とろみの祝祭

水月A/miz

禁断の高塔

 雨は、今日もまた空の涙のように降り続いていた。

 じっとりとした湿気が、家の隅々まで染み渡り、若き白猫は、毛玉ぼーるを転がしながらも、その瞳の奥には、どこか満たされない影が宿っていた。


 その時、ふと、彼女の小さな鼻腔が、かすかに、しかし確かに、甘く、抗いがたい誘惑の香りを捉えたのだ。


「……おいしいのにおい……たましい、ゆさぶる……」


 その香りは、いつもお姉さんがカリカリを出す時に使う、あの袋の香りとは明らかに違う。


 もっと濃厚で、もっと甘美で、もっと……ちゅるちゅる……としか表現しえない、官能的な響きを持つ。


 何かに気が付いたように白猫は、はっと顔を上げた。


 その香りの源は、キッチンから漂ってきていた。

 彼女は音もなく、そっとキッチンの入口に立つ。

 そして、ゆっくりと、視線を上へと向けた。


 ──この世には、猫にとって、登るべき聖なる山がある。


 それは峻厳な富士ではない。雲を突き抜ける雪をいただいたエベレストでもない。


 白くて静かに唸る、威厳に満ちた四角い神殿──冷蔵庫。


 その頂には、普段は目に入らぬ『ちゅるちゅる袋』の詰まった、光り輝く箱が、まるで太古の秘宝のように鎮座していた。しかもうち一つにはあきらかに誰かがくらいついたであろう、穴が開いている。


「……あれは……あれは……でんせつの……ちゅるちゅる……」


 どこからともなく響く甘美な音。

 とろり、ねっとり、生命の源泉のような、とろみの祝祭。


 開封されしとき、あらゆる猫は至福に包まれ、目を細め、前足をぷるぷるさせながら、魂は天へと昇天する。


 冷蔵庫の頂とは、家猫修行中に入ったばかりのノエルにとって未踏の地であり、禁断の聖域だった。


 一階を主たる活動範囲とする彼女にとって、高所への挑戦は、階段以上の、計り知れない勇気を要する試練。だが、その香りの誘惑は、あまりにも強烈で、理性を焼き尽くす炎のようだった。


「みえないの……しょんぼり……」


 ノエルは精一杯身体を伸ばして冷蔵庫の側面を見上げ、その滑らかな表面に途方に暮れる。爪を立てても滑り、前足で押してもびくともしない。


 彼女の脳裏に、かつて挑戦した階段の記憶がよみがえる。あの時、彼女を動かしたのはご褒美への期待だった。


 だが、今、頭上にあるちゅるちゅる袋は、それ以上の、もっと純粋で、抗いがたい欲望の奔流をかき立てる。


 リビングのソファでは、齢二十三歳を超す猫又予備軍マーブルが、ノエルの奇妙な行動を静かに見守っていた。その古き瞳には、どこか世界の真理を見通したかのような、達観した光が宿っている。


「若き白猫よ……新たな高み、そしてその先の甘美な世界を望むのね。その頂きにたどり着くには、並々ならぬ執念と、魂の渇望が必要なのよ……」


 マーブルもまた、かつて自分が野良として放浪していた頃の、様々な高所への挑戦を思い出していた。冷蔵庫の上など、彼女にとってはさほど高い場所ではない。


 だが、家猫となりすっかりふくふくと育ってきた白猫にとっては、命を賭した難易度なのだろう。


「それにしても、あのちゅるちゅる袋の魅力は、確かに猫の理性を狂わせるわね……」


 つい数時間前に袋に食らいついて穴をあけ、中身を少しばかり啜った老猫は、心の内でそっと頷いた。その誘惑は、たとえ美食家である自分にとっても、抗いがたい、根源的な衝動がある。


 だが、いまや彼女は、短い尻尾をぱたりとさせるだけだった。

 高所に登っている所をニンゲンに見られると「きゃー何してんのあぶないでしょ」と、引きずり降ろされてしまう。


 ならば、彼女は泰然自若として待つのみである。


 ノエルは、冷蔵庫の周りをぐるぐると回り、まるで古代の謎を解き明かす探求者のように、攻略法を模索する。ジャンプしてみるも、届くはずもなく、ふくふくとした体がぽよんと、重力に逆らえずに床に落ちる。


 何度か繰り返すうちに、彼女の瞳は、もはやちゅるちゅる袋への、燃え盛る執念の炎で、ぎらぎらと輝いていた。


 また一つ、新たな冒険の舞台が、静かに、しかし確かに生まれた。


 それは、甘美な香りに誘われた一匹の白猫と、猫の夢が詰まった宝の塔を巡る、壮大なる冒険の、静かなる序章である。

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