第三章:裁きの連鎖と崩壊の予兆(1)
血を吸わせた人形をポケットに収め、沙羅が教室を去った放課後。
それまでの数日間、霧峰高校を支配していたのは、落雷の前触れのような不気味な静寂だった。沙羅は教室の隅で透明な存在として座り続けていたが、その周囲に漂う気配は、もはや弱者の沈黙ではなかった。それは、獲物が罠にかかるのを静かに待つ、地蜘蛛のような冷徹な忍耐だった。
その日の夜になっても、学校を支配していたあの不気味な静寂は、湿った重みとなって美咲の肌に纏わりついていた。外は夏の雨が降り、竹林から重く陰鬱な土の匂いが漂ってくる。美咲の部屋は、その湿った空気と竹の匂いに、静かに侵食されていた。
日付が変わる頃、グループチャットに、リナの興奮したメッセージが矢継ぎ早に投下された。
リナ「ユウカ、聞いて! マジでヤバい! あの水嶋沙羅、ネットで呪いのアカウント作ってる! 本気で私たちを呪う気だ!」
ユウカ「は? 誰でも作れる匿名アカウントでしょ。なんで沙羅だって断定できるわけ?」
リナ「見てないの!? ほら、リンク送るから! それにさ、昨日の夜、私たちが沙羅の私物を汚してロッカーに入れたやつを校舎裏の古タイヤの中に隠した方がいいかこのチャットで相談したでしょ? そのたった五分後よ! あの『呪いアカ』が、すぐに『明日午後三時、その『悪意の欠片』は、お前たちが埋めたはずの『タイヤの墓場』から掘り起こされ、本来の持ち主の足元に帰るだろう』って投稿してるのよ! この秘密を知ってるのは、私たち三人だけのはずでしょ!」
ユウカ「そんな偶然、いくらでもあるでしょ。たかが匿名アカウントにいちいち怯えるなんて、あんた馬鹿じゃないの?」
リナは自分の決定的証拠に対して、ユウカがなおも匿名だと冷静ぶった態度で現実を拒絶したことに激しい苛立ちを覚えた。チャットでは埒が明かないと悟ったリナは、すぐに美咲に直接電話をかけてきた。受話器から漏れる興奮と苛立ちの混じった声が、美咲の静かな部屋に響き渡る。
「美咲! ユウカのあの冷静ぶった態度、イラつくわ! 断定できるに決まってるでしょ。だってタイヤの奥底なんて、誰も知らない私たちだけの秘密じゃない! これは偶然なんかじゃない、沙羅本人か、沙羅の代わりに動いてる誰かしか知り得ない情報よ! それに、投稿に使われてるこのネチネチした、陰湿な文体を見て! こんな陰鬱な文章を書くのは、沙羅以外にありえないわ!」
リナが送ってきたリンクを開くと、SNSのプロフィール画面が表示された。
アカウント名:呪詛@境目の少女。プロフィール画像は、濃密な闇の中に佇む、女性の横顔のような、しかし輪郭が曖昧で、目鼻立ちが塗りつぶされた異様な影絵。それは、美咲が窓から見ていた、竹林の闇そのものが、顔を持ったように見えた。そして、最初の投稿。
《一》 腐りゆく魂を、土壌へと還す。廻りて廻り、影を貪るものよ、その渇きを癒せ。 場所は、境界線のすぐ内側。対価は、存在証明の喪失。
美咲は、この境界線のすぐ内側という言葉が、郷土史で学んだ蛇の祠の場所を正確に指していることに気づき、全身に悪寒が走った。沙羅の投稿が単なる脅しではなく、この街の怪異を起動させるための呪文だと直感した。
美咲はこの呪詛アカウントの存在を、誰にも言えない秘密として心の中に封印した。美咲にとってこれは恐怖であると同時に、ユウカたちの行動にいつか天罰が下るかもしれないという、抑えきれない期待でもあった。美咲の心は善悪の境界線を曖昧にしたまま、この呪詛の進行を、密かに見守り始めた。彼女の傍観者としての哲学は、今、呪詛という名の裁きを待望し始めていた。
呪詛アカウントの誕生後も、ユウカはたかが匿名アカウントだと一蹴したが、その挑戦的な投稿に苛立ちを覚え、その責任が沙羅にあると見なして、さらに沙羅へのいじめを露骨なものにした。しかし七月の初め頃から、ユウカには誰も気づかない、しかし美咲だけが察知できる奇妙な予兆が現れ始めていた。彼女の自慢だった、毎日完璧に仕上げる右手のネイルアートが、なぜか翌朝には無残に剥がれ落ちるようになる。
「信じられない……、また剥げてる。指名料払ってるのに、あの店員やる気あるわけ?」
ユウカは苛立ちを露わにし、剥がれた爪を隠すように右手を握りしめた。しかし、剥がれているのはネイルだけではなかった。沙羅を指差したり、教科書を破ったりするのに使った右手の甲に、原因不明のどす黒い痣が浮かび上がり始めた。それは地中から這い出してきた竹の根が、彼女の血管を内側から締め上げているような形状をしていた。
ユウカを真に追い詰めていたのは、爛れてゆく指先だけではない。耳の奥で鳴り止まない異音が、彼女の正気を削り取っていた。
「ねぇ、美咲……。最近、変な音が聞こえない?」
放課後の部室で、ユウカが青白い顔で縋るように美咲の腕を強く掴んだ。
「夜、寝ようとすると聞こえてくるの。窓の外で、竹の葉が擦れ合う、あのシャリシャリっていう音が。それが、いつの間にか部屋の中にまで入ってきて、今はもう、ドアのすぐ外で鳴ってるの。気づいた時には、耳元で囁く沙羅の声に変わっていたの。『次は、あんたの腕だよ』って」
ユウカの声は震え、その震えは掴まれた美咲の腕を通じて心臓まで伝わってきた。美咲は、このユウカの不安こそが、呪詛の力を増幅させる燃料になっていることを理解し、ただ話を聞いた。
この目に見えない呪いの歯車が、狂いようのない精度で回り始めたのは、さらに数日が経過した七月の半ばのことだった。その日、湿気でページが波打つ教室で、ユウカは沙羅の机から唯一の私物である倫理の教科書を奪い取った。沙羅が抵抗もせず、ただ縋るような視線を向けたことが、かえってユウカの苛立ちに火をつけた。
「そんなにこれが大事なの?」
冷笑と共に、ユウカの両手に力がこもる。厚みのある表紙が悲鳴を上げてたわみ、次の瞬間、背表紙が弾ける生々しい音が響いた。
ユウカは取り憑かれたように、綴じ目から溢れ出したページを一枚、また一枚と、指先に力を込めて引き裂いていく。紙の繊維が断ち切られる鋭い音が、静まり返った教室に何度も突き刺さった。沙羅が唯一慈しんでいた哲学の言葉たちは、無惨な紙屑となって床にぶちまけられ、ユウカの足元で白く虚しく散らばった。すべてを破壊し終えたユウカの顔には、達成感などなく、ただ逃れようのない不吉な予感だけが色濃く張り付いていた。
そのわずか二日後の金曜日。ユウカは、右腕に自分の腕ではないかのような異物感を感じながら、自転車で帰路を急いでいた。
住宅街の坂道、昨夜の雨で流された汚泥にタイヤが触れた瞬間、地中から無数の黒い手が伸び、ユウカの右腕を強引に地面へと叩きつけた。
「――っ!!」
メキッ、という、生木が折れるような湿った音が響いた。ユウカの右腕はありえない方向に曲がり、砕けた骨が皮膚を突き破ろうとしていた。転倒したユウカが顔を上げたとき、霧の向こう側に、慈しむような、そして氷のように冷たい微笑みを浮かべた沙羅が立っていた。ユウカの絶叫が、夕闇に虚しく響き渡る。
美咲は自宅でその一報を受けたとき、口元に抑えきれない笑みが浮かんでいた。親友が無残に壊れたことへの同情など微塵もなかった。あるのは、自分が選んだ沈黙という投資が、ついに配当を産み始めたという歪んだ充足感だけだった。
美咲は震える手で、もはやブックマークするまでもなく暗記してしまった呪詛アカのリンクを開いた。そこには、ユウカの事故をなぞるような宣告が、既に完結した事実として刻まれていた。
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