霧のロンドンで、秘密の花を咲かす

南條 綾

霧のロンドンで、秘密の花を咲かす

 霧が街を呑み込む朝だった。ロンドンの冬はいつもこうだ。テムズ川から流れてきた湿った霧が、低い位置をうようにして、足もとの石畳をじっとりとらしていく。ガス灯の淡い光さえもぼんやりとかすませる。私は馬車の窓からその景色を眺めながら、膝の上の毛布をそっと引き寄せた。外套の襟を立てても、冷気は容赦なく首筋を撫でていく。


 馬車が止まったのは、ケンジントンの一角にある静かな邸宅の前だった。門柱に刻まれた「エヴァンズ邸」の文字は、表面がびっしりとこけに覆われていて、そこに何が書いてあるのかさえ分からない。私は傘を手に降り立ち、運転手に礼を言ってから、重い鉄の門を押した。


 玄関のベルを引くと、すぐに扉が開いた。現れたのは、黒いドレスに白いエプロンをした中年の女中だった。彼女は無言で私を奥へと導き、応接間へと通してくれた。暖炉の火がぱちぱちと音を立てている。部屋は薄暗く、カーテンが半分閉められたままだった。

 

 私はソファに腰を下ろし、手袋を外しながら周囲を見回した。壁には古い肖像画がいくつも掛かり、重厚な家具が整然と並んでいる。どれも上質だが、どこか埃を被ったような寂しさを漂わせていた。


 やがて、扉が静かに開いた。入ってきたのは、私がこれからお仕えするご令嬢。エリザベス・エヴァンズ嬢だった。彼女は二十歳そこそこだろうか。黒い喪服に身を包み、長い金髪をゆるやかに後ろで束ねている。肌は雪のように白く、瞳は深い青だった。だが、その美しさはどこか儚く、まるで触れれば消えてしまいそうな印象を与えた。


「綾さんですね」


彼女は静かな声で言った。英語ではなく、私の母国語で。私は驚いて立ち上がり、丁寧に頭を下げた。


「はい、エリザベス様。お屋敷にお仕えさせていただくことになりました綾でございます」


 彼女は小さく微笑んだ。それは、まるで氷の表面に一瞬だけ陽光が差したような、儚い笑みだった。


「日本語が話せて嬉しいわ。父が東洋から連れてきた骨董品の説明書が、どうしても読めなくて」


 彼女はそう言って、暖炉のそばの椅子に腰を下ろした。私はその向かいに座るよう促され、慎重に腰を下ろした。


「あなたのお国では、女性はどのような暮らしをなさるの?」


 突然の問いに、私は少し戸惑った。だが、彼女の瞳は純粋な好奇心に満ちていた。


「私は……商家の娘でございました。ですが、家が没落してしまいまして」


 言いかけて、私は口をつぐんだ。これ以上過去を語るのは、はばかられた。エリザベス様は私の沈黙を察したのか、静かにうなずいた。


「ごめんなさい、無理に聞くつもりはなかったの。ただ……この屋敷はとても静かで、誰かと話したくて」


 彼女はそう言って、視線を窓の外に向けた。霧がますます濃くなり、庭の木々さえもぼんやりとしか見えなくなっていた。


「母が亡くなってから、父もほとんど家にいません。叔母が時々来てくれますが、それ以外は……」


 言葉を切り、彼女は小さく息を吐いた。私は何と言えばいいのか分からなかった。ただ、彼女の横顔を見つめているうちに、胸の奥に温かいものが広がっていくのを感じた。それは、同情というより、もう少し違う感情だった。


「エリザベス様」


 私は思わず声を上げていた。


「何か、私にお手伝いできることがございましたら、何なりとお申し付けください。私は……お側に控えております」


 彼女はゆっくりと私の方を振り返った。そして、初めて、本当に心からの笑みを浮かべた。


「ありがとう、綾。あなたが来てくれて、本当に嬉しいわ」


 その瞬間、暖炉の火が大きく揺れた。まるで、私たちの間に生まれた小さな絆を祝福するかのように。


 それからというもの、私はエリザベス嬢の身の回りの世話をしながら、彼女と過ごす時間が多くなっていった。朝は一緒に紅茶を淹れ、午後は庭を散歩し、夕方は暖炉の前で本を読んだ。彼女は日本のことを知りたがり、私はイギリスの習慣を教わった。言葉の壁はほとんどなく、むしろそれが私たちを近づける糸となった。


 ある雪の降る夜のことだった。エリザベス嬢が突然、悪夢を見てうなされた。私は慌てて彼女の部屋に駆け付け、ベッドサイドに座った。


「大丈夫ですか、エリザベス様」


 彼女は汗に濡れた顔で、私の手を強く握った。


「怖い夢を見たの……母が、私を呼んでいて……でも、近づけないの」


 私はそっと彼女の背中を抱き、優しく撫でた。


「夢です。もう大丈夫。私はここにいます」


 彼女は私の胸に顔を埋め、しばらく震えていた。やがて、静かな息遣いになり、眠りに落ちた。私はそのままずっと、彼女を抱きしめていた。


 外では雪が静かに降り積もり、屋敷全体を白く染めていく。


 朝になり、彼女が目を覚ました時、恥ずかしそうに微笑んだ。


「昨夜は……ごめんなさい」


「いいえ。私こそ」


 私は首を振った。


 その日から、私たちの関係は少しずつ変わっていった。彼女は私の手を握る機会が増え、私は彼女の髪を梳かす時間が長くなった。言葉にしなくても、お互いの存在がどれほど大切か、分かっていた。


 ある春の午後、桜に似たピンクの花を咲かせた木の下で、彼女が言った。


「綾、あなたがいなかったら、私はどうなっていただろう」


 私は答えられなかった。ただ、彼女の手をそっと握り返した。


 霧のロンドンで、私たちは二人だけの小さな世界を作っていた。それは、誰にも言えない、けれど確かに存在する。


 静かで、温かく、甘い秘密だった。

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