春分:迷いの線(Osterfeuer)
春分の夕方は、光と影が同じ速さで入れ替わる。
昼に頭を下げた角度だけが、首の裏に残っていた。
靴底だけが、まだ硬い。
田辺沙耶は黒いコートの襟を立て、日和通りへ入った。
今日の用事は一つ。
封筒を一枚、買う。
宛名だけ書いて、あとは白のままでもいいと決めてきた。
決めないと、言葉が増えて、どれも嘘に見える。
こよみ堂の灯りは、小さくても逃げない。
戸を押すと、入口の鈴が一つ鳴る。
紙の匂いがして、沙耶の肩が少し落ちた。
床板の軋みが軽く、歩幅が自然と小さくなる。
棚の封筒は白が揃い、角がきっちりしている。
白はきれいで、きれいすぎると触れにくい。
沙耶は厚すぎない封筒を一つ抜き、指で口をなぞった。
レジへ向かう途中、試し書き台に薄い紙が一枚はみ出していた。
トレーシングペーパーだ。
透けた向こうに、細い字がある。
灯りがあるなら、迷わないで
沙耶はその行だけを見て、頷く代わりに息を吐いた。
迷いをやめられない日がある。
でも、迷っている間に寄れる灯りはあっていい。
店主は顔を上げず、紙袋を広げた。
「封は、急がないほうがいいです。」
沙耶は「はい」とだけ返し、釣り銭トレーの硬貨を受け取る。
外へ出ると、風が少しだけ甘い。
春分は、戻るでも進むでもなく、境目だけがある。
沙耶は自販機で温かい缶を買い、手の内側を温めた。
温めると、文字が丸くなる。
部屋に戻り、机を拭いて封筒を置く。
宛名シールは使わない。
ペンで、相手の名前だけを大きく書く。
大きく書くと、送れなくても嘘になりにくい。
沙耶は封筒をクリアファイルに挟み、鞄の内ポケットへ入れた。
送るかどうかは、明日の沙耶に預ける。
今日の沙耶は、灯りの方へ一度寄った。
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