オリゾンテ ――まだ名前のない10番――
朝凪 渉(あさなぎ わたる)
第1話 水平線の外側
水平線の外側には、まだピッチはない。
それでも清水の海は、夕方になると境界を失う。
空と水の色が溶け合い、どこまでが現実で、どこからが想像なのか分からなくなる。
綾城修斗は、その水平線を背にしてボールを蹴っていた。
場所は、港に近い清水エスティーロの練習場脇。
トップチームのピッチとはフェンス一枚隔てただけだが、そこは正式なグラウンドではない。
白線は薄れ、芝はところどころ擦り切れている。
誰のポジションでもない、曖昧な場所だった。
修斗はプロでも、学生でもなかった。
ただ、ボールを止められる足と、蹴れる場所がここにあった。
右足で止める。
インサイドで軽く触り、半歩だけ前に運ぶ。
力は入れない。
芝の反発と、ボールの重さを確かめる。
隣のピッチから声が飛ぶ。
「ライン上げろ! 詰めろ!」
清水エスティーロ。
Nリーグで残留争いを続けるトップチームのトレーニングだ。
修斗は視線を向けなかった。
だが、音だけで状況は分かる。
ワンタッチのリズム。
短いコール。
迷いのないパススピード。
ディフェンスラインが揃って前に出る。
ボランチが一歩、内側を締める。
その瞬間、
最終ラインと中盤の間に、ほんの一拍だけ空白が生まれた。
――今。
修斗はトラップをしなかった。
足の内側で、ボールに角度を与える。
狙ったのは、センターサークルの外縁。
本来ならトップ下が顔を出す場所。
だが今は、誰も立っていない。
乾いた音がして、ボールが転がる。
速度は落ちず、芝を滑る。
そこに走り込めば、
前を向いてプレーできる。
だが、誰も来ない。
ここは試合ではないからだ。
それでも修斗は思った。
――サッカーは、あった。
「今の……誰に出した?」
背後から声がした。
振り返ると、清水エスティーロのトレーニングウェアを着た男が立っていた。
年齢は分からない。
だが、立ち姿に無駄がない。
長い時間、ピッチの中で判断を重ねてきた人間の静けさがあった。
「誰にも、です」
修斗はそう答えた。
男はボールの止まった位置を見つめ、しばらく黙っていた。
まるで、そこに立つはずだった“誰か”を想像するように。
「もう一回、同じところに蹴ってみろ」
修斗は頷いた。
同じ場所を探そうとはしなかった。
ただ、また“間”が見えた。
修斗の足を離れたボールは、先ほどとほとんど変わらない位置で止まった。
男の口元が、わずかに緩む。
「名前は?」
「綾城……修斗です」
「そうか」
男はフェンス越しにトップチームの練習を一度だけ見た。
藤堂奏馬――
10番が、ボールを引き出し、リズムを作っている。
「……ああいうのを、見てるだろ」
修斗は答えなかった。
否定もしなかった。
男は芝に視線を戻し、静かに言った。
「今のパスは、
10番を知っている人間の蹴り方だった」
修斗は、再び水平線を見た。
まだ遠い。
手を伸ばしても届かない。
それでも確かに、そこにある。
――オリゾンテ。
その言葉を、修斗はまだ知らない。
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