生まれ変わったら、カラスになりたい。

暗号云

生まれ変わったら、カラスになりたい。

 彼は夜明け前の踏切に立って、コーヒーの苦さを舌に残したまま、空を見上げていた。始発の音が遠くで息を整え、街はまだ自分の輪郭を思い出していない。

 こんな時間が、彼は好きだった。誰にも見られず、誰にも名づけられない時間。


 ――生まれ変わったら、カラスになりたい。


 それは逃げではなく、願いだった。

 白でも青でもなく、ただの黒。正しさや清潔さの物差しから外れ、賢さを笑われ、嫌われながらも街の隙間で生きる鳥。彼はその黒に、自由の匂いを感じていた。


 人である彼は、よく忘れ物をした。言いそびれた謝罪、飲み込んだ怒り、届かなかった手紙。

 カラスなら、光るものを拾い集め、電線に並べて、忘れたこと自体を誇れる気がした。

 忘却を才能に変えられる気がした。


 ある朝、彼は路地で羽根を拾った。真っ黒で、少し欠けていて、油の匂いがした。

 指先に乗せると、羽根は軽く、重い一日を嘲笑うようだった。

 彼はそれをバッグにしまい、会社へ向かった。会議は長く、言葉は鈍く、誰の声も天井に吸われた。


 夕方、彼は踏切に戻った。空は濃い藍に染まり、電線が譜面のように伸びる。

 カラスたちは音符になり、街は短い歌を歌った。

 彼はバッグから羽根を取り出し、風に放った。羽根はくるりと舞い、やがて見えなくなった。


 ――生まれ変わったら、カラスになりたい。


 そう思いながら、彼は今日を終えた。人として、少しだけ軽く。

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