その男 〜その後〜
書けなくなって半年が経った。
正確に言うと、今まで目を逸らして見ないように溜めていた何かを、突然、真正面からみつめて、理解してしまって、壊れてしまってから半年が経った、と言った方がいいだろうか。
その日、私は近所の本屋に来ていた。外出するのは久しぶりだった。家族は私の変化に喜び、あたたかく送り出してくれた。
「外の空気吸ってさ、カフェとか行って、ゆっくりしてきなよ。」
外に出ようかな、とポツリと私が言った後、夫は、こんな風に優しい言葉をかけてくれた。
家族には、とても迷惑をかけた。心配もかなりかけた。家事も出来ない。何も考えられない。ただただ気持ち悪くて、不安で、孤独で、闇に飲み込まれそうで、指先から震え、柔らかい布団を抱きしめて、泥のように眠る毎日だった。
時々、上の子に頼んで一緒に布団に入ってもらって抱きしめさせてもらった。小学5年生という事もあり、抱きしめる行為はここ何年もしていなかったが、ここに来て、それをしてもらって、幾分、心が安らいだ。温かい体温を感じる。彼女は、なんだかんだ、私の事を心配はしてくれているけれど、おそらく、ママちょっと疲れてるのかな?くらいに思っていて、そんな中、私から何年ぶりかのハグを求められたものだから、何だか少し照れながらも、口元は嬉しそうだった。
それにしても…自分自身の見たくない部分と向き合うのは、とてもしんどい行為だった。
私は気づいていなかったのだ。様々なものが見えすぎる事、感じすぎる事。いつからか色々なものから目を逸らして、自分を保ってきた事、など。そして、おそらく、今回身につけた「書き出す」という行為は、上手くいけば私の中のヘドロを上手く取り出せはするが、下手をすると、今回の様に真正面から攻撃を食らってしまう。
私は、自分の事を知らなすぎていたのだ。
だが、この歳でようやく、「自分」を、つかんだ気がした。
文字の香りのする所に行くのは勇気がいった。また気持ち悪くならないだろうか。不安がよぎる。だが、それは杞憂だった。何も起こらない。ただただ感じる懐かしい匂い。私は、回復してきていた…。
プラプラと意味もなく絵本のコーナーに立ち寄る。
と、ふいに一冊の絵本が目に入ってきた。タイトルは、
『たぬきの親子、虹へ行く!!』
カラフルな装飾のされた、笑顔のたぬきの親子と虹を指差すこれまた笑顔の子だぬき達の絵が表紙に描かれている。
作者の名前は…あの男だった。
レジに向かい、家路に着いた。
「おかえり〜」
家族の温かい声が聞こえる。
パタパタと玄関に走ってきた下の子が私が手に持っているものをみて尋ねた。
「ママ〜!!お帰り!!ん?なに持ってるの?絵本?私の〜?」
怒涛の質問攻めに、ふふっと笑みがこぼれる。早く読みたいと急かす次女と一緒にソファーに座り、透明セロファンを破る。そして、一緒に声に出して読み始めた。
ケラケラと笑いながら絵本を楽しむ次女を横目に、絵本を読み進める。声に出す。笑う。私は心の中の重いものの一部が浄化されていくのを感じた。
私は大丈夫だ。そう思った。
「この絵本面白いね〜!続きってあるのかな〜?」
次女はこのたぬきの親子が気に入ったようだ。
私は、再び絵本の表紙に目を落とす。驚いた事に、あの男は作画も自分で行っていた。そうか。あの人はこんな絵を描くのか…。
それにしても、「たぬきと虹」って…。
「ククククク…」
センスなさすぎでしょ…。私だったら…、絶対に見えない光景…。
「クク…ククククク」
「なぁに〜?ママもそんなに面白かったの〜?ねぇ、これさぁ、シリーズものかなぁ?今度本屋さんに探しに行こうよ!!ねぇねぇ!!パパとお姉ちゃんも見てよ!!この絵本めっちゃ面白いんだから〜!!」
パタパタと絵本を持って、次女は走っていった。
私は、ソファーにうずくまりながら両手で顔を覆った。手の中に水分が溜まる…。肩が震える。
私も…私も…こんな温かい話を書きたい。
そう、思った。
その男 すずめ屋文庫 @Suzumeya_Bunko
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