歌えた。でも、軽くはなかった。

@MostGdanski2

人前に立てる人ほど、内側で息を詰めていることがある。

[1.誘われるまで]

その日は一学期の終業式だった。


職員室の空気が、いつもより軽い。

通知表の束が片付き、黒板消しの音も聞こえなくなった頃、田中が声をかけてきた。


「山田先生、今日、みんなで軽くご飯行くんですけど」


軽く、という言葉に、花子の肩の奥がわずかに固くなる。

断る理由は、いくらでも思いつく。

非常勤だから、明日も授業があるから、疲れているから。



けれど同時に、断る理由を探している自分に、少し疲れてもいた。

「……はい。行きます」

口に出してから、胸の内側で小さな波が立つ。

もう戻れない、という感覚。


[2.夕食会]

居酒屋は、騒がしすぎず静かすぎず。

教師向けにちょうどいい音量だった。


花子は、自然に端の席に座っていた。

誰かに勧められたわけでもない。

ただ、気づいたらそこにいた。

話題は部活、進路、保護者対応。

花子は頷き、時々短く答える。


「山田先生の美術、評判いいですよね」

伊藤に言われ、胸の奥が一瞬だけ温かくなる。

それと同時に、

(何か言わなきゃ。)

そう思った瞬間、言葉の候補が一斉に消える。

代わりに出てきたのは、

「ありがとうございます」

それだけだった。


誰も気にしない。

誰も詰めない。

それが、逆に少しだけ苦しい。


[3.カラオケ行き]

「じゃあ、カラオケ行きます?」

食事が終わり、鈴木が言った。

「このまま解散もアレですし」

アレ、という曖昧な言葉が、花子には十分すぎるほど具体的に刺さる。

逃げ道は、まだある。

終電、体調、明日の準備。


でも、ここで断ったら、次はもっと行きづらくなる。

そう分かっている自分がいる。

「……行きます」

声は出た。

ちゃんと、普通の大きさで。


[4.カラオケボックス]

部屋に入った瞬間、花子の世界は少しだけ変わる。

ソファ、リモコン、画面。

どれも見慣れたはずなのに、距離感が違う。


誰かが歌い始める。

盛り上がる。

拍手。

花子は、笑顔を作ることに集中していた。

歌を聴いているのではない。

自分の番が来る未来を、見ないようにしている。

「山田先生、何か歌います?」

佐藤の声。

一瞬、耳鳴りがする。

視界が、わずかに狭くなる。


(大丈夫。)

(一曲。)

(終わればいい。)

選曲画面を操作する指は、驚くほど正確だった。


[5.歌っている間]

イントロが流れた瞬間、花子の意識は、ほとんど歌に集まった。

音程、息の位置、次の言葉。

頭の中は整理され、余計な思考は沈んでいく。

けれど、完全に一色になることはなかった。


視界の端で、誰かが頷いたのを捉える。

拍手の準備をする気配。

それを確認してから、ほんのわずかだけ、口角を上げる。

(大丈夫。)

(今のところ、悪くない。)

歌いながら、「耐えている自分」ではなく「ちゃんとやれている自分」を、一瞬だけ見せる。


声の最後を伸ばすところで、意図的に息を残す。

余裕があるように。

その小さな演出が、自分の中の緊張を、ほんの一段だけ下げた。


[6.歌い終わった後]

拍手。

「うまいじゃないですか」

高橋の声に、花子はすぐに視線を上げた。

少し照れたように、でも逃げない。

「ありがとうございます」

声は、先ほどより落ち着いていた。


胸の奥が、ゆっくりと満ちる。

達成感は、確かにある。

ただ、以前のような「すべてを出し切ったあとの脱力」ではない。


疲れてはいる。

でも、立っていられる。

(今日は、持ちこたえた。)

満足感が、疲労の上に重なるのではなく、疲労と並んで、別の層として存在していた。


[7.帰り道]

駅までの道、花子は、今度は少し前を歩いた。

誰かと並ぶほど近くはない。

でも、遅れてもいない。

夜風が、思ったより心地いい。


今日の自分を振り返る。

緊張は、確かにあった。

でも、崩れなかった。


(またすぐは、無理だけど。)

(でも、次も「絶対に嫌」ではない。)

そう思えたことが、花子には少し意外だった。


ホームに立ちながら、胸の内側で、静かにうなずく。

「……悪くなかったな」

誰に聞かせるでもなく。

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