ゆめうつ
春間 来善(はるま きよし)
第1話 夢鬱≪ゆめうつ≫
明晰夢。夢を見ている最中、自身が夢を見ていることを自覚し、自由に行動できる状態のこと。
寝ぼけた目をこすり、うつ伏せのまま携帯を確認する。時刻は10時半を回っていた。今からではどう頑張っても2限には間に合わない。軽いため息をつき再び目を瞑る。
大学2年生、情報学部に通う菅井 汀(すがい なぎさ)は11月に入ってから何かと理由をつけて大学を休むことが多くなった。共働きの両親に対する申し訳なさとは裏腹に、学校をさぼることへの罪悪感は日を増すごとに薄れていた。汀の通う大学は決してレベルは低くはないが、かといって高くもない、世にいう3流大学だった。本当はもっとレベルの高い大学を目指していた。浪人の選択肢も彼にはあったが、受験が終わった当時は大学を頑張り良い就職先に就けばその必要はないと考えた。今思えばそれが間違いだったのかもしれない。期待と妥協を胸に入学したそこは、彼にとっては輝かしいものではなかった。周囲の人間は何か大きな目標があるわけではなく、ただ何となく大学に通っているだけ。遊ぶために大学に進学したような人間ばかりであった。初めこそ仲良くしようと心がけていたが出席を他人に任せ、過去問でテストを乗り越える。そんな周囲に対して、汀は日に日に不信感を募らせていた。
俺はこんな奴らとは違う。本当はもっとレベルの高い大学に行けたんだ。学力だってこんなやつらよりも高い。こんな奴らとつるんでいると俺は腐ってしまう。俺は俺自身の力だけでどうにかする。俺ならそれができる。
次第に汀は大学で孤立するようになった。
しかし、現実は残酷だ。1年の頃はどうにか高い成績を維持できていたものの、2年になってから成績は下がり、単位も落としてしまう始末だった。それに対し、周囲の人間関係を形成できた者達は、過去問を使ったり、友人間で協力して課題を終わらせたりして柔軟に対応し、高いGPAを維持している。そんな現実に汀は怒りを覚えた。勉強不足な自分自身にではなく、柔軟な周りの人間に怒りの矛先は向いていた。汀の目には彼らは卑怯者に見えていた。
高校時代の友人が大学で頑張っている話を聞くたびに自分がなんのために頑張っているのか分からなくなり、気が付けば大学に行く足が重くなり、次第に大学を休むようになっていた。
空腹を感じベッドから起き上がる。時刻は13時を回っていた。この時間では3限にも間に合いそうにない。キッチンでカップラーメンにお湯を入れる。
『お値段23,900円が今から本日中にお電話をいただけるとなんと~』
通販番組の騒がしい声が誰もいないリビングに鳴り響いている。母親も今日はパートで家にいないようだ。都内の戸建てに住み何不自由ない生活を送っている汀の目に生気は感じ取れなかった。
カップラーメンを完食し、特に目的もなく漠然と携帯を眺めている。時刻は14時になろうとしていた。今からなら何とか4限の授業には間に合いそうだ。重たい腰を上げ、放置していたカップラーメンのゴミを処理し着替え始める。家を出るころには時刻は14時10分を過ぎていた。実家から大学までは1時間ほどかかる。イヤホンで彼はエレクトロスイングを聴きながら大学に向かう。秋の冷たい風が汀の目にかかった前髪を揺らしている。イヤホンから流れる電子音が汀の重い足とは裏腹に軽やかに耳の中を跳ねている。
15時45分、講義室の一番後ろで携帯をいじりながら講義を受けていた。もう何もかもがどうでもいい。やる気がなく、ただ時間が過ぎるのを待っていた。携帯の画面には芸能人の不祥事がニュース記事に大きく書かれていた。机の上には画面が真っ暗なノートパソコンに生気のない汀の顔が反射している。
終業のチャイムと同時に荷物をまとめる。こんなところに1秒でも長くいたくなかった彼はそそくさと講義室を後にする。廊下では5人で横並びの連中がそこを占領していた。汀は「ンンッ」とわざとらしく咳払いをした。それに気が付いた集団は道の端に寄る。横を通る際に彼らの一人と目が合った。ギロリと睨む冷たいその目に思わず声が出そうになる。廊下を占拠してるのそっちが悪いだろうが。怒りを収めるためにイヤホンで音楽を流す。大好きな電子音が爆音で流れ、思わず速足になる。
俺は悪くない。
夕食を牛丼チェーン店で済まし、実家と大学のちょうど中間にあるバイト先のドラッグストアに汀は来ていた。時刻は18時45分、始業まではまだ時間があるが早く着く分には問題無いだろう。
「おはようございます」
レジ打ちをしている社員さんに挨拶をして裏の事務所に入る。事務所では同じ時間帯の木野(きの)さんが着替えを済まして携帯をいじっていた。
「おはようございます」
「あ、菅井君。おつかれさま。」
木野さんは50代でいつもニコニコしている、気さくなパートのおばちゃんだ。
「だいぶ寒くなってきましたね」
「ちょっと前まで暑かったのにねぇ。冬服出さないと、本当嫌になっちゃう」
「ハハハ、大変ですね」
たわいもない話をしながら更衣室に入り着替えを済ませる。時刻は18時50分を過ぎていた。更衣室を出るのとほぼ同時にバンっと勢いよく事務所の扉が開かれる。
「危なーい、セーフ。木野さん!おはようございます!!」
元気いっぱいな彼女の声に思わず笑みがこぼれる。
「紗枝ちゃん、ほら急いで、急いで!早く着替えて。また店長に怒られちゃうわよ。」
「そうだった、失礼します!あ、汀君もおはよう。」
「うん、おはよう」
更衣室に勢いよく飛び込む彼女は太田紗枝(おおたさえ)、家から近いという理由でアルバイトに入った汀と同い年の女の子。都内の有名大学建築学部に通う彼女を汀は気に入っていた。
彼女との会話には生産性がある。難しい話をしても理解を示してくれる。彼女は周囲の人間とは違う。自分と同じレベルで話ができる唯一の存在。汀にとって唯一の異性の友人であった。向こうがその気なら付き合ってあげてもいいだろう。本気でそう考えていた。
制服への着替えを済まし、退勤の人と交代で売り場へ向かい今日の業務を確認する。
汀はこのバイト先が気に入っていた。4時間の勤務は今の汀にとって唯一、人並みでいられる場であった。
街灯の明かりで照らされた見慣れた夜道をトボトボと歩く。気温は10度を下回っていた。乾燥した空気が寒さをより加速させているように感じた。自宅に着いたのは23時半過ぎだった。
「明日、関東地方は広範囲で強い雨に~」
リビングからテレビの音が漏れている。
「ただいま」
「おう、風呂沸いてるぞ。」
父親がソファに腰かけテレビを見ながら発した声からは疲れが感じ取れた。母親は無言でテレビを見続けている。
「わかった。入って来る」
湯船につかると自分が何なのかわからなくなる。今自分は何のために頑張っているのだろうか、これからどこに向かうのだろうか。真っ白な浴室の天井をただ漠然と見つめていると答えのない疑問ばかりが頭を駆け巡る。どうしてみんな頑張れるのだろうか。
リビングに戻るとテレビは消えていた。
「なっちゃん、今日は大学行ったの?」
母親の心配そうな声を聞くのはこれで何度目だろうか。
「行ったよ。朝は起きれなかったけど。」
「お前なぁ。このままだと卒業できないんじゃないか?留年はさせないぞ。大学で何か辛いことでもあるのか。」
「大丈夫だよ。今日は選択科目だけだったから、明日の1限は必修だしちゃんと行くよ。」
もう何度も聞いた父親の話を遮る。小言を言われ続けるのが嫌で水を飲み自室へと向かう。このままではだめなことはわかっている。でも、こんな無駄でしかない大学生活、何をモチベーションにすればいいのだろうか。頑張る理由を提供しない大学側に問題があるのではないか。汀はベッドに横たわり現実を忘れ逃げるように目を瞑る。
『~♫』
朝7時アラームの音で目を覚ます。1限は8時35分からだ。眠たい体に鞭を打ち着替えを済ます。リビングでは仕事に向かう準備を済ませた父親と母親がコーヒーを飲んでいる。
「お、今日はちゃんと起きれたな。」
「おはよう。なっちゃん。」
テーブルの上には綺麗に焼かれた食パンとヨーグルトが置かれている。
「これ、なっちゃんの朝ごはん」
「ありがと」
食パンをほおばりながらぼんやりと今日の予定を考える。大学が3限まで、今日はバイトがないから帰ったらすぐ寝よう。食パンのパンくずが着替えたズボンにぼろぼろと落ち床のフローリングにこぼれている。
窓を打ち付ける水の音が聞こえる。今日の東京は雨のようだ。
2月。吐く息が白く濁る。必修の単位はギリギリだった。あと一回でも休めば落単になる科目が2つもあった。選択科目はいくつか落としてしまったが、進級にはまぁ、問題無い。
バイト先に向かう電車の中で汀は成績を見ながらそんなことを考えていた。
3年生。1、2年に比べれば授業数も減り楽ができる。単位が足りているのなら楽ができる…
両手で吊革につかまりながら汀は電車に揺られる。マフラーのチクチクとした感覚が首を刺激する。イヤホンから流れる洋楽の歌詞の意味を汀は知らない。時刻は18時半を回っていた。
バイト先には珍しく紗枝が汀より早く着替えを済ませていて、木野さんと話している。
「おはようございます。」
マフラーを外しながら二人に挨拶を交わす。
「汀君!おはよーー」
「菅井君、おはよう。聞いて、紗枝ちゃん本ノ佐工務店のインターン行くらしいわよ」
本ノ佐工務店。建築業界に詳しくない汀ですら名前を聞いたことのある有名企業だ。
「ちょっと、木野さん。私自身の口から言いたかったー」
「あら、ごめんなさい。私嬉しくなっちゃって。」
手を合わせ申し訳なさそうな顔をする木野さんに対して、ぷくっと紗枝は口を膨らませた。
「本ノ佐工務店なんて有名な企業じゃん。太田さん凄いね。」
制服を取り出し、更衣室に向かう。
「えへへ、ありがとう」
「本当に凄いわよねぇ、ちなみに菅井君はインターンどこに行くの?」
「え?」
足が止まる。
「ちょっと木野さん!私が早いだけでみんながみんな行くわけじゃないですから。」
「あら、そうなの。ごめんなさい、てっきりもうみんな行くものだと思って。ほら私の娘は専門学校で、大学のそういうのよくわからなくてね。」
「ハハハ」
自分でも動揺しているのがわかるほど乾いた笑いに驚いた。大丈夫だ。太田さんが早すぎるだけだ。普通はまだ就活なんかしていない。
汀はバイト中、自分は大丈夫だとずっと言い聞かせていた。品出し中、何度も手が滑り商品を落としてしまった。汀の胸にある不快感の正体が何なのか今の彼には分からなかった。
大学の大講義室の一番前の席に座り黒板を見つめる。誰もいない講義室は不気味なほどに無音だった。汀はただ茫然と席に座っている。机の上には教科書が3冊ほど重ねて置かれている。
誰もいない講義室?
違和感を覚える。どうして俺は今一番前の席に座っているんだ。どうして誰もいないんだ。そもそも俺はどうやってここまで来たんだ。何が何だかわからず混乱している。落ち着け、いったん冷静になろう。深呼吸をし、気分を落ち着かせる。改めて今の状況を俯瞰すると脳にある答えが浮かび上がった。
「今俺は夢の中にいる。」
驚きは無かった。むしろ夢なら納得いくとさえ思った。この時汀は初めて夢を自覚した。
試しに自分の頬をつねってみる。痛みは感じる。頬だけではない。お尻に伝わる大学の潰れたクッション付きの椅子の感覚、冷房の良く効いた講義室の涼しさ、すべてを感じることができる。しかし、それらにも違和感がある。五感で感じているのではなく脳がその処理を行っているだけのような、体は何も感じてないのに脳だけが信号を送っているような。現実とは明らかに違う感覚。楽しい。もっといろいろ試したい。
汀が立ち上がった瞬間だった。
自室のベッドから見る景色は見慣れた自室そのものだった。寝汗でべとべととした体を起こしシャワーに向かう。シャワーを浴びながら汀は考えていた。あんな夢、初めて見た。汀は謎の全能感にとりつかれていた。
コートを着こなし吊革に掴まる。汀は普段乗っているのとは逆方向の電車に乗り集合場所に向かっていた。待ち合わせの時間は18時だが今からではギリギリになってしまいそうだ。
走って改札を抜けた先、大勢の人が行きかう駅の東口、集合場所にはピンク色の派手な髪色をした彼が立っていた。角野 啓介(すみの けいすけ)は菅井の高校からの親友で現在は都内の1流の理系大学で物理学を専攻している。彼は汀が現状、唯一気兼ねなく話せる高校時代の友人である。
「ごめん少し遅れちゃった。お店混んでないかな?」
「全然余裕だから、落ち着けって」
2人は居酒屋で近況を報告しあう仲だった。普段一切お酒を飲まない汀も啓介と会う日だけはお酒を解禁する。啓介と飲むお酒は楽しく心地の良いものだった。
「それより、どうなの?ギリギリ大学生の汀さん。」
「ギリギリ大学生じゃねえよ。ま、普通に3年にはなれそうだわ。」
「お、良かったな!ダメだったらなんて声かけようか気が気じゃなかったよ。じゃあ今日はお祝いでたくさん飲まないとな!!!」
「何の心配してんだよ。」
昔と変わらず楽しそうに笑う啓介を見るとなんだか高校時代に戻ったような感覚に陥った。
時刻は20時を過ぎ、お互い気持ちよく酔いが回っている。個人経営のこぢんまりとした居酒屋のテーブル席には何も乗っていないお皿と少しのお酒が残っているジョッキが置かれている。
「そういえば、高校の頃の新島って覚えてるか?あのー、隣のクラスだった奴」
「あー啓介と同じバスケ部だった奴だろ?そんなやつもいたな、そいつがどうかしたのか。」
啓介は帰宅部だった汀と違い高校時代バスケ部で他クラスの友人も多かった。今でも高校時代の友人と頻繁に会っているらしい。
「実はこの前、新島のやつから急に連絡あってさ、会わないかって。んで、会ったらもう衝撃よ。」
「何々?なんかあったの?」
「金貸してくれって。もうビックリしちゃってさ。」
「うわ、まじかよ、ドン引きだわ。え、で、貸したの?」
「まさか、貸さないよ。特別仲良かったわけでもないし。」
「まぁ、そうだよな。急に金貸せとかそいつやべぇな。」
「でさ、同じバスケ部のやつに聞いたら、何かパチンコとかハマって親に黙って奨学金にまで手出しちゃったらしくて、相当ヤバイらしい。いろんな人に金貸して~って。」
「最低だな、終わってるな、ゴミ野郎だよ、そんなやつ。」
お互い酒も回り言葉の汚さが増していく。
「ゴミ野郎かも知んねぇけど、いざ知り合いがそんな状態になってるの目の当たりにしたら悲しくなるぜ。同じ限界大学生の汀さんも変なのにハマって急に金貸せとか言うなよ。」
啓介のいじりに汀の眉がピクッと反応する。
「いや、別に俺はそいつと違って自業自得なわけじゃなくて、大学のレベルが低くて俺のモチベになってないだけだから。限界大学生とはちょっと違うかな。その気になれば余裕だし。」
「何ムキになってんだよ。実際3年にはギリギリなれるぐらいなくせに~。」
「いや、でも3年になれてるからね、別にそんな言われるほどじゃないでしょ。」
お酒が入っているせいか汀は啓介のいじりを聞き流すことができず逐一反論をしてしまう。
「ハッ、分かった分かった。悪かったよ。」
見かねたのか啓介は呆れたように鼻で笑った。汀はそれが気にいらなかった。
「じゃあよ、もしも啓介の言う限界大学生の俺が金貸してくれって言ったらどうすんだよ。」
「え?うーん。」
啓介はその場で数秒黙り込んだ。
「貸す、かなぁ。」
返ってきた答えは意外なものだった。てっきり、貸さないと言われるものだと思っていた。
「まぁ、理由次第で貸すってかあげるかな。理由次第で縁切るかもしれないけど。」
「いや、あげるくらいなら何も渡さずに縁切ればいいじゃん。啓介ってバカだな。」
「いや、なんていうのかな、やっぱ汀とか高校時代からちゃんと仲良いやつらだったらさ、貸したくなるじゃん。友情的な。」
義理堅い理由に思わず啓介を見直してしまう。
「それにさ、怒らずに聞いてくれよ。正直、汀ってさ、何も渡さずに縁切ると逆恨みしそうで怖いじゃん。お前そういう被害者ぶるところあるし。」
「なんだと!もう怒ったわ。マジ意味わからんわ。啓介のそういうところマジで直した方がいいぞ。」
「ちょ、怒んなよ~冗談じゃん、冗談。」
啓介は焦ったように手を合わしてへらへらしている。まぁ、もともとこういうところのあるやつだ。高校時代からの付き合いだから俺は良く知っている。
「はいはい、許すけど、お前のその感じ、大学の友達の前で出すなよ。友達無くすぞ。」
「いや…あー、そうだな。気を付けるわ」
何かを言いかけて啓介はそれを押し殺すようにグラスに残ったお酒を飲みこんだ。
お店を後にし、帰路に就くころには時刻は23時を過ぎようとしていた。
「啓介、この後カラオケとかいかね?」
「わり、俺明日予定あんだわ。」
「んだよ~、ノリ悪いな。」
アルコールで赤くなった顔を見る。啓介は退屈そうに携帯で何か確認している様子だった。汀の中を、この前のバイトの時と同じ不快感がじわじわと侵食し出した。
「なぁ、啓介?予定って、もしかしてインターンとか?」
それは恐る恐るだった。なぜだかわからないが、汀はそうであってほしくないと強く願っていた。
「え?いや違うよ。普通に大学の友達と遊ぶ予定。てかインターンって。知り合いに行ってるやつは数人いるけど、俺含めほとんどはまだ行かないんじゃねえか?」
「だ、だよなぁ!良かった~安心したわぁ」
安堵し、声が思わず大きくなる。汀の中を侵食していた不快感は小さくなっていた。
啓介と飲んでいた個人経営の居酒屋。しかしそこに人の姿は見えない。体は自由に動く。昨日と同じ、明晰夢だ。汀の中にふつふつと全能感が湧き上がる。
ここは俺の夢の中
なら、何をしても許される。
俺は、この世界の神なんだ。
机の上に置かれたジョッキを手に取り、壁めがけて投げつける。『ガシャンッ』という音と共にグラスが割れる。
「はぁ…はぁ…スゲェ…」
汀の全身を高揚感が廻っていた。現実では絶対に行うことができないことをこの世界なら行える。汀は再びグラスを手に取り、振り上げる。
「何が!限界大学生だ!何も知らないくせに!!!!!」
『ガシャンッ』
啓介が座っていた席にジョッキを振り下ろす。続けて机の上の皿を投げつける。
「なんだよ、被害者ぶるって!!!!」
『ッガッシャ―ン』
厨房に並んでいるグラスを片っ端から投げつける。
「うわぁぁぁぁあぁぁぁぁあ!!!!!!!」
『ガシャガシャガシャーン』
気が付くと居酒屋の中は割れたジョッキや皿でめちゃくちゃになっていた。その空間を見て汀はある種の達成感で満たされていた。
「はぁ、はぁ、はぁ、」
汀はきれいに残っている最後のジョッキを手に取り振り上げる。
『ガッシャ―ン』
目を覚ますと自宅のベッドの上だった。昨日はたくさん飲みすぎたせいで帰ってきてからの記憶がない。だが汀にはあの夢の内容と、あの全能感をハッキリと覚えていた。
この日から汀は毎日明晰夢を見るようになった。夢の中は決まって汀1人だけ。いろいろ試してみたができることは現実の範囲内だけ。空は飛べないし、ワープをするといった現実離れしたことはできず、走れば息は切れる。夢は寝る前に考えていた場所で始まるが、現実で行ったことのある場所しか行くことができない。行ったことの無い場所を考えてもただのハリボテで四角い箱の中に、その場所の絵が描かれているだけのような何もない空間が広がるだけだった。
そんな夢の世界を汀は大きな声を出したり、暴れて物を破壊したりしてストレス発散に使っていた。
満開の桜を電車の窓から眺めていた。春休みはあっという間に終わってしまった。思い返しても家でゴロゴロしているかバイトに行っているか、啓介と飲んだ記憶しかない。でも十分だ。何もしていないわけじゃないんだ。俺は十分一人前だ。汀の胸の中に募る謎の不快感を押さえつけるように自身に言い聞かせた。大学に向かう電車はいつも以上に長く感じた。
講義室の一番後ろの席で時間が過ぎるのを待っているだけ。去年と何ら変わらない。自身にそう言い聞かせ、2年生に囲まれながら汀は去年に落とした選択科目の講義を受けていた。誰も汀など見ていない。しかし、汀は後輩たちから変な目で見られているようで居心地が悪かった。
牛丼チェーンで夜ご飯を済まし、バイト先に向かう。就活でガクチカを聞かれたらバイトと答えられるほどには、頑張っている。そんなことを考えながら、いつものように事務所に行くと見たことない後ろ姿が紗枝と話している。
「あ、ほら篠原君。噂をすれば、彼が汀君」
彼女の元気な声にその男の子は振り向き目が合った。
「初めまして。一昨日からこのバイト先で働くことになった篠原修司です。」
篠原修司(しのはら しゅうじ)。大学1年生。背が低く、染めたであろう金髪に大きな目の童顔の彼は、汀にぺこりと頭を下げた。
「あ、ども。菅井汀です。」
頭を上げた彼の瞳は希望に満ち溢れる綺麗なものだった。汀はどこか見透かされるような気がして、咄嗟に彼から目をそらしてしまった。
「汀君も仲良くしてあげてね。じゃあ篠原君、今日はレジ打ちするけど、どう?緊張してる?」
「正直、心臓バクバクです。」
楽しそうな二人の姿を横目に更衣室に向かう。彼らの元気は今の汀にとって眩しすぎるものだった。
大学生になってからというもの、時が過ぎる速さは異常に感じる。外は16時半を回っているが太陽の位置はまだ高い。汀は大講義室の一番後ろで授業を受けていた。今日が前学期最後の授業、汀は去年と変わらずまちまちな大学生活を送っていた。唯一違っていたのは、汀が夢でストレス発散ができるおかげで大学への嫌悪感は薄れていたことだった。夢で大学への不満をぶつけるように暴れまわったおかげで大学への出席率は良く、今期はすべてギリギリで単位を修得することができた。後期からはゼミが始まる。汀の成績では希望するゼミに入れる可能性は絶望的だった。
講義が終わり帰りの支度をする。周りは夏休みを目前に控えた学生の活気に溢れた声で賑わっている。
「今度のBBQ楽しみだな。俺火つけるのマジ上手いから、ほぼプロよ、プロ」
「去年グッダグダだったやつが何言ってんだよ」
「俺明日バイトだわ~、明後日なら空いてるよ」
「逆に俺明後日バイトだわ。来週は?」
「海っていろいろ楽しいけど、靴に砂が入るのが全てを台無しにするよな」
「いや分かるよ、わかる。でもなんでデート前にそういう冷めること言うかな」
「来週5日間インターンなんだよね」
「えー!頑張って!私は8月の終わりだからまだまだ余裕はあるかな」
独りの汀は彼らの会話が煩わしくて、講義室から逃げ出した。廊下でも多くの学生が楽しそうに話している。イヤホンから流れる音楽でも周りのざわめきはかき消せなかった。外の太陽はまだ高い位置にいる。汀は逃げるようにバイト先へ足を運んだ。
事務所では紗枝と篠原が楽しそうに話している。
「修司君は夏休みどこか行くの?」
「そうですね、大学の友達と沖縄に行ってきます。」
「えー!沖縄ー!いいなぁ。お土産買ってきてね。」
くだらない。去年までは生産性のある話をしていた太田紗枝が今ではただのつまらないそこら中にいる凡人の一人へと変わり果てている。くだらない。
「紗枝先輩はどこか行かれるんですか?」
「私は就活だよぉ、インターン4社も行くんだよ」
しょうもない。くだらない。
「ええ、大変ですね」
「修司君も2年後は大変だよ。今のうちに好きなだけ遊びな」
うるさい。バイト前に雑談なんかするな。くだらない。
「うう…遊べるうちに遊んどきます。」
「今が一番自由なんだから。」
黙れよ。ずっとうるさい。くだらない。気持ち悪い。本当、黙れ。
「そういえば、菅井さんも紗枝先輩と同い年でしたよね。インターン行かれるんですか?」
「んぇ?」
自分に話題が飛んでくるとは思わず、変な声が出てしまう。
「あれ?菅井さんも3年生ですよね?インターン、どこか行くんですか?」
「あ、ああ、俺は今のところ特にそういうのは考えてないかな。」
何も知らない1年生が知ったような口を利くな。そこにいる女が早いだけで普通はまだ就活しなくても大丈夫なんだよ。
「え?汀君どこもインターン行かないの?…あ、もしかして大学院?」
驚いたような彼女の声には心配が混じっている気がした。
「なるほど、大学院ならインターン行く必要ないですもんね。」
篠原の無邪気そうな笑顔は汀の目には醜く歪んで見えた。
「いや、大学院は行かないかな。」
冗談じゃない。ただでさえ苦痛な学生生活をさらに2年延ばす?そんな選択するわけがないだろう。
「え?…だとしたら、大丈夫?」
紗枝の不思議そうな声が汀に突き刺さる。胸の中に常にあった不快感に飲み込まれそうになる。
「え?あ。いやさ、インターン行かないわけじゃないんだ。でもまだまだ先で9月の頭でさ、実感が無くて」
咄嗟に嘘をついてしまった。胸の不快感は拭うことができずむしろ大きくその存在感が強くなる。
「あ、ああ、そういう事ね。ビックリしちゃった。そっか、流石にそうだよね。」
太田のその言葉は汀の心を深くえぐった。大丈夫だ。俺は大丈夫だ。いざとなれば俺はどうにかなる。俺はやれるんだ。胸に募るこの不快感の正体が何なのか汀にはわからなかった。
今日の夢の世界はバイト先だった。戸棚に並んだ商品を投げ捨てて回る。とにかく暴れたかった。ストレスを発散したかった。ふと違和感を覚える。何か嫌な感覚が背後からする。振り返っても何もない。いや、遠くに何かがある、だがよく見えない。近づいてみようと歩みを進める。
目を覚ますとベッドの上だった。部屋にカーテンの隙間からの照り付けるような明かりが差し込んでいた。
駅には待ち合わせ時間の10分前に到着した。演説をしている団体を眺めながら啓介を待つ。携帯の画面には通知音と共に
〈少し遅れる〉
と啓介からの連絡があった。あたりは夕日のオレンジで染まっていた。汀は額に流れる汗を腕で拭った。
待ち合わせ時間に5分ほど遅れて、啓介はやってきた。髪は真っ黒に戻っていた。
「マジごめん。家出る直前に電話かかってきちゃって。」
「大丈夫だよ、行こうぜ」
何となく、電話の相手を聞く気にはなれなかった。
今日はどれだけお酒を飲んでもあまり気分よく酔えなかった。それがなぜなのかは自分でもわからなかった。啓介は深く頬杖をつき、梅酒の入ったロックグラスの氷をカランッと鳴らしながらどこかうつろな目をしている。
「何か彼女がさ~、就職したら同棲したいからお互い近い職場に勤めようっていうんだけど、彼女の目指してる会社と俺の目指してる会社の場所遠くてさ~。」
啓介はお酒が入って気持ちよさそうに語っている。汀は啓介に彼女がいることを今初めて知った。
「啓介、彼女いたんだ。もしかして遅刻原因の電話って彼女?」
「あれ?言ってなかったっけ?去年の夏にできてさ、同じバイトで知り合った子なんだけど。いい子でさ。そうか言ってなかったか。あ、遅刻の原因は違うぞ。なんかインターン応募した企業から急に電話あってさ。変更事項があったからって。メールでいいのによぉ。でも文句も言えないんだよなぁ、俺結構インターン落ちててようやく引っかかった企業だしさ、やっぱ物理専攻って将来性薄いのかな。あー、やめだやめ、ただでさえどうにかなりそうなのに今日くらいは考えたくねぇよ。」
「ハ、ハハハ」
それ以上汀は深く聞くことは無かった。自分が話すことのできない内容の話はしたくない。きっとそれだけのシンプルな理由だと思う。募る不快感を見ないように、自覚しないように自身を無理やり納得させた。
「ま、いろいろ大変だけどさ、やるしかないんだよな。あぁやんなるわ。汀も頑張れよ。」
啓介のその一言は汀にとっては慰めや激励ではなく、自身を理解されていないことの表れだった。
「っ…あぁ。お互い頑張ろうな」
お前に何がわかる。その言葉を汀は飲み込んだ。
「じゃあまた今度なぁ~」
大きく手を振る啓介とは裏腹に、汀は軽く手を上げるだけだった。汀の中にはある考えがよぎっていた。もしかしたら、俺は遅れているのかもしれない。嫌な不快感だけが心中で大きくなっていくのを汀は確かに感じ取った。この不快感の正体に汀は何となく気が付いていた。
その日の夢の中も昨日と同じ謎の違和感があった。悪寒がする。だがそれの正体がわからない。待ち合わせ場所だった誰もいない駅前の広場の壁には大量のチラシが貼られている。その内容は見ていて気分のいいものではなかった。
夏の暑さが嘘のように引き季節は秋になっていた。講義室では多くの学生が夏休みのインターンや面接の準備で話題が持ちきりになっている。一抹の不安が汀の中で湧き上がる。この日初めて彼は企業の冬季インターンに応募した。彼のパソコンの画面には一流企業の採用条件ページが映っていた。
エントリーシートをいくつ書いただろうか。何度SPIを受けなくてはいけないのだろうか。これで何社目だろうか。いつの間にか秋は終わりに差し掛かっていた。汀はこの1、2か月で多くの企業にインターンや選考に応募をし続けていた。アルバイト先では早期内定の面接を終えた太田の存在が汀の不快感の募りを加速させた。そのストレスを夢で発散していたが、完全に払拭することはできなかった。
「もう少し企業のレベルを落としたらどうだ」
父親のアドバイスを聞いたときはショックだった。まるで下に見られているかのようで、まるで認めてもらえなかったかのようで。なぜ俺の頑張りを理解してくれないのか。なぜこんなに頑張っているのに俺が遅れているのか。周りのダメな連中ばかりが上手くいき優秀なはずの俺が上手くいっていない。周りに置いて行かれたくないのに、追いつくことができない、縮むことの無い距離。どうしてみんな俺を見てくれないんだ。汀は不快感が募る一方だった。
悪寒を感じる。ずっと感じていたこの悪寒。その正体が何なのか汀は何となく理解した。
「この感じ、視線?」
誰もいない大型ショッピングモールの1階で大声を出し、ベンチやATMなど周りにある物を破壊し、ストレス発散をしていた。いつもと何ら変わらない明晰夢のはずだった。最近夢に感じていたあの違和感の正体が視線であると汀は感じ取ることができた。確かに見られている感覚がある。実際に現実で見つめられているような感覚。脳が信号を送っているのではない。その感覚はまさに現実のそれだった。
周囲を見渡し正体を探る。視界の端、ショッピングモールの吹き抜けの先、3階に白いワンピースを着た長い髪の女がガラス塀の手すりをつかんでこちらをじっと見つめていた。顔は良く見えないが確かにこちらを見ている。それは汀が苦手とする冷たい視線だった。誰かいる。夢の中に誰かがいる。今までこんなことは無かった。夢の中は自分だけの世界だった。あまりの恐ろしさから汀は動くことができない。冷や汗が流れる。彼女の吸い込まれるような目は瞬きをすることは無かった。
冬とは思えないほど寝汗をびっしょりとかいていた。彼女が何だったのか。それだけが汀の頭の中を支配した。彼にとっての唯一の安住の地であった夢が崩れていく嫌な予感を漠然と感じていた。
バイト先に行くと紗枝と木野さんが楽しそうに話している。
「お、おはようございます。」
汀の小さな声に紗枝は反応し嬉しそうな顔で汀に近づいてくる。
「ご報告です!私、太田紗枝は本ノ佐工務店の内定貰えました!!」
パチパチと木野さんが小さく拍手をしている。汀は急な報告に呆然として少し黙ってしまった。不思議そうにのぞき込む紗枝の顔を見て、汀はハッとする。
「そうなんだ、おめでとう。」
何とか捻りだしたその言葉に感情はこもっていなかった。
「えへへ、ありがとう。汀君も大変だと思うけど頑張ってね!」
その一言で汀の何かが音を立てて壊れるような気がした。
「…どういう意味だよ。」
汀の語気が強くなる。どうしてお前に頑張れなんて言われなくちゃならないんだ。俺は頑張ってるんだ。何も知らないくせに。ふざけるな。クソ、クソクソクソクソ
「え、あ、ごめん。いや、その、あんまり就活の話を汀君から聞かなかったから、その大変なのかなって思って。不快だったよね。ご、ごめん、なさい。」
彼女の焦った表情を見て我に返る。
「あ、いや、ごめん。ちょっといろいろ考え事してて。それでちょっとカッとなって。俺の方こそごめん。」
自分がしでかしてしまったという事だけはわかった。空気が重く更衣室に駆け込む。疲れているんだ。きっとそうだ。汀の手は小刻みに震えていた。
品出し時はモノを落とし、床清掃ではお客さんと接触してしまった。レジ打ちでもミスを犯してしまった。今日の汀はまさに絶不調だった。頭の中は焦りでいっぱいだった。それが夢の中のあの視線に対してなのか、現実世界の就活が上手くいかないことに対してなのか、汀にはわからなかった。
幼いころよく遊びに来た住宅街の真ん中にある公園。誰もいない公園。あるのは滑り台とブランコ、ベンチと公衆トイレのみ。いつもの夢ならそのはず。公園の外。30メートルほど離れたカラフルな柵の先、道路の真ん中に彼女は立っていた。昨日と同じでこちらをジッと見つめている。
「なんなんだよ!こっち見るなよ!」
昨日と変わらない。ただ見つめるだけ。目線を外しても、目を瞑っても彼女に見られているという嫌な感覚だけは現実のように残り続けた。夢じゃない。彼女の視線だけは夢じゃないんだ。
汀は彼女をユメノと名付けた。名前を付けることで自分が制御できる存在であると思い込みたかった。毎日夢に現れて何をするでもなくただこちらを見つめる。別に何ら害はない。確かにびっくりしたが夢の中だ。そういうこともあるかもしれない。汀はそう結論付けた。そう結論付けなくては恐ろしくてたまらなかった。
冬休みを前に、スノボや旅行、帰省の話で盛り上がる講義室の一番後ろで汀は携帯をいじっていた。その画面にはお祈りメールが映っていた。なぜだか、目に涙が浮かんだ。汀はそれを隠すように机に突っ伏し目を瞑った。スノボの楽しさを語る彼らの声を聞きながら、汀はいつの間にか眠ってしまっていた。
ゲレンデに汀はTシャツ1枚で立っていた。寒くない。雪は触っても特別な感触は無く、ただ真っ白のアスファルトのように固く、生えている木はハリボテのようにぺらぺらな質感だった。汀はゲレンデに来たことが無かった。
そんな偽物ばかりの空間で確かに1つだけ本物がある。ユメノの視線だ。汀が視線の方を振り向くと彼女が緩い傾斜に立っている。高所から見られるのは最初の夢以来だ。ふと、汀はあることに気が付いた。気が付いてしまった。汀の呼吸が荒くなる。
近づいてきている。
大きなチャイムの音で汀は目を覚ます。一瞬しか寝ていなかったはずなのに暖房に当たっていたせいか、汀は寝汗をかいていた。
子どもの頃よく行った近所の公園。前の夢ではカラフルな柵の先、道路の真ん中にユメノは立っていたはずだ。視線の方に目を向ける。彼女がカラフルな柵の手前、公園の中でこちらを見つめている。顔はぼやけてよく見えないが、その三白眼と白いワンピース、長い髪だけはしっかりと認識できる。これではっきりとした、彼女は日に日に近づいてきている。
カフェイン飲料を飲んでみたり冷水のシャワーを浴びてみたり、とにかく眠気を覚ますことに注力した。ユメノが目の前まで来たらどうなってしまうのだろうか。もしかしたら殺されてしまうのではないか。二度と夢から覚めなくなってしまうのではないか。そんな想像が汀を支配していた。
ユメノの視線を感じる。小学校の廊下の10mほど先に彼女は立っている。彼女の顔はぼやけて見えない。しかし、見つめる三白眼だけはハッキリと認識することができる。
「な、なんだよ。何なんだよ!!!見るんじゃねーよ!!!!ふざけんなよ!!!」
頭を掻きむしりながら上げた叫び声は彼の心の底からの叫びだった。彼女に対する恐れや不安は怒りとして体を駆け巡る。
ここは俺の夢の中。
なら、何したって許される。
彼女を睨みつけ歩みを進める。
が、近づけない。物理的な距離が縮まらない、こちらが近づくとその分彼女も離れていく。全力で走っても彼女は一定の距離を保ってこちらを見つめてくる。呼吸が乱れる。
「なんでだよ、もう勘弁してくれよ。分かってるから、もういいだろ。俺が悪かったから」
膝から崩れ落ちる。それでも彼女の冷たい視線が、冷たい現実がなくなることは無かった。
とにかく寝たくない。起きていたい。寝てはだめだ。しかしどれだけ頑張っても睡魔には勝てず、日に日に生活リズムが狂っていく。啓介からは就活終わったという連絡が届いていた。しかし、今の汀にそんなことを考えている余裕は無くなっていた。気が付くと冬休みが終わっていた。せっかく行けるようになった大学も狂った生活リズムのせいで休むようになってしまった。あれだけ大好きだったバイト先にも行けなくなってしまった。あれから就活も上手くいっていない。現実の焦りも募る一方だ。このままではいけないことはわかっている。
「汀、お前最近大学行けてないみたいだが、何かあったのか?」
心配そうな父親の声は今の汀には届かなかった。父親はここ数日口癖のように大学の心配をしている。それでも今はその声より目の下のクマのほうが彼にとっては大きな問題になっていた。
「そろそろテストだろ、今のままだと留年するんじゃないのか?大丈夫か?」
「大丈夫だから」
「お前それ何回目だ、大丈夫じゃないからこうして何回も言ってるんだろ。」
何もわかっていない父親に対して怒りが湧いてくる。
「大丈夫だから!」
思わず大きな声を出してしまった。すると母親の金切り声がリビングに響いた。
「大丈夫だからじゃないでしょ!誰がお金を出してると思ってるの?お父さんは何回もこの話をしてるよね、このままじゃ本当にダメ人間になっちゃうよ。」
ダメ人間。汀の頭の中にハッキリと残る。両親を睨みつけ自分の部屋に速足で戻る。1月が終わろうとしていた。
ここ数日夢の中では彼女から逃げることしかできていない。彼女は追いかける時と同じ、一定の距離を保ちながらこちらをジッと見つめて追いかけてくる。ただただ彼女が恐ろしい。得体が知れないからだけではない。何かもっと強大な恐ろしさが汀を支配する。どれだけ逃げても彼女は日に日に近づいてくる。
いつの間にか後学期も終わっていた。汀はテストを受けることができず必修の単位を落としてしまった。留年が確定してしまった。
「汀!あれほど言っただろ!大丈夫かって!何をしているんだ!」
リビングには父親の怒鳴り声が響いた。汀は正座をして聞くことしかできなかった。父親と母親からの説教は1時間ほど続いただろうか。
「どうするんだ。留年するのか、大学を辞めるのか。」
最後に吐き捨てるように父親から選択を迫られた。
「留年するならお母さんとお父さんお金出さないからね。大学辞めるなら家を出てってもらう。そんな子、絶縁するからね。」
母親の声は怒りで震えていて、目には涙を浮かべていた。頭の中が真っ白になった。
「…だ……お………ない。」
汀が絞り出したのは彼がずっと考えていたことだった。
「だって!俺のせいじゃない!!」
涙目になりながら立ち上がり自室に逃げ込んだ。
「おい!汀!何処に行く!」
父親の怒鳴り声は「バン!」という強く閉めたドアの音でかき消された。ベッドの上で汀はうずくまっていた。
大学だってずっと頑張っていた。合わないなりに通い続ける努力をずっとしていた。就活だって頑張った。名の知れた有名企業に片っ端からエントリーシートを送った。これが間違っているのか。ダメなのか。上を目指すことは。それだけの能力があるって自分を信じちゃいけないのか。
「汀、1か月やる。大学辞めるか、留年するか選べ。大学辞めるなら、就職先が見つかって、軌道に乗るまでは家にいさせてやる。留年するなら今はいったんお金を出してやる。後々返してくれればいい。1か月後、答えを聞くからな。」
父親の声がドア越しに聞こえてくる。なぜだか涙が溢れ出した。
ユメノが目の前に立っている。顔は相変わらずぼんやりとしていて認識ができない。でも彼女の目だけはハッキリと認識できる。だがもうそんなのは関係ない。目を瞑りその場にうずくまることしか汀にはできない。恐ろしくてたまらない。彼女の目線が、存在が。彼女は夢じゃない。現実なのだ。焦りそのものなのだ。ずっとこちらを見続ける。現実としてそこに存在しているのだ。
「やめてくれ…夢でいさせてくれ…俺の世界を荒らさないでくれ…」
泣きながら彼女に懇願する。彼女はただこちらを見つめるだけだった。
明日で約束の1か月が経つ。自室から下っていく夕陽を見つめる。何もしていない。両親の心配を他所にあることを考えていた。間違えた。ずっと見てこなかった。一流大学に、一流企業に行けるほどの人間では無かった。周りの人間を馬鹿にできる様な人間ではなかった。周りのようにうまく生きていくことができない人間だった。分不相応だった。俺は自分自身が思うような優秀な人間じゃないんだ。今日汀は初めて現実と向き合った。ひどく醜い、哀れで、色のついていない、この現実を。
「夢ならいいのに」
震える声でつぶやいた。窓の外の太陽は姿を隠し、かすかに赤らんでいる空は次第に夜の闇へと変わっていくだろう。
夢に入った瞬間、いつもと違うことが容易に分かった。
自室のベッドの上、座っている汀の目の前にユメノが座っている。その華奢で小さくまとまって正座をする彼女の顔をはっきりと認識できる。眉毛は薄く、唇は薄く淡いピンク色をして、輪郭はシュっとしていた。汀を見つめ続けていた釣り目な三白眼にはどこか温かみを感じた。恐ろしさは感じない。むしろ彼女の綺麗な顔立ちについ見惚れてしまった。
彼女の頬に右手を伸ばす。温かく、柔らかな頬の感触が右手に伝わる。少しの時間が経過し、彼女が頬に当てた汀の手にそっと触れ、今まで力強く睨んでいた目尻が下がり口元は緩み顔には微笑が浮かんでいた。
「君は何なんだ?」
問いかける声は震えていた。微笑みを崩さずに彼女の口が開く。
「私はあなたが恐れていた存在。」
彼女の声は澄んでいて、どこか安心できる、落ち着ける声だった。
「恐れていた?俺が?…」
ぽつりぽつりと汀の中で怒りが湧いてくる。
「………何様のつもりだよ。」
そうだ、全てこいつのせいじゃないか。汀は怒りのあまり彼女を怒鳴りつける。
「なにが!!!お前の!!!お前のせいで、お前のせいで!」
汀は頬に当てた手を彼女の首に下ろし、力を込める。手にははっきりと彼女の細くやわらかな首の感覚があった。その不気味な現実の感覚に汀は反射的に手の力を弱めてしまった。
「…なんで、急に喋ったんだ。」
少しの無言の後、口を開いた汀のその声はとてもか弱い声だった。
「あなたが向き合ったから。」
彼女の見つめる目には現実の冷たさは無く、非現実的な温かみだけを感じることができた。思わず汀の中に溜まっていた思いが溢れてくる。
「…なんだよ。何なんだよ…なんで今更…もう遅いんだよ…取り返しのつかないところまで来てるんだよ…くそ、くそう。」
汀のその声に怒りは無かった。かわいそうなほど弱々しいその声は震えていた。汀自身理解ができなかった。視界がぼやけて彼女の顔が良く見えない。思わず顔を伏せてしまう。ベッドは自分の涙で濡れている。自分が醜くて、みっともなくて、恥ずかしくて仕方がない。彼女の優しい声が心を揺らす。
「ずっと見てたから知ってる。私からは逃げていたけど、今はこうして向き合っている。あなたが行ってきた努力も知っている。後はあなたが選択するだけ。」
ずっと見ていた。彼女は俺にそう言った。俺のことなんて、見てくれていた人はいなかった。何も知らない周りの連中は努力している俺に簡単に「がんばれ」なんて言葉を吐いた。両親は努力をしてもそれでも報われない、そんな俺をダメ人間扱いした。もしかしたら目の前にいる彼女だけなのかもしれない俺をずっと見てくれていたのは。久しぶりに人と喋ったような感覚に陥った。いや、あながち間違いでもないのかもしれない。ずっと心から人と喋っていなかったのかもしれない。彼女だけなのかもしれない。本当の自分を見てくれるのは。悩みの種であったはずの彼女は今ではむしろ、汀にとっての唯一の理解者となっていた。
夢の世界には俺と彼女しかいない。見つめあう時間は永遠のように長く、彼女に触れている手が徐々に温かみを帯びていく。ここは俺の夢の中。何をしても許される。首に置いた右手を顎に持っていく。ここは俺の夢の中。彼女は無抵抗でこちらを見つめるだけでいる。
ここは俺の夢の中。
なら、何をやっても許される。
彼女の唇と自身の唇をそっと重ね合わせる。柔らかな感触が唇を伝い脳へと伝達される。全てが幻想の夢の世界にいるはずなのに、その感触は現実だった。彼女は現実なのだ。唇を合わせたままゆっくりと彼女をベッドに押し倒す。唇を離し改めて彼女の顔を見つめる。彼女の美しい三白眼が汀を見つめ続けている。
きっと、この選択は間違っている。でも夢の彼女が現実なら、この選択が正しいかどうかなんて関係ない。どれだけ頑張っても、努力が報われなかった。辛い、苦しい。もう、どうでもいいんだ。現実は。
彼女の頬に汀の涙が落ち、頬を伝いベッドに流れていく。温かな彼女の体温はまるで現実だった。
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ゆめうつ 春間 来善(はるま きよし) @harumakiyoshi
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