第8話 八百万の神

雨が降っていた。

激しい雨ではないが、長く続く冷たい雨だった。

土には雨が染み込み、地面は泥田のようにぬかるんでいる。


集落の人々は、誰に言われるでもなく外へ出た。

「ひどい雨……木の実、くさる……不作」

長老カツラは天をあおぎ、低くつぶやいた。


子どもたちは裸足で地面を踏みしめ、年寄りたちは空を見上げる。

その先頭で、巫女のヒクイが懸命けんめいに祈っていた。

「……神よ。雨が止み、暖かいひざしを、お与えください」

それは祈りであり、儀式であり、同時に“生きている者の自然な言葉”でもあった。


那津は竪穴住居たてあなじゅうきょの入口に立ち、その光景を見つめていた。

雨粒あめつぶが葉を打ち、しずくが土へ落ちる。その一つ一つに、誰もが目を向けている。

――雨が降ることに、感謝する。――晴れた日にも、感謝する。

理由を求めない感謝。説明のいらない敬意けいい

胸の奥が、静かに揺れた。


縄文時代後期。例年よりも気温が下がり、木の実は不作だった。

春になっても寒さが残り、夏は雨が降らず、秋になっても木の実は成らず。

集落では、かめに蓄えていたドングリやクルミが、目に見えて減っていった。


子どもたちのほほせ、年寄りの足取りは重くなる。

長老カツラは、夜ごと火の前でだまり込んでいた。

那津は、焚き火のそばでその姿を見つめていた。


那津は胸元から、小さな布袋を取り出した。

それは、父の実家の農家で初めて手伝った年に、祖母からもらったものだった。

「来年も、ちゃんと実るように」

そう言って渡された、稲の種籾たねもみ

那津はずっと、それをお守りとして持っていた。

現代へ帰るつもりで。そして帰れなくなっても、捨てられずにいた。


そのとき、瀬織せおりの声が静かに響いた。

「それは……流れを変えるたね

「うん。大切に育てないと」

那津はそう答えた。


那津は長老カツラのもとへ行き、土を指差した。

「これは、美味しい実がなる種です。一緒に育ててみませんか?」

水田すいでんを作るのは困難。だから、水を張らなくても育つ稲――陸稲おかぼ

那津は、陸稲おかぼを縄文人たちと育てることを考えた。

狩猟しゅりょう採集さいしゅうで生きてきた縄文人に、農耕のうこうを教えることは可能なのか。

言葉は基本的なものしか通じず、すべてが未知だった。

だから那津は、言葉ではなく“行動”で示した。

• 石器で浅く土を掘る

種籾たねもみは間隔を空けて置く

• 土をかぶせ、踏み固めない

• 雨を待つ

「水を、囲わない」

その仕草を、カツラはじっと見ていた。

「……神は、水だけではない」

長老カツラは、ゆっくりと頷いた。


那津は、稲だけに頼らなかった。

縄文人が知っていた植物を―― 育て、収穫する」方法を考えたのだ。


那津が伝えた栽培

アカザ 若葉は食用。人が踏まぬ場所に種を落とすと増える。

ヒユ 粒も葉も食べられる。焼き畑跡に強い。

エゴマ(ジュウネン) 油が取れる。焚き火のそばに種を落とす。

ツルマメ(野生大豆) 他の植物に絡ませて育てる。

クズの若芽・根 根は澱粉でんぷんが取れる。掘り尽くさず残す。

那津は、言葉ではなく“場所と動作”で教えた。

「採る場所」と「育てる場所」を分ける。「全部取らない」。「次の年を残す」。

それは、縄文人の思想と驚くほど相性がよかった。


長老カツラは那津に問うた。

空を指し、那津を指す。

――これは、神の力か?

那津は首を振った。


土を指し、雨を指し、人を指す。

――みんなで、生きる。

その仕草に、長老カツラは深く息を吐いた。

「……ナツは、道を知る者」

それが、彼女に与えられた名だった。


季節が巡る。

細いが、確かな稲穂いなほが揺れた。 アカザの葉は大きく広がり、 ヒユの穂が赤く色づいた。

誰も叫ばなかった。 誰も踊らなかった。

ただ、静かに土に触れた。

「……ありがとう」

那津は、稲穂いなほに触れながらつぶやいた。


やがて、集落には語りが残る。


えの年、異人の少女が、土に、未来を埋めた」


那津は、それを否定しなかった。

ただ、次の種をそっと手渡した。

それで十分だった。

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