第7話 怪物
中山競馬場、最後の直線。
急坂を駆け上がる馬群の中から、1頭の栗毛が抜け出した。
シャイニースターズ。額に真っ直ぐな流星を刻んだ小さな馬体が、泥を跳ね上げながらめいっぱい脚を回転させている。
鞍上の松本一也から、魂を込めたムチが1発、2発と入った。
「ぐうーー! いけっ!」
松本は歯を食いしばりながら、必死に追った。今日のシャニ子は、これまで見せてきた後方からの競馬ではない。神里調教師と練り上げた作戦は、前目につけてのハイペースによる消耗戦。中山の坂で他馬が苦しむ中、最後まで脚を伸ばし続けるという過酷な試練だった。
坂の途中で、外から芦毛のアレクベルクールが猛然と並びかけようとしてくる。
『先頭は2番のシャイニースターズ! これは苦しいか! アレクベルクール猛追! アレクベルクールが並ぶか! しかし! 抜かせない! 抜かせない! シャイニースターズだあっ!!』
ゴールを駆け抜けた瞬間、一気に大歓声が耳に流れ込んできた。松本は直線の間、あまりの集中に周囲の音が何も聞こえていなかったことに気づいた。
『神里厩舎はこれが重賞初制覇!』
実況アナウンスのその一言で、松本はようやく我に返った。荒い息をつくシャニ子の首筋を撫でながら、彼はスタンドの方を向いた。そして、同い年である、あの理屈っぽくも情熱的な調教師のことを想った。
◇
同じ時刻。兵庫県、阪神競馬場。
春の柔らかな陽光が降り注ぐ中、検量室付近は、次走への準備を急ぐスタッフや騎手たちの熱気で溢れかえっていた。
栗東の名門、滝啓介・48歳は、スマートに仕立てられた紺のブレザーのポケットに手を入れ、検量室横のモニターを静かに見上げていた。
この日の阪神メイン、第11レース「若葉ステークス」の結果を確認し終えたところで、ちょうど中山競馬場のメイン、第11レース「フラワーカップ」の映像が流れ出したのだ。
画面には今、中山で勝利を飾ったばかりのシャイニースターズの姿が映し出されている。
「……
滝は短く吐き捨て、隣に立つ男へ視線を向けた。
男の名は小野寺。ヴィットーリアを所有する大手クラブ・「グロリア」の代表である。彼が纏うスーツの隙のなさ、そして漂わせる圧倒的な資本の香りは、神里厩舎のような新興勢力には到底持ち得ないものだった。
「うーん、滝先生。あのアスリート崩れの馬主の馬……意外と走りますね。これだけタフな競馬をされるとは」
小野寺の言葉には、感心よりも「不快」の色が混じっていた。あまり人気はしていなかったが、クラブの馬もフラワーカップに出走していたのだ。
「ふふ、小野寺代表、ご安心ください。中山の急坂は根性だけで誤魔化せますが、阪神の長い直線、そして桜花賞のスピード決着となれば、あんな石ころを蹴るような不格好な馬では、ヴィットーリアの影も踏めません。前走と同じように、格が違うということを、本番で教えてやりますよ」
滝は冷徹に言い放った。彼の厩舎は、栗東トレセン内でも屈指の設備を誇る。
建物自体の大きさは他と変わらぬ20馬房だが、一歩足を踏み入れれば、そこは最新鋭の医療機関のようだ。
馬房の壁には特注のクッション材が貼られ、常にクラシック音楽が流れ、蹄鉄は一足数万円する超軽量のアルミ合金。
滝にとって、神里の「データ競馬」など、資本力という暴力の前では子供の遊びに過ぎなかった。
エリート陣営の視線は、すでに中山の栗毛など見ていなかった。彼らの視界にあるのは、ヴィットーリアという「勝利の女神」による圧倒的な戴冠式だけだった。
ヴィットーリアの母もクラブ馬で、かつてG2・フローラステークスを勝利した馬だった。その2番仔が、この女神である。
一流の馬主、一流の厩舎、一流の血統。ちっぽけなシャイニースターズ陣営にとっては、かの敵はあまりにも眩しすぎる存在だった。
◇
「えー、それでは、神里厩舎初の! 重賞制覇おめでとうということで! かんぱーい!」
その日の夜。美浦トレーニングセンターにある神里厩舎の大仲では、ささやかな宴会が開かれていた。
スタッフの手には、それぞれノンアルコールのビールやチューハイが握られている。美浦まで車で通勤する者が多いため、これが神里厩舎の厳格なルールだった。
「うまっ……! 美味いっ……!」
厩務員のナギサは、熱々のシューマイを頬張りながら、普段食べている安物の冷凍食品との違いに涙していた。テーブルの上に並ぶのは、目移りするほど大量の中華料理だ。
オーナーの瑞原隆行が、愛馬の、そして厩舎初の重賞勝利の報を聞いてすぐに、横浜中華街の有名店から大量に送り届けてくれたのだ。
横浜中華街、大通りから一本外れた路地裏にある老舗「秀月楼」。
店主の
『おっちゃん! 俺の馬が勝ったんだ! 一番良いやつを、美浦の厩舎に届けてくれ! 最高のスタッフたちがいるんだ!』
瑞原がドラフト下位で入団し、怪我に泣き、未来が見えなかった若手時代。
寮の食事さえ喉を通らない夜、瑞原は決まってこの秀月楼のカウンターに座っていた。
「おっちゃん。俺、いつか金持ちになったら、この店を全部買い占めるくらい注文してやるからな」
そんな青臭い夢を、王は「まずはヒット一本打ってから言え」と笑い飛ばしながら、いつもサービスで小皿のエビチャーハンを出してくれたものだ。
瑞原が神里厩舎に贈ったのは、単なる食事ではない。かつて自分を支えてくれた味を、今自分と馬を支えてくれている仲間たちに伝えたかったのだ。
目の前でチャーハンを大量に掻き込んでいた松本一也が、口をもぐもぐさせつつ、ノンアルコールのドリンクを煽って飲み込んだ。
「瑞原オーナーに感謝して食べるんだぞ。あ、でもそんなに食べ過ぎても太るからな」
「余計なお世話ですよ!!」
松本の悪い冗談にツッコミを入れつつも、ナギサ自身、体重管理には人一倍気をつけていた。
「体重に気を付けるのは、松本さんのほうではないでしょうか」
「げ」
相変わらず平坦な敬語で、神里守が問いかけた。松本は逃げるようにして奥の皿のエビチリを取りに行った。
「カミサトサン。オーカショー、メンバーどう?」
背が高く、彫りの深いイケメンのスタッフが神里に問いかけた。日本語は上手だが、決してネイティブではない。
「エスコさん的にはどうですか?」
「メンバー、レベル高い、ね。ヴィットーリア、つよいね」
エスコさんと呼ばれた彼は、インド人だった。
彼は南インドのバンガロール競馬場で、三代続く厩務員一家の末っ子として育った。
神里がかつて技術調教師として海外を回っていた際、誰も手が付けられなかった暴れ馬を、魔法のように鎮めたエスコの技術に惚れ込み、
「私の厩舎の心臓になってほしいのです。あなたの感覚が、私のデータには不可欠です」
と、当時としては異例の丁寧さで直談判して日本へ呼んだ経緯がある。
「デモ、シャニ子、ハート、負けてない。ワタシ、毎日、彼女の耳の動き、見てる。彼女、桜の匂い、もう、知ってるよ」
エスコの言葉には、神里のデータさえも及ばない、生命の核心を突くような響きがあった。
「ヴィットーリアなぁ、あそこは10日競馬で仕上げられるのが当たり前なくらい、外厩との連携が取れてるからな。今じゃ阪神JFから桜花賞直行なんて、当たり前の時代になっちまった」
紙皿に大量のエビチリを載せた松本が戻ってきた。
「松本さん、少しよろしいでしょうか」
「な、なんだよ。ちょっと……」
神里は松本の方をじっと見つめた。松本はしどろもどろに目を泳がせたが、最終的に神里の顎のあたりを見ることでなんとか落ち着いた。
「今年一年、シャニ子の鞍上は松本さんから変えるつもりはありません。よろしくお願いします」
「お、おう」
「ですから、分かっていただけますよね?」
「え」
神里は静かに微笑みながら、松本の皿からエビチリをそっと奪った。松本もようやくその意図――完璧な減量をしろ、という無言の圧力を理解したようだった。
「オイ! ナギサ! たすけて!」
「究極仕上げ、してもらったらいいんじゃないですか?」
ナギサは意地悪くそう告げると、空になったノンアルビールの缶を潰し、シャニ子の馬房へと様子を見に行った。
◇
桜花賞を今週末に控えた平日のある日。昼のミーティングは、いつになくピリついていた。
神里はスーツ姿でタブレットを片手に持ちながら、各自が揃っているかを確認して喋りだした。
「今週、ウチの厩舎にとって初めての3歳クラシックに出ます。皆さん、緊張していると思います」
ジリ、ジリと天井のLEDが点滅している。スタッフのそれぞれが生唾を飲むか、手をぎゅっと握りこんでいた。
「むしろ、それで良いです。皆さん、全力で緊張してください」
「は……?」
異質な発言に、その場の空気が塗り替えられた。
「まず自分が緊張していると自覚すること。力を入れるべきところで、意識的に緊張させる。そうすればメリハリがつき、いらないところでの力みが抜けます。今週も頑張ってください。楽しんでいきましょう」
「はい!」
全員が大きく喉を震わせて応えた。ナギサの腹には、まるで大きな石が詰まっているような、そんな重苦しくも熱い感覚があった。
今日はシャニ子の蹄鉄を新しいものに交換する日だ。レース前には欠かせない重要な作業である。
「全力で緊張、かぁ」
ナギサとシャニ子は、洗い場で装蹄師が来るのを待っていた。ここ最近、蹄鉄がダメになるペースが幾分早くなっている。調教もレースも今のところ問題はないのだが、ナギサは少し気がかりだった。
「あ、井上さん」
「よお。荒川
言葉尻が伸びるような独特のイントネーション。50代の井上さんは、鹿児島生まれの薩摩弁使いだった。
井上さんは、この道30年のベテランだ。彼は機械を使わず、自らの指先の感覚だけで、馬の蹄が発する微かな熱や歪みを察知する。
「井上さん。シャニ子の蹄、最近どうですか?」
ナギサが尋ねると、井上さんは一度、深く刻まれた眉間の皺を動かして、シャニ子の蹄を愛おしそうに撫でた。
「……こん子は、桜花賞の速い馬場より、泥ん中の方が喜ぶかもしれんなあ。血が騒いどる。鉄を打つたびに、こっちの腕にまで『走らせろ』っちゅう振動が伝わってきよるわ」
いくらか会話を交わした後、井上さんは早速シャニ子の右前脚を専用の台に載せ、板状の器具で蹄を磨き始めた。
「先週、高橋厩舎に行た後輩が、蹴られたんじゃ。肋ん骨にヒビが入ったげな」
「うわ、大変ですね」
「じゃっどん、仕事じゃけ。……こん子は桜花賞、手応えどげん?」
何気なく聞かれた質問に、ナギサは答えに詰まった。井上さんは質問をする前と変わらず、シャニ子の脚元に視線を集中させて作業している。
「シャニ子は、やれる子です」
ナギサの答えの直後に、ぶぅぅぅ……とかき消すような空気の抜ける音が聞こえた。シャニ子は自分の尻から出た音にビックリしたのか、一瞬首を上に振った。
「この屁ったれは、心配いらんてよ」
「ええ……?」
◇
4月の関西は、カラッと乾燥した晴れの日が続いていた。週末の天気も晴れと予報され、誰もが良馬場での開催を信じて疑わなかった。
しかし、予報は絶対ではない。
レース当日。阪神競馬場には、夜中から朝にかけてバケツをひっくり返したような大雨が降り注いだ。
その後は嘘のように晴れ渡り、レース直前まで芝・ダート共に稍重発表だったものの、なんとか「良」との発表がなされた。
だが、その「良」は表面上の指標に過ぎなかった。
馬場の深層部にはたっぷりと水分が残り、脚を踏み入れるたびに芝がめくれ、泥が跳ね上がる。
パンパンの良馬場を望んでいた、良血のエリートたちが最も嫌う、不浄な舞台が整いつつあった。
阪神競馬場のパドック。
瑞原オーナーは、指定席から一歩も動かず、双眼鏡を握りしめていた。
桜花賞の1番人気は、阪神ジュベナイルフィリーズを快勝したヴィットーリア。単勝2.7倍。
2番人気は、牡馬混合のきさらぎ賞でレコードを叩き出したルミエールドレが3.1倍。
3番人気に、ファンタジーステークス1着から怪我の休養を経て、チューリップ賞で完全復活を遂げたグランフルールが5.4倍と続く。
そして我らがシャイニースターズは、5番人気だった。
実は、この雨が降ったことで人気が大きく上がった形だ。G1・3着、重賞・1着の実績があるのになぜこんなに評価が低いのかと、ナギサは朝から不満げだったが、シャニ子を引く今の時点では、やや満足気味な表情を浮かべていた。
シャニ子の父ブリザードワールドは、重馬場や洋芝への高い適性を持っていた。4歳の札幌記念では、その年の豪州G1コックスプレートを4馬身差で勝利することとなる相手に、大雨の中、アタマ差の死闘を演じたことがある。
どうやらそこから、「シャイニースターズは血統的に重馬場がいけるかも」という情報が瞬く間に拡散されたのだ。
阪神競馬場のパドックは、G1デーということもあって人がごった返している。その中心を、18頭の乙女たちが周回していた。
キビキビとした歩様、年明け一発目の競馬だというのに、ひときわ筋肉量が際立つ馬体。うっとりするような仕上がりの尾花栗毛の馬、それが1番人気のヴィットーリアだった。
滝調教師が自ら馬体に触れ、一分の隙もないことを確認している。その隣には小野寺代表が立ち、まるで勝利を確信したような笑みを浮かべていた。
一方でシャニ子は、ナギサが緊張気味に手綱を引くのもなんのその、柵の手前にある花壇――ハンギングバスケット――から花をもしゃもしゃと食べようとしていた。
「せっかく化粧ちゃんとしたのに、落ちちゃう……!」
ナギサは顔に汗を滲ませていた。厩舎にとっても、自分にとっても初めてのクラシック参戦。気合いは相当に入っている。
ちらりと電光掲示板を見る。オッズに大きな変動はない。
シャニ子の弱点だった馬体のバランスの悪さも、年明けから改善されてきた。一方で歩様は劇的な改善とはならず、相変わらず小学生が石ころを蹴りながら歩くような、脚を主導に突っつくような歩き方だった。
あ、カーサスアルペジオの人気が上がってる、とナギサが見ていると、ふと後ろから強烈な視線を感じた。
「……」
(なんだ?)
そそくさと前を向いた。後ろの馬の担当者が、自分を睨みつけていたのだ。
5枠10番、ライガーテイル。
ライガーテイルを引くのは、高橋厩舎の精鋭スタッフだった。彼は自分たちの完璧な管理の下で育てられた馬が、シャニ子のような「雑草」にオッズで並ばれかけていることが我慢ならなかったのだ。
ナギサは心臓が跳ね上がったが、すぐに神里の「全力で緊張しろ」という言葉を思い出し、不敵に笑い返した。
「こわいね」
ナギサはいつものように、栗毛の相棒に話しかけた。そこでふと気づく。緊張がほぐれている。2度目のG1、初めてのクラシック。本来であれば足がすくむ状況だが、今はその熱を楽しめていた。
「とまーれー」
職員の声が響き、各馬がぴたっと止まる。検量室の方から、瑞原オーナーがデザインした勝負服を纏った松本一也たちが走り寄ってきた。
松本と近本がすれ違う。
近本は松本を一瞥もせず、まるでそこに障害物があるかのように通り過ぎた。松本は苦笑いしながらも、その視線の冷たさに、逆に闘志を燃やしていた。
◇
パドックから本馬場まで向かう間、ナギサと松本は必要最低限の言葉しか交わさなかった。
「そういえば、オーナーは来てませんね」
「プロ野球、開幕したからなあ。横浜、いま割と調子いいんだっけ?」
「さあ……」
ナギサは野球にはあまり興味がなかった。
次第に歓声が大きく聞こえてくる。2人と1頭は本馬場に出た。シャニ子もこの大歓声に反応し、緊張しているようだった。
ナギサはシャニ子の首筋を優しくパンパンと叩き、金具を外した。
「マツさん、人馬無事に、お願いします」
「あい」
簡素な返事とは対照的に、シャニ子は悠然と栗毛の馬体を弾ませてターフを駆け出していった。
中央競馬では、毎年7000頭程のサラブレッドが生産される。そのひと握りの中に、シャニ子がいる。7000頭のうちの18頭。濁流の中に手を突っ込み、砂金を掴むような確率だ。
(数万人の観衆よ、シャニ子の馬券を買わなかったこと、後悔するよ)
ナギサは少しだけ歯を見せながら、ニヤッとした。
◇
同時刻、東京都文京区、東京ドーム。
瑞原隆行は、バッターボックスの中でチラチラとバックスクリーンの時計を見ていた。
メインレース発走は15時40分。アナログ時計の針は、ちょうど39分を回ったところだ。
試合は同点で迎えた5回、一死三塁のチャンス。
今季、瑞原は驚異的な集中力を見せていた。「俺が頑張れば、シャニ子にも良い影響がある」と信じ、開幕から打率4割をキープしている。
(シャニ子、頑張れよ)
瑞原は祈った。祈りはタダだ。
「ストライク、ツー!」
いけない、考え事をしていた。瑞原は一旦バッターボックスから離れて深呼吸した。そしてゆったりとバットを構えた。
投じられたラストボールは、アウトローの難しいカットボール。
「!」
読み通りだ。瑞原はしっかり左足を外へ踏み込み、ドンピシャのタイミングで振り抜いた。
打球は高く上がり、天井にまで直撃しそうな勢いで、ライト方向へぐんぐんと伸びていく。
◇
『スタートしました! ヴィットーリアも好スタートですが無理には出しません、鞍上近本……』
18頭が一斉に飛び出した。松本一也は手綱をしごきながら、シャニ子を促した。狙いは前目につけての粘り込みだ。
しかし、スタートして100メートルの段階で異変が起きた。
『先頭2番のプロミネンスライン、位置を下げました!』
先頭を走っていたプロミネンスラインが、大きく斜行しながらズルズルと減速していく。
「!」
シャニ子の前には、もう誰もいなかった。単独の1番手だ。
後方でヴィットーリアに跨る近本は、冷徹にその光景を分析していた。
(プロミネンスが下がったか。……松本、どうする。引くのか、それとも行くのか)
近本はヴィットーリアをなだめ、馬群のインコースでじっと息を潜める。泥を被るリスクはあるが、最短距離を通るという絶対的な自信があった。
シャニ子はこれまで、併せ馬での調教を入念に重ね、他馬と走ることを覚えさせてきたはずだった。だが、今、ヤンチャ娘の頑固なところが顔を出した。
「おいおいおい、行くなって! ちょ、ちょちょ!」
『代わって9番シャイニースターズ、これは掛かっているか! ペースを上げていきます!』
手綱を引いても、シャニ子は減速する気配がない。自らペースを作りに行ってしまっている。だが、松本は観念した。今日は雨上がりのタフな馬場。先行策の勝率が高いはずだ。
「行くぞ、もう!」
『松本がグイグイ手綱を押している! 後方とは大きく差を広げた! これは完全な一人旅です!』
シャニ子は、泥まみれになりながら内ラチ沿いを疾走する。
3コーナーから4コーナー。
後方の近本は、シャニ子が刻むラップを耳と体感で計測していた。
(1000メートル、58秒フラット……。この重馬場でそのタイムは心中だな。だが、あの栗毛、まだバテていない。……松本め、博打を打ちやがったか)
阪神1600メートル。いつもの瞬発力勝負とは違う、中距離のようなタフな展開にシャニ子が塗り替えてしまった。
『さあ! 後ろは届くのか! 残り300メートル! ブリザードワールド産駒シャイニースターズの逃げ!』
まだ先頭だ。いける、と松本が確信したとき、左の方に凄まじい影が映った。
音もなく、風のように。
(……終わりだ、松本)
「は?」
そんなことが有り得るのか。いつから、いったいどこから現れたのか。
松本は一瞬のうちに脳裏に疑問が溢れ出した。
そこには、昨年のリーディングジョッキー・近本がいた。
『ヴィットーリアだ! ヴィットーリアーーッ!! 大外一気突き抜けた! 差し切り勝ち、凄い脚ッ!!』
ゴール板まであと30メートル。並ぶ間もなく交わされた。
どうして。
どうして。
どうして。
確かにアクシデントはあった。だが、馬体をぶつけられた、
真っ向勝負の形で、負けたのだ。
松本の心に、ヒビが入る音がした。
「はぁ、はぁ、はぁ、まじかよ……。ああっ! クソッ!」
頭では理解できない理不尽さ。
松本の咆哮が、虚しく空へと溶けていく。
シャニ子は、2着という結果に終わった。
◇
瑞原はベンチ裏に下がり、シャニ子の結果を確認した。
先ほど自分が放った打球は犠牲フライとなったが、若い頃ならホームランか、フェンス直撃にしていたであろう感触だった。
「2着……」
瑞原は、嬉しいような悔しいような、複雑な気分だった。割合としては悔しさが大きい。
神里守は、検量室で松本を迎えた。
松本は泥だらけの顔で、言葉もなく首を振った。
「神里……。すまん、俺の判断ミスだ。俺が、おれが……」
「いえ、松本さん。あの状況で逃げを選択したのは英断でした。……ただ、ヴィットーリアが、我々の想定のさらに二段階上にいただけです」
神里は、初めて悔しそうに唇を噛んだ。
そこへ、滝調教師と近本、そして小野寺代表が通りかかった。
「お疲れ様。いい逃げだったよ、松本くん」
滝は、勝者の余裕をたっぷりと含んだ声で言った。
「神里くん。君のデータには、ヴィットーリアの『格』という項目が抜けていたようだね。……次はオークスかな? 2400メートルでは、もっと残酷な差を見せてあげますよ」
エリートたちの冷笑。
結局、その日の瑞原のチームもその裏に逆転され、敗北した。
瑞原もシャニ子も、首位攻防の今日、1着をとることは叶わなかった。
だが、両者のシーズンは、まだ始まったばかりだ。
瑞原がスマホをポケットにしまおうとしたとき、神里守から短いメッセージが届いた。
『お疲れ様です。次戦、優駿牝馬に向けて、作戦のご相談があります』
瑞原の喉が、無意識に鳴った。敗北の味を噛み締める間もなく、次なる「下克上」の火種が、すでに美浦でくすぶり始めていた。
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作者より
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