ひるなかの星

星宮ななえ

ひるなかの星


 小さな渦だった。

 あさ美がバケツのなかに手を入れて、右まわりにかき混ぜてつくった、渦。

 あさ美には生来、不思議な力があった。

 あさ美は思考を持たない物質や物体に、意思を持たせることができた。すなわち無生物を生物に変える——謂わばあさ美の一存で新たな生命をつくれる、ということだ。それは神の領域に近い、特異な力だった。

 最初にその力に気がついたのは5歳のとき。その小さな渦が始まりで、渦はその後、ぐるぐると楽しそうにまわりながらバケツのなかを飛び出して、空高く上がりどこかへ消えた。

「おかあさーん」

 あさ美は今起きたことを鼻息あらく母親に話したけれど、母親はあさ美の作り話だとして流し聞き、「よかったねえ」といって、ただほんの一瞬、微笑むだけだった。

 あさ美は三番目の子供であったからか、細かいことを大袈裟に気にかけてもらえるほど、日頃から母親の時間をもらえることはなかった。公園に付き添って遊んだり一緒に絵本を読んだりする時間も、母親にはなかった。母親に悪意はない。看護師として働いているあさ美の母親は、早朝から日の入りまでたっぷりと働き、あさ美と顔を合わせられるのも朝晩のごくわずかな時間だけ。合わせられる時間も掃除に洗濯にと、いつもばたばた忙しない。それについてあさ美は別段、おおきな不満を感じたことはない。一日のなかで母親とひとことでも話せたら、ラッキー。それはあさ美にとって服を着るとか飯を食うとかと同じ、ごくあたりまえのことだったのだ。ただ、寂しさはあった。上のふたりのきょうだいも、七つと五つ離れていたし、性別が違うこともあって、日々のほとんどは倦むとひとり遊びをしていた。

 だからあさ美は、退屈な時間を埋めるとき、その力を使った。たんぽぽに足を生やし追いかけっこをしたり、カーテンを空へと泳がせたりした。長い間はもたない。たんぽぽは次の日には萎れて庭に寝ていたし、カーテンは強風に疲れたのか、すぐにレールへと戻った。

 それに、意思を持たせることができるのは、全ての物質や物体というわけではない。対象はごくわずかで、波長があったときにだけ、生命のようなものをふと、おくり込むことができた。

 最初の頃は、ただ楽しくて、それらが動き出すと嬉しかった。

 けれどそれをできるのは、あさ美ひとりのときだけだった。それらは他の人の気配がすると、ただの無生物へと戻ってしまう。誰かとその遊びを共有することは到底、かなわなかったのだ。そしてそのことを話すとみな、どこか怪訝な顔をする。

「あさ美ちゃんさあ、嘘はよくないよ。みんな、嫌がってるよ」

 幼なじみの真衣ちゃんが神妙な面持ちであさ美につげる。

「嘘つきって、みんな言ってる」

——嘘じゃないのに。

 心の言葉は口には出さなかった。母親でさえ、次第にあさ美の話には眉を顰めて、機嫌悪く首を横に振っていたからだ。

「ねえ、あさ美。その話はもうやめてくれる? あさ美も来月で十歳になるでしょう。そろそろ、その話から卒業しなさい」

 みんなが嫌がって聞きたくないということを、利己として話すほど、あさ美は馬鹿じゃない。

 自分の力を誰とも共有できないとなると、それは途端に無価値でつまらないものになってしまった。だからあさ美は成長とともに普段、その力を使うことは、ほとんどなくなっていった。

 そもそもその力をつかえる物と出会うのも稀で、数万あるうちのひとつ、目に見える物質をひとつずつ細かくいえば、それ以上の確率でしかない。ゆえに向こう側も、そうとう奇異であるもの、ということだ。

 それからあさ美は、人型をしている物、それに近しい形の物、例えば人形やぬいぐるみには、その力を使うことはしなかった。理由はただ単純に気持ちが悪いからだ。

 わずかな間だけといっても、物体に生命を入れ込んでしまうのだから、よくあるホラー映画のような展開になりそうなことは避けたい。だからそういった遊びに嵌ったりはしなかった。

 それでも一度だけ、うっかりぬいぐるみに力を使ってしまったことがある。

 きっかけは三件隣に住んでいる高校生の少年だ。最近、茶色く髪を染めだしたその少年から、あさ美はピンク色したうさぎのぬいぐるみをもらった。ぬいぐるみと同じピンク色の包装紙でラッピングまでされた、真新しいものだった。

「これ、もらったんだけどさ、俺いらないからあさ美にやるわ」

 夕暮れ帰宅どき、たまたま前庭で遊んでいたあさ美の姿を目の端にとらえると少年は放り投げるようにして、ピンク色のうさぎをあさ美へと渡した。

 あさ美は、あわててそれを両手でつかむ。

「わあ。かわいい。ありがとう」

 ふたりは小さい頃に、あさ美の兄たちも交えて何度も遊んだことがある間柄だった。一緒になわとびをしたりストライダーの乗り方を教えてもらったり、実の兄たちよりもずいぶんと優しく遊んでくれた。小学校に入ると、廊下をすれ違うときに目配せをして軽く手を振り合うこともあった。少年はあさ美の初恋の相手でもある。だけど少年が思春期を迎えてからは、話すこともめっきりなくなってしまっていたので、ひさしぶりに声をかけてもらえたというだけで、あさ美はどこか胸が浮く気分になった。

 少年からもらったピンク色のうさぎはふわふわとしていて、丸く黒い瞳は愛らしく、あさ美は顔を綻ばせてそれを抱きしめた。

「あっ……」

 しかし、それがたまたま、あさ美を受け入れることができる物体だったのだ。

 めずらしい、とあさ美は驚いた。

 年季の入ったアンティーク人形やショッピングモールにある着ぐるみになら感じたことはあったけれど、新品のぬいぐるみというのは初めてのことだった。

 だから興味本位で意思を与えた。

 少年がくれたぬいぐるみが仲の良い友達になってくれたら素敵だと、楽観的なファンタジー映画の方に、心がふれた。

 結果は、最悪だった。

 ピンク色のうさぎは意思を持つと、開口一番にこういった。

「おれにはな、おれを買った夏菜子という女の念が、たっぷりと詰まってるんだぜえ」

 それからげらげらと大口を開けて笑い、腹をばりばりと掻きむしった。あさ美は眉根を寄せた。

「夏菜子はな、あの男が通う塾で働いてる講師だよ。で、おれに込められてるのは、その女の、あの男が好きで好きでたまらなぁいって念だ。いやあ。あのブス、おれをあの男に見立てて体を何度も擦り付けてきたよ。年増の女がよくやるよなあ、気持ちわりい。いやあ人間はほんと、ぐろいなあ、ぐろいなあ」

 げげげ、と転げながらピンク色のうさぎが笑う。夏菜子という女の念がそうさせているのだろうか。意思を持ったピンク色のうさぎは下品で気味が悪く、ちっともかわいくなんてなかった。

 あさ美は大きくため息をついた。ファンタジー映画でもホラー映画でもない、現実的で下劣な展開に辟易した。だからいったのに、と、自分で自分に叱責もした。

 それからしばらくして、ぬいぐるみからすっかりとあさ美の力が抜けたあとも、どうにもそれをそばに置くことは気が引けた。夏菜子の念が込められているのは事実だし、洗っても汚くてさわる気にもなれなかった。あさ美は少年に申し訳ないと思ったが、燃えるゴミの日にぬいぐるみをこっそりと捨ててしまった。ゴミ袋に入れるときに囁くような声で「クソが」と聞こえた気もしたけれど、空耳ということにした。

 そんなこともあり、あさ美は自分の力は無意味な物であると定義づけ、すっかりと興味をなくしていた。

 

 自分にそんな力があるということすら、忘れかけていたある日。

 母親がニュースの音量をあげ、眉間に皺をきつく寄せて言う。

「ちょっとやだ、怖いわねえ」

 母親の視線の先、テレビ画面に映されていたのは、水がつくる渦だった。直径は三十センチ。上空、対流圏にぽかりと浮いている。

 先日、旅客機のレーダーがそれを異物として検知し、発見されたらしい。

 あさ美は震えた。

 ああ、あれは私のつくった渦だと、すぐにわかった。

 ぐるぐると楽しそうにまわる渦。

 あれから何年も経つのに、どうしてあれがそうしてあそこにあるのだろうとも思った。

 右まわりにぐるぐると巻かれた渦は、いまや禍々しいまでの迅疾としたスピードでまわっていて、ときおり、その渦のなかに鳥や雲が吸い込まれていく。そのさまはまさにブラックホールであった。

「いったい、あの渦に吸い込まれたものはどこへ消えているのでしょう」

 キャスターのコメントで、あさ美の背筋がきんと冷えた。

「どこへって……まさか」

 おのれの直感に従い、あさ美は庭に走った。

「あった」

 裏庭の隅に昔からずっと置いてある古びたバケツ。あの渦をつくりだしたバケツだ。あさ美は思う。あの渦とこの古びたバケツは、もとはひとつ——

(まさか、ね……)

 地を焦がす炎天下。あさ美の額から汗が数滴、ぽたりと落ちる。

(きっと私の思い過ごしだよね……)

 あさ美が意を決してバケツにゆっくりと近づくと

 ガン!

 となにかがぶつかった音がした。

 バン!

 となにかが弾けた音も。

 ガンガン! バンバン!

 あさ美は逆さまになっていたそれを持ち上げて、なかをそっと覗き見る。

「うわあっ」

 瞬間、あさ美はからだをのけぞらせた。

 バケツからはまず、雲が出てきた。上空へと帰るように、白煙がもくもくとひろがる。

 それから鳥。ばさばさと慌てるようにして何十羽、何百羽、何千羽も飛び出してくる。

「いやっ!」

 あさ美は慌ててバケツを逆さまに置いた。

 ガンゴンバンゴン!

 出てくることができなかったなにかが、音を立てている。

 足が小刻みに震えた。目からは涙がぼろぼろとあふれる。

(どうしてこんなことに)

 あさ美が震える足を擦るようにして数歩ばかり離れると、バケツは静かになった。

 バケツはあさ美に共鳴している——

 それは幼いあさ美にも理解できるほどあきらかなことだった。

「なんで私なの!」

 あさ美はそう叫ぶと、踵を返し、家のなかへと走った。靴を乱雑に脱ぎ、自室にかけ込み、布団にもぐる。からだは震えているのに汗をぐっしょりとかいている。

——私のせいじゃない。私は知らない。そうだ。みんながいつも言うように、私は妄想癖があって少し頭がおかしいのだから、あれは幻覚だ。そう、だからきっとあの渦は私の知るものじゃなくて。バケツから出てきたものもすべて、まぼろしなんだ——

 あさ美は、そんな逃避をしながら浅い眠りにおちた。

 

 翌日、母と一緒にそのバケツの前に行ってみても、バケツからはなんの音もしなければ、ひっくり返しても雲や鳥が出てくることはなかった。

「なあに、バケツに蛇や鼠でもいたの?」

 と、呆れ顔の母からため息まじりの言葉をかけられて、あさ美はうつむく。

(やっぱり、私ひとりのときだけにしか起こらないんだ)

 あさ美は、それであれば自分がひとりのときに近寄らなければいいだけだと、昨日の出来事は自分の妄想が作り出したまぼろしなのだとする方が都合が良いと——事実を歪曲することに初めての、安心感を覚えた。

 

 それから一週間後。毎朝毎晩、渦の話題で埋め尽くされていた報道に進展があった。

「さて、我が国の領空上にあらわれた渦についての続報です。日本政府といたしましては、渦に観測機器を搭載した無線式カメラを入れて調査中とのことでしたが、やっとですね、メディアでもその映像を公開することができるようになりました。それがこちらの映像です。どうぞ」

 カメラは渦のなかに入るとすぐに、じりじりと割れるような音を立てて映像を乱した。

「……このようにですね、映像はこれで終わりです」

 コメンテーターが首を捻らせながら

「これじゃあ、なにもわかりませんね」

 といって笑う。

「それで、観測機器からの情報は?」

「それがですねえ、これが我が国で一番強度の高い観測機器カメラ、ということだったようですが……映像と同じように残念ながらこれ以上なにも送られてくることはなかったようでして。内部を知ることはできませんでした。何度か試したようですが、どれも同じ結果のようですねえ」

「ええっ……」

 スタジオが皮肉な笑いに埋まる。

「いやあ、成果なしとはどうにも、残念すぎますねえ」

「われわれは、はやくこの渦の詳細を知りたいわけですから」

「得体の知れない渦のままでは気味が悪いですからね」

「ただの竜巻、というわけではなさそうですよね」

「これはやはり、地球にできたブラックホールなんでしょうか?」

「重力の影響ということですか? というには、あまりにも小さい」

「非現実的ですが次元の裂け目、なのですかね?」

「ははは。正直なところ、その考えの方がしっくりきますねえ」

 コメンテーターたちが好き勝手に各々の思考を口にする。

「週明けにはいよいよ、JAXAとNASAの共同調査が入るようです」

「そうなるとさすがに少しは、調査も進むわけですかね」

「ええ、まぁおそらく……」

「この渦が人類にとって有意義なものであることを願いたいですね」

「そうですね。次元の裂け目であれば、出口はほかの銀河かもしれないのですから夢は広がります」

「ははは。それは歴史的大発見ですな」

「そうでなくとも……なんでも吸い込み続けるなら、ほら、産業廃棄物の処理などにも使える可能性があるわけですから」

 !!!

——とんでもない。

 あさ美はどうしたらいいのか、頭を抱えた。あの渦を廃棄物処理などに使われたら、その行き先はいったいどこになるのか——深く考えなくても結果は明白。呑気に笑っているテレビのなかの人とは裏腹に、あさ美の顔はさらさらと青ざめた。

——やっぱり、私がどうにかしなくちゃ。

 あさ美は庭へと出て、もう一度、バケツにそろりと近づいた。

 ガコン! ガン!

 バケツが大きく音を出す。なかにあるものを出せ出せと、怒っているかのようだ。

「ま、待ってよ。今出してあげるから……」

 あさ美が恐る恐るなかを見ると、四方にレンズのついたキューブ型のカメラが数個、ごろりと出てきた。あさ美はそれを手にとった。ずっしりと重く、両手で持たないと持ちあげられない。

——このカメラ、たぶん、さっきテレビで言ってたやつだ。

 これにもし、映像が、自分の姿が映れば、自分の言っていることを信じてもらえるかもしれない。そう思いながらあさ美は、あらゆるボタンを押す。どれも壊れている。

 それでもあさ美が汗を垂らしながらこねくりまわしていると、そのうちのひとつが「ピピッ」と機械音を鳴らした。

——やった。動いた。

 だが、てきとうに押したボタンは録画されたものを再生する役目のものだったので、突然、カメラに残された映像が流れ始めた。

 あさ美はそれをじっと見る。

 録画は渦に入る少し前から始まった。

「では今から三番目の観測機器を投入します」

 スーツを着た、こぎれいな格好をした男がカメラに向かって話している。その後カメラは迷彩服を着た恰幅の良い男に渡され、その男がヘリの端からカメラを渦に向かってひょいと投げ入れる。カメラは、くるりくるりとまわりながら渦に入り、画面は一度、真っ白になる。その後、砂あらし。ちりちりと音を鳴らす。

 それから黒の強い赤となり、すぐにあざやかな鮮血に変わる。

 激しくまわるカメラ。

 風、だろうか——ごうごうとなにかが騒めく音が入る。

 いくつかの黒影が映り込む。黒い影はゆらりと動いている。

 回転は次第にゆっくりとなる。影の正体が、あらわれる。

 影の正体。それは、あるはずの場所に目玉がなく、顔中に無数の黒い点を付けた女。崩れた脳がずるりとむき出しになって笑う男。大きなゼラチンのような薄紅色した塊に、鋭利な歯だけが生えている物体。ひょろひょろと畝る白い人型の棒。茶色い臓腑をだらりと垂らしながら、皮膚もなく歩くなにか——

「ぎゃあああああ」

 あさ美はカメラを投げ捨て、叫んだ。

 その声を聞いて母親がかけつける。

「なに!? どうしたのよあさ美」

 あさ美からは言葉が出ない。ただ、がたがたと歯を鳴らす。

 あらわしようがない不安が、あさ美のからだを駆け回る。

 それでもあさ美は必死に単語を紡ぐ。

「わたし、渦を、つくって……だって、ほんとうに、つくれるの。つくれるのよ。花や布団や人形も、動かせるの。それで、あの渦は、だから、わたしがつくって……だけど、わたしがつくったのは、もしかしたら地獄だったのかもしれない」

 母親はそれを聞くと、首を横に振り、大きなため息をつく。

「うん。わかった。わかったよ。ごめんね。あさ美、今までごめん。週明けに病院へ行こうか。私がもっとはやく、そうしてあげればよかったのよね」

 あさ美の目からは大粒の涙がこぼれ落ちる。目先に転がっているのは、ただの古びたバケツ。カメラもなにも、ない。

 あさ美は叫ぶ。

「どうして嘘だと決めつけるのよお! どうしていつも誰も信じてくれないのよお!」

 あさ美は泣き叫びながらバケツを思いきり地面へと叩きつけた。バキン、と音がしてバケツは微塵に割れ砕け、壊れた。

 あさ美も壊れたようにわぁわぁと、泣きわめき続けた。

 母親も静かに泣いていた。

「ごめんね、あさ美。ごめんなさい。お母さんを許して……」

 母親があさ美をきつく抱きしめる。

 ごめんね、あさ美。と母親は何度も言い続ける。

 あさ美は母親の腕のなか——母親のからだから聞こえる嗚咽音が鼓膜を激しく揺らして、頭と胸が破裂しそうに痛かった。

 あさ美がつくった渦は、そのときにちょうど、消え去った。

 忽然と姿を消したのだ。

 消え去ってしまえば人々は「あれはいったいなんだったのかしら」と首を傾げるだけで、ただの竜巻が変形したものだろうと都合の良い答えを出して、すぐに忘れてしまう。

 あさ美も成長とともに、おのれの力はただ、おのれの妄想だと、おのれの見聞すべてが夢幻だと、見方を変えた。

 あさ美は、馬鹿ではない。その後、母親と幾度も通った支援施設とやらの、顔に笑顔を張り付かせたカウンセラーの人と話すうちに、世の中の仕組みを理解した。

——そうしなければ母は悲しむし、真衣ちゃんのようなふつうの女の子は怖がる。自分だって苦しくて、いいことなんて、ひとつもない。

 それはあさ美の出した、答えだった。

 しかし、あさ美は長い間、誤解していた。本当のあさ美の力は「生」をあたえる、というわけではなかったのだ。あさ美の力は、この世にある、他の人間が見ることができない「生」を見ることができる、というものだった。

 だからあの渦は、あさ美が創り出したわけではない。あの日、あさ美はただ、バケツに宿っていた「生」を見たということであり、渦はバケツから生まれた新たな「生」だった、ということなのだ。

 ぐるぐると楽しそうにまわる渦。それは、あさ美以外の、他の人間の目にも見えるようになるほどの、強い「生」。

 では、その渦のなかにあった悍ましく奇怪な世界は——どこから生まれきたのか。そしてどこにいってしまったのか。

 ぐるぐるとまわる銀河のなか、ぐるぐるとまわる地球。そのなかで、ぐるぐるとまわる渦。自分たちが今いるこの世界はそもそも、誰がどこから創ったのか——また、いつまで存在できるのか。

 そういったことを、本当のところ、あさ美もしばらく考えてはいた。けれど、自分との対話だけではいよいよ頭が割れそうになってきたので、すべては夢幻であるのだからと、虚無になるような事柄に時間を割くのをやめた。この世の中では、そうしなければいけないのだと自分の思考を戒めた。「なぜ」「どうして」、そんなこと知らなくても、知らない方が、楽に生きていけるのだからと——

 目の前にひらりと落ちた葉に、あさ美は手を伸ばす。その葉はあさ美の手のうえにのると、くるくると踊り、やがてまたふわりと飛び立った。

 あさ美は目を細め、沸きあがる感情を抑え、冷静に答えを出す。

——きっと今日は、私が思っているよりも風が強いだけなのだ。

 心の奥にガコンとひとつ、鈍い音。

 あさ美のなかでくるくると、楽しそうにまわり舞っていた「なにか」が、消えた。

 

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ひるなかの星 星宮ななえ @hoshimiya_nanae

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