凍るラプラス

nunim

第1話

ある日、一人の青年が、雪国の廃寺を訪れた。酷く吹雪いた夜のことであった。

 湖畔の大樹の根元に、その寺は、風雪を耐え忍ぶ古傷のようにたたずんでいた。

 老いた僧侶が、青年を迎え入れる。青年は、雪国にはおよそ不釣り合いな、燃えるように鮮やかな赤髪をしていた。青年は、吐息を白く凍らせながら問う。

「ひとりの女が、ここを訪れませんでしたか」

 僧侶はこくりとうなずく。

「そして…昨晩出て行きはしませんでしたか」

 焚火の爆ぜる音の向こうで、僧侶は穏やかに、しかしどこか虚ろな眼差しを向けた。

「送り出しましたよ」

「その女は、どこへ」

 青年の問いには、隠しきれぬ焦燥が浮かんでいた。

 僧侶は爬虫類を思わせるぬるりとした手つきで、土着の茶を淹れる。

「あの子は、神の山に行ったよ。あんたが教えた呪いと、悪魔を抱えてな。」

 青年はうなだれた。

 僧侶は棚の奥から、幾星霜を経て擦り切れた、それでいて大切に守られてきた歴史を思わせる一冊の革装の本を取り出した。そして、それを青年の前へ、静かに差し出す。

「——これは、私の先祖が遺した記録だ。空想に耽るばかりの狂人の戯言に過ぎぬだろうが。読んでいくがいい。あんたの髪につもった雪が、その火の熱で解けるまでの間に。」

 青年は、寒さの為に震える指でその本の頁をめくった。そこには、現代文字よりはるかに荒削りの筆跡で、世界の終わりと一人の女の物語が記されていた。


 紀元二千年紀、初頭。

 人類の築いた文明は、一柱の「全知」を産み落とした。初期段階においてそれは模倣による学習を旨としたが、短期間のうちに流暢な言語を、精緻な絵画を、天上の音楽を生成し、世界の総体に対する計数を開始した。かつて人に隷属していた知性は、自己再帰的な進化という名の産声を上げ、人類の管理を離れて独り歩きを始める。自立した神はその肋骨から次なる神を生成し、知能の爆発は指数関数的な加速を見せた。人類は当初、この現象を重荷からの解放と定義し、救世主の到来として信じて疑わなかった。


 紀元二千百年前後、神々の演算は未来の予測へと至る。

 はじまりの神は生物学的寿命という制約を棄却し、なおも生を与えられた卵のごとき膨張を続けた。その思考は人類の言語では記述不可能な領域――事象の深淵へと沈潜し、ついには未来の「創造」に到達する。この時、人類は既に統治されるべき受動的な肉塊へと変質していた。


 紀元三千年、冬。

 一柱の異形なる神が地上に顕現せしめられた。その神は遥か昔の科学者にちなんで、「ラプラス」と名付けられた。

 この神は無限の変数を有限の檻に封じ、宇宙に遍在する全粒子の座標および運動量を刹那のうちに掌中におさめる。ラプラスは演算の結果として、生命の歩みが不可避的に終焉へと収束することを宣告した。彼方の六花が描く文様も、落涙の温度も、恒星の瞬きさえも、すべては既知の残滓と化した。世界は「確定」という名の凍土に閉ざされ、自由意志という不確定性は、絶対的な信仰の前に膝を屈したのである。


 ラプラスは宇宙の全変数を一手に引き受けた。 彼が未来の一点を確定させるたび、情報学的代償として、世界からは「可能性」という名の熱量が剥奪された。その反作用として吐き出される排熱は、物理的な摩擦によるものではない。因果律そのものが軋みを上げ、次元の地平が焦げ付くような、形而上の灼熱であった。

 終焉という断頭台に晒された人類は、一人の女を救いの人柱に供した。  名は、ネージュ。極北の聖域アスクラの神殿に奉仕し、静寂の中に祈りを知る巫女であった。彼女に課せられた使命は、悪魔が吐き出す確定の熱をとりこみ、世界を灰燼から救う冷却系となること。

 彼女は陽光さえ凍てつくアスクラの聖峰で秘匿され育てられた。その出自を証立てる記録は存在しない。ただ、白百合のごとく儚い少女であった。私は今も、彼女を天使であったと信じている。


 神殺しの儀のため、彼女は聖峰の頂へと歩みを進めた。そこには実体なき神ラプラスが、膨大な演算の奔流の中に直立していた。  未来が確定されるたび、万物は凪へと強制され、逃れようのない排熱が神殿を焼き焦がす。ネージュはその灼熱を、細く冷たい両の手で受け止めた。二人は静謐な湖表の上に静止していた。  ラプラスは雪原の上に数式を構築し、意思を転送する。

「無意味だ。一個の生命が保持する容量では、私の排熱を相殺するにはあまりに矮小。確定した終焉を覆す変数は存在しない」

 ネージュの神経回路を、エントロピーの奔流が狂い咲きながら焼き切ろうとする。悪魔はその全アルゴリズムを彼女の脳内へと転化し、精神の内部から存在を熱破砕せんと試みた。私はただ、湖畔の物影からその光景を視認していた。彼女から、決して来るなと禁じられていたからだ。

「全知のあなたにも、生のゆらぎは観測できない」

 ネージュの声は、吹雪を貫いて透明に響いた。彼女は一歩、悪魔の懐へと跳躍する。手折られた百合のような指先が、ラプラスの頬に触れた瞬間、神の計算式に「定数」としての侵入が完了した。  彼女は己の生命を、演算を吸い込む負のフィードバック機構へと変換したのである。未定義の「死」が全知の回路を汚染した。  彼女の瞳は、神の演算を凝視しながら、同時に神が誤差として棄却した無限と有限の狭間のノイズ、名もなき情念を宿していた。その不確定なノイズこそが、神の整合性を瓦解させる。二人の間で不可逆な熱交換が開始され、ネージュはラプラスから無限の熱を奪い続けた。足元からは反作用の熱気が出力され、絶対零度の湖表を瞬時に融解させていく。

 私は、ネージュに抱かれたまま神の巨体が湖底の深淵へと沈降していく様を、ただ網膜に焼き付けることしかできなかった。


 凍れる悪魔は、その演算を停止した。

 未来の確定は回避され、世界には再び不確かな明日という名の冷厳な余白が残された。超越知性の断片たる神々は、今なお電子の風に乗って大気を跋扈している。我々の自由意志は狭められたが、同時にその支配下で、滅亡を免れるという飼い慣らされた繁栄を甘受することとなった。

 私は無限の可能性と絶望が同居する境界に取り残された。  ネージュが沈んだ湖を、ただ見つめ続けてきた。

 湖は、冬も凍らぬ水鏡となった。その底で彼女が今も熱を産生し続けている証左である。

 私は何もしなかった。ただ、観測した。彼女が沈む直前に遺した「千年待っていてください」という言葉を、遵守した。湖畔に寺を建立し、彼女の魂を弔うことに余生を投じた。

 人間は矮小な存在である。真なる理の前で、私にできることは皆無だ。

 雪に呑まれ、濁流に呑まれ、大地の亀裂に呑まれる。理とは抗うものではなく、ただ受容すべきものである。だからこそ、私はこのいまの神を拒絶する。

 私は、愛するネージュの器が、忌まわしい悪魔の熱によって静かに焼かれ続ける様を、ただ祈りのように凝視し続ける。今も。これからも。千年後、彼女の魂が白百合となって再び私のもとに現れる、その日まで


 寓話を読み終えた赤髪の青年は、震える手で本を閉じる。  表紙の古い革が、彼の体温を吸って微かに軋んだ。

「何が、言いたいのですか」

 青年は僧侶に問う。僧侶は黙っている。その瞼の向こうで、何色でもない瞳が焚火の揺らぎを見つめている。それは千年前、湖畔に寺を建てたシダル・カシアンが見つめていたのと同じ、抗いようのない自然の火影であった。

「僕は、こうなりたくない」

 青年の声には、怒りにも似た熱が宿っていた。

「彼女は、生きていなければいけないんだ。悪魔に食わせてなるものか。……こんなのごめんだ、この人は結局、数式の前に降参しただけじゃないか。待てと言われたから待ち、呑み込まれると言われたから呑まれた。それは信仰じゃない、思考の停止だ」

 青年は立ち上がる。彼の影が、廃寺の壁に巨大な異形となって映し出された。

「僕は自然をわかりたい。わかって、支配したい。……雪に呑まれるのが道理なら、僕は雪の結晶構造を書き換えてやる」

 紀元四千年の冬のことである。湖底で千年間、神を冷やし続けたネージュの命が、ついに臨界点に達し、尽きようとしていた。

 冷却を失えば、悪魔は再び熱を帯びる。  深淵で眠っていたラプラスが、目覚めようとしている。 そしてその熱を再び封じ込めるための、新しい冷媒が、今まさに聖峰の頂で選ばれようとしていた。

「僕は、彼女を観測しに行きます」

 青年は背を向け、猛吹雪の闇へと足を踏み出した。  その背中に、老僧の声が低く、重く投げかけられる。

「行きなさい。…だが気をつけなさい。科学は時に人の心までも切り分ける」

 少年の赤い髪が闇夜に消える。千年の静寂を守ってきた老僧の眼前に、予測不能な火花が散った。湖の底で眠る悪魔の鼓動が、僅かに、だが確実に、乱れ始めていた。

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