言い募ったのさ。彼女からは、どうせすぐに飽きる気まぐれで、哀れな女を口説いてくれるなという言い分だったから」

 「ふん……彼女は何と?」

 「俺が何を言いたいのか、すぐに分かったようだった。『法実歌のみ、たへな芍薬。それでは試して下さいな。本当に百日通ってくださるなら、私も供えに詠みましょう』と」

 「中々教養のある花屋じゃないか。嫌味だが」

 「ああ。俺は益々感動したよ」

 「俺もさ。お前の古典ジョークに着いて来られる奴が居るとは」

 「ジョークじゃない」

 「というか、それやっぱり断られてないか? あれは失敗の物語だろう。いっそ契約書でも突き付けて婚約を賭けさせれば良かったんだお前は」

 「琴挽には理解出来ないかも知れないが、これは成約を取り付ける為の営業じゃない。俺は彼女を無理矢理手篭めにするんじゃなく、チャンスが欲しいだけなんだよ。彼女にはそれを決める権利がある」

 「ハァ。全く、どこまで行っても驚くほど訳のわからん話だったな」

 「そう言うと思った。だから話さなかったんだ」

 一通り話終えると、ゆるゆると琴挽は首を振った。倫理も情緒も解さないこの男の事だ、付き合いきれないとでも思っているのだろう。

 もう休憩時間の終わりも近い。人通りも少なくなった食堂で、滞在者を急かすように鳴らされる銀食器の音ばかりが響いていた。

 「ところでお前、見舞いって何だよ。それも聞いてないぞ」

 「あぁ、妹がちょっとな。その頃階段から落ちて頭を打ったんだ」

 「へえ。そりゃ不味い」

 「あの時期は生きた心地がしなかったな。全然目も覚まさないし、俺は独り暮らしを始めて離れて住んでたから。こんな簡単に、アッサリ身内が居なくなるなんて、思ってもみなかった」

 「……悪いこと聞いたな。その……何と言ったら良いか」

 「何か勘違いしてないか? 普通に今はピンピンしてるよ」

 「はあ? おい、人が悪いぞ」

 「はは、すまなかった。あの琴挽にも人らしい心があるとは」

 「俺はいつでも情深いだろう」

 「つまらない冗談はやめてくれ。それで、お前も対価を寄越せよ。何を知ってる」

 琴挽は品定めするように俺の頭から爪先までをグルッと見回すと、最後に色彩の薄い瞳を俺のそれに合わせて口を開いた。そしてそのまま、俺の首を跳ね飛ばす処刑の言葉を、道端の石ころでも指すようにサラリと告げる。

 ゾッとする程温度のない調べが、無慈悲な鐘の音のように響いた。

 「──ああ、あの女だが。もう二度と会えんと思うぞ」

*

 「ッはぁ、は、ァ……ッ! あの、初音さんは……!」

 「うわっ! って鳳様? まだお仕事じゃないんですか?」

 「えっと、その──今日は有給で。それより、初音さん……初音桐乃さんはいらっしゃいますか?」

 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、彼女の同僚が飛び込んできた俺を何とか避ける。しかしそれを気遣っても居られず、思わずカウンターから身を乗り出してそのままの勢いで店員に詰め寄っていた。

 「今日は出勤されませんか?」

 「え……と、その。……申し上げにくいのですが、彼女は昨日付けで退職されました。学校も、転校されて……県外へ引っ越されましたよ。てっきりもうお話されているのかと」

 「引っ越し……⁉」

 何から何まで寝耳に水だ。

 全身から血の気が引くのを感じながら立ち尽くしていると、後ろから聞き覚えのある低い声が力強く飛んで来て店の中まで無慈悲に届いた。

 「だから、言っただろう。もう会うこともない」

 「ッお前、こうなる事を知ってたのか……⁉ 何で黙って」

 「──知らなかったよ。俺も、昨日初めて知ったんだ。……これを渡されて」

 胸ぐらを掴まれて宙吊りになりながら、琴挽は徐ろにポケットに手を突っ込む。そのまま一通の手紙を取り出すと、押し付けるようにして俺に突き付けた。

 純白にレースのエンボス加工のあしらわれたそれは、均衡の取れた達筆で「鳳成壱様へ」と書かれている。

 彼女の字だ、と本能的に理解した。彼女が文字を書くところを見たことがある訳ではないが、この繊細で整ったインクの濃淡に、書き損じも歪みも無い芸術品のような手紙。無機物のはずのそれが、彼女の手から紡がれた物で間違いないと主張している。

 しかし、他の全てが細部まで完璧な手紙が、ある一部だけ損なわれていた。溶かした蝋で封がされていたはずの背面の中央に、無理に開封したような跡があるのだ。

 「……勝手に読んだのか」

 「読んだ。俺は利口な伝書鳩じゃあないからな」

 「ッこの」

 「読んだ上で、お前に今、伝えるべきだと思った」

 強い語気と目線で促され、手元のそれに目を向ける。

 一つも住所の無いそれは、人の手を経由しなければ届くはずのないものだ。

 開かれた封を再度持ち上げ、折り畳まれた便箋に目を落とす。そこに連なる文字はただの記号に過ぎないのに、何故か一つ一つの言葉が泣いているようだった。

*

 ──拝啓 貴方と初めてお会いしてから、早いもので季節が一つ過ぎ去り、もう春も近付いて参りますね。いかがお過ごしでしょうか。

 不手際が無ければ、貴方にはこの手紙が四月四日に届けられている筈です。そしてその頃には、私はもう貴方の前から姿を消しているでしょう。

 貴方に、謝らなければならないことがございます。

 昨年の冬。十二月の末頃、貴方の妹君は酷い怪我をして入院されましたね。階段から不慮の事故で落下して、と聞き及んでいらっしゃるかと思います。

 けれどそれは、正しい情報ではございません。

 貴方の妹君は足を踏み外したのでは無く、突き落とされたのです。他でもない、私によって。

 本当に申し訳ございませんでした。私は、決して許されない罪を犯しました。

 申し開きをするつもりは毛頭ございませんが、誤解なきよう、ここに事の顛末を詳らかにいたします。

 ……私は、とあるひとを好いておりました。彼女は私の同級生で、隣のクラスの女子生徒でございます。そして貴方の妹君は、その彼女の……言うなれば、敵でございました。貴方にご理解いただけるか判りませんが、私たちの間には派閥のようなものがあって、いつもそれに則って、小さな箱庭のようなあの学園の中で、争い続けているのです。

 彼女と妹君は二分された大きな流れの主格、将のようなもので、その派閥争いの最重要人物でございました。

 ある時、彼女が滅入って涙を流しているのを目撃して、私は自分の衝動を堪えることが出来なくなってしまいました。気が付いたときには血を流した妹君が階段の一番下で転がっていて、私はそのまま泥沼を藻掻くように、醜く逃げ去ったのでございます。私には彼女が居ればそれで充分で、彼女の為ならどんな事も出来ました。そしてそれが真実だからこそ、貴方の大切な御方をこうも容易く、傷付けてしまったのです。

 私は、醜い、酷い女です。

 こうして長々と手紙をしたためているのも、全ては私自身の為なのです。 

……あの晩、貴方に声をかけたのは、贖罪のつもりでございました。私は、私はもっと非道いことをすらする気持ちで、妹君の身内である貴方方まで調べ上げていたのです。けれどもその小さな背を押したとき、非道い過ちに気が付きました。

 あの晩、窶れた貴方の精気のない瞳を目にし、自分は何てことを仕出かしてしまったのだろうと、いっそう胸が詰まる思いでおりました。

 貴方が私などを好いてくださっていたことは、私にも感ぜられ、そして初めはそれを受け入れてしまおうかとも考えました。貴方の思うまま、操られる身になることが、少しでも罪滅ぼしになればと、そう思ったのです。

 けれど、ある夜。貴方が中々いらっしゃらず、閉店間際に駆け込んでいらしたその日に、私は自分が、ある恐ろしい感情を抱いていることに気が付きました。

──私は、貴方にお会いしたいと考えるようになってしまったのです。

 許される筈が無いのに、貴方にお会い出来ない日は日常が総じて物足りなく、毎日笑顔で私から花を買う貴方に、幸福すらいただくようになってしまいました。

 

 御嗤いください。このような下賎な女が、貴方のような方を不相応にも想ってしまったことを。これは恋や愛などの美しい名の付く甘美な感情ではございませんが、間違いなく、それを縁に生きて行かれる種類のものでした。けれども私は、貴方に幸福にしていただく訳には行かぬのです。そんな事になれば、過ぎた罪悪がこの身に降り掛かり、貴方にまで御迷惑をおかけしてしまう。

  申し訳ございませんでした。心の底から御詫び申し上げます。謝って済む問題ではないことは、重々承知しております。それでも、謝らせて下さい。貴方の目の届かない場所まで行きますので、妹君へも二度と危害は加えないとここに約束いたします。ですから私の事など御忘れになって、どうかその身を滅ぼすようなことは為さらず、塵芥になって死んだものと御思いください。

 きっと雪の悪夢は終わり、春の温和な日々が直ぐに貴方に訪れるでしょう。

 幸せをいただいて、御免なさい。左様なら。

 敬具

*

 いつからか指先に力が入り、便箋の端が皺になっている。震える手の中で全ての文字を読み終えた時、爛々とした琴挽の瞳が俺を覗き込んでいた。

 「なぁ、どう思う。お前は今、どんな感情だ」

 「……」

 「裏切りか? 軽蔑か? それとも吐き気を催す程の嫌悪感を抱いているのか。教えてくれ、俺に」

 「……喧しい。怒りに、決まっているだろ」

 「ほう?」

 「酷い女だ。こんなもので許せる、はずがない」

 「──泣いているのか」

 そう言われてみれば、やけに喉がヒリつくし、真白い手紙も所々インクが滲んで黒くなっている。

 どうやら俺は琴挽の言うように、涙を流しているらしかった。

 「何が哀しい」

 「哀しいもんか。お前は知らないかもしれないが、人は怒りでも涙くらい出る」

 「怒っているようには見えないが」

 「……一言、ガツンと言ってやらないと気が済まない。俺は。……ッ俺は、あんたの、創られた外側ばかり好きになったんじゃない。知ったような言葉を並べて、思い込みで、勝手に居なくなったりして……!」

 「ふむ」

 「善人だと思ったから、好きになったんじゃない。どうしようもない女だとしても、俺に振り向くことが無いとしても。あんただから、好きなんだよ……。他に誰が、あんな顔した俺に拒絶されても物を差し出す? 慈しむような表情で花を手入れすることだって、だからいつも指先が赤いことだって、俺は、ちゃんと知ってんだよ……!」

 届くはずのない呟きが、口から勝手に漏れ出ていく。風穴の空いた胸を埋めようとして、無為な呼吸が余計に放出されるようだった。

 「酷い女だとしても、俺の最愛には違いがないじゃないか。俺の答えも聞かずに、許しも得ずに、自分の幸せを触りもせずに溶かして。馬鹿じゃないのか……っ」

 「あぁ。そうだな」

 「俺はまだ、彼女を幸せに出来てない。彼女に、笑っていて欲しかっただけなのに」

 ──しつこい男は嫌われる。

 いつかの琴挽の言葉が木霊して、鈍器で殴られたように頭が痛んだ。心臓を鷲掴みにして鼓動を止めてしまおうと、精神が雄叫びを上げている。

 彼女という儚い雪は、いとも容易く解けてしまうと知っていたのに。春の花に変えることが出来ず、そのまま焼き焦がしてしまったのは、他でもない俺自身だった。

 桜も雪もないコンクリートの上で、どうしようもない影が二つばかり伸びている。

*

 「まあ兄弟、そう落ち込むな。生きているんだ、どこかで生き写しの別人にでも会えるだろう」

 「何で生きてるのに別人確定なんだよ」

 「あの女は辞めとけ。俺はそう言っただろう?」

 「……ああ言った。が、一度だけだ。すぐに引き下がったじゃないか」

 「俺は弁えた男だからな」

 「今日はお前が史上最高にうざったく感じられる。琴挽憎悪記念日にしよう」

 「結構な八つ当たりだな」

 俺はそのまま琴挽に引きずられるようにして、入った事もない安酒ばかりの居酒屋に押し込められていた。琴挽の趣味からも俺の好みからも外れているが、最早酒さえ呑めればどこでも良かったのだろう。

 早退した分、まるで終わっていない仕事が明日から恐ろしい勢いで押し寄せるに決まっている。生を取り巻くあらゆる要素が憎くて、いっそ全てを忘れてしまおうと、情けなくアルコールというわかりやすい快楽に飛び付いたのだ。

 ──俺の永遠の失恋は、誰の目にも明らかだった。

 「なぁ、俺の家で一等綺麗に保管されてる九十九本のドライフラワーはどうしたら良い? 花束にする予定がスッカリおじゃんだ」

 「煮て食え。苦い経験になるだろう」

 「……雪じゃないから、食えないよ」

 「あぁもう女々しくてとても聞いてられん。忘れろと言ってるだろうが!」

 「お前は……何も分かってない……けふを限りの……」

 「寝るな、馬鹿!」

 薄れ行く意識の中で、山吹色の炭酸水を飲み干した琴挽が何か小声で呟いていた。百日近く付き合わされたというのに、今日全てが無に帰したのだ。恨み言の一つでも言っているのだろう。

 初めから聞くつもりもなかったので、机に突っ伏したまま心地良い微睡みに身を委ねていく。固く無機質な木製の机が、俺の頬を無愛想に受け止めていた。

 「全く、本当に女は得だな。一人の人間から、こうも強い感情を寄せられる。

 桜のように散っても、雪のように解けても。永遠に、その心に棲みついて離れないじゃないか」

 「……」

 「成壱? 寝たのか。良いご身分だよ本当に。

 ──美しく、儚い女は狡い。そして、男も」

 寂しげな男の呟きが、春を迎える降雪のように跡も残さず喪失していく。溶かされた言葉を透かすように、一人分の涙が零れ落ちた。


 

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香らずの花 @3si_y

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