ドーナツ・ホール
水瀬スイ
1
人間の記憶とは「忘れる」ことを前提に機能している。
「どうでもいい」と脳に判断された僕たちの記憶は、知らないうちに風化している。
つまり、自分にとってどうでもいい記憶とは、時間と共に消えてなくなっていくものなのだ。
まるで、最初から存在していなかったかのように。
と、美希と話している時に僕は考えていた。
なんでこんなことを思ったのかと言うと「そういう時ってさ、サツキと何話してるの?」と、美希からの質問があったとき、僕は何も答えることができなかったからだ。答えたくても頭に何も思い浮かばなかった、が正しいだろう。
文字通り、何も思い浮かばなかったのである。
サツキとは僕の元カノの名前だ。4年くらい前、学生時代に2年ほど付き合っていた。なぜ別れることになったのかというと、自然とお互いの心が離れていったという、若い頃によく別れの理由として存在するものだ。
サツキとのことは特に美希には隠していないので、時折その名前を挙げてイジられることがある。
僕は昔から別れた相手のことは、トカゲが尻尾を切り離すように自分の中から断ち切るタイプの人間だ。だから今となってはサツキと過ごした2年間も「思い出ではある」とは思っているが、今のサツキに対しては特に興味も関心もない。
そんな僕の性格を熟知している美希は、サツキのことを質問された僕の反応を見るのがどうも楽しいらしい。こういった時はたいてい「サツキといた時のことも知りたいんだもーん」と言いながらニヤニヤしている。
昨晩、頭からつま先まで全身をソファーに預けきった美希が、スマホの画面をスクロールしながら「そういう時ってさ、サツキと何話してるの?」と質問してきたのもその一環だ。
「ちょっとこれ見て!五日市にあるカフェなんじゃけどさ、このバスチー絶対美味しいよね〜」
ソファーの前に座っている僕の方へ、美希は寝転がったままInstagramが表示されたスマホの画面を向ける。
「ん〜?確かに美味そう。でも俺はガトーショコラが食いたい」
「ほんと、ガトーショコラ大好きだよね。」
「当たり前よ。ガトーショコラほど美味いスイーツはない。世界で初めて作った人にマジの本気でノーベル賞あげたいもんね。ちょっと気になるわ、調べてみよ…氏家健治?まさかの日本人。でもなんか他にも色々出てくるな。まあよく分からんから氏家さんってことにしとこう。氏家さんマジ天才!」
「ひとりでうるさ。そういえばさ、来週から始まるらしいよ。ドリミネーション」
ドリミネーションとは広島市の平和大通りで毎年冬に開催されているイルミネーションの通称である。
「今年もそんな季節かぁ」
「まあこの歳になってくると、イルミ見に行きたいとも思わんくなってくるよね」
「間違いない」
「サツキとも行ったんでしょ?イルミ」
「急やな、まあ流石に行ったことあるよ」
「備北のイルミも行ったことあるんだっけ?」
「うん、あるよ」
「そういうデートの時ってさ、サツキと何話してるの?」
「…、マジで何も覚えてないわ。どうでも良いことって勝手に記憶から消えていくもんなのよ」
言葉が出てくるまで、10秒ほど微動だにしていなかったと思う。
僕はさっき食べた鎌倉パスタのカルボナーラ大盛りを燃料に、3年前のイルミネーションを頭の中で記憶を掘り起こす。
白・赤・黄色・青・緑が不規則に混ざり合い、真っ暗な夜を照らしている。この世界に存在するカップル全てを祝福しているかのようだ。
フォトスポットになっている馬車。キラキラした2022の文字。手を繋いで幸せそうに笑い合っているカップル。「寒いね〜」って言いながら彼氏であろう男性の左ポッケに手を滑り込ませている女性。
そして、僕の左側にサツキがいる。映画のスクリーンのように、その瞳には目の前の輝きが映し出されていると思う。
僕とサツキは2年前の12月24日、備北丘陵公園へイルミネーションを見に行った。当時僕たちが住んでいたところからは、車で約2時間走った場所にある。
1年間を通して営業している大きな公園で、普段は小さな子どもを連れた家族が遊びに来ていることが多い。冬の季節になると、急に20代のカップルの入場客が多くなる。広島県民からは「備北イルミ」と呼ばれていて、県内各地から若いカップルが集うほどの名スポットとなっている。
幸福という感情で包まれた、輝きの空間の真ん中を僕たちは歩いている。そして、変わらず僕の左側にはサツキがいる。
さっき見かけたカップルみたいに、僕のダウンの左ポケットにサツキの右手が収まっている。氷水で浸したくらい、とても冷たい手をしていたと思う。
だけど、どうしてだろう。
僕の目に映っているイルミネーションの映像、周りのカップルから耳に入ってくる声。幸福感と輝きに満ちた夜の空間。
それらの視覚情報・聴覚情報・体感覚情報はスラスラと思い出せるのに、どれだけ頭で考えても、サツキとの会話内容だけが全く思い出せない。こういう時、僕は一体サツキと何を話していたのだろう?
「いっつもそれじゃん。本当に覚えてないの?あ〜あ、みきとのこともそうやって忘れていくんだ〜。さいて〜。」
「忘れるわけないじゃん!」
「…そうだと良いな」
僕は、その声を頭の中だけで唱えていた。
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