第5話 処分

 牢の中で、歳月は音もなく積もっていった。

 正雪先生は、最後まで口を閉ざさなかった。否、正しくは、最後まで口を開き続けた。


 浪人の斡旋が形骸化しないよう、役人の裁量が強くなりすぎぬよう、末期養子の年齢制限が厳しすぎれば意味をなさぬこと――細かく、しかし執念深く。

 役人は相変わらず牢の前に座り、筆を走らせた。


「世は、急には変わらぬ」

 正雪先生は、ある日そう言って笑った。

「だが、戻らぬようにすることはできる」


 その数日後、正雪先生は眠るように息を引き取った。

 牢の中での最期だったが、顔は穏やかだった。

 変わり始めた世の中を、自分の目で確かめた者の顔だったと、拙者は思う。


 しばらくして、幕府の側にも死が訪れた。

 老中・松平信綱。寛文二年三月十六日。

 拙者たちの話を、感情を挟まず聞き続けた男が、静かに世を去った。


 それからは早かった。

 仲間が一人、また一人と減っていく。病、老衰、時に理由も告げられず。

 名を捨てた身に、墓はない。だが、拙者は数えた。忘れぬために。


 気づけば、拙者一人になっていた。


 慶安の変から、すでに三十年近くが過ぎている。

 牢の壁は変わらぬが、世は変わった。浪人は、かつてほど溢れてはいない。すべてが解決したわけではない。それでも、あの頃よりは、確実に。


 ある日、牢の前に見慣れぬ男が立った。

 酒井忠清。今の老中だという。


「丸橋忠弥」

 久しく呼ばれなかった名に、胸が僅かに疼いた。

「お前は、元より上様の好意で生かされているだけだ」


 将軍・徳川家綱の体調が思わしくないと告げられた。

「もしものことがあれば、その庇護も消える。処刑される可能性は高い」


 拙者は、静かに頷いた。驚きはなかった。

 むしろ、ここまで生かされたことが、異例なのだ。


 当初の目的は、果たした。

 剣を振るうことなく、血を流すことなく――いや、流れた血が無意味にならぬように、できる限りのことはした。


「切腹は認めよう」

 酒井は、事務的に言った。

「武士としての最後だ」


 十分だ、と拙者は思った。

 名もなき罪人として終わる。それでいい。いや、それがいい。


 その夜、拙者は久しぶりに、過去を思い出した。

 志を語り合った日々。怒りに身を任せた若さ。

 そして、牢の闇の中で、言葉だけを頼りに世と向き合った長い時間。


 翌朝、介錯の者が来た。

 拙者は、将軍家綱の名を心で唱え、幕府に、そしてこの世に、静かに礼をした。


 刃は冷たかった。

 だが、迷いはなかった。


 こうして拙者、丸橋忠弥は、生涯を終えた。

 名は残らず、その後のことを語る者もいなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

慶安幽録 @gainpower

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ