偉大なる我らの同志、こちら異常ナシ
@itijikuN
第1話
1958年、旧ソ連領・スモレンスク州 第74労働収容所
イワン・ペトロヴィチは凍てついた大地にスコップを突き立てた。手の皮膚は何度も破れ、また固まり、もはや霜焼けの痛みさえ感じない。
「働け、イワン!」
監督官の声がドイツ語で響く。イワンは立ち止まることなく土を掘り続けた。止まれば殴られる。十七年間、それを学んできた。
胸には「OST」と書かれた青い布製バッジが縫い付けられている。オストアルバイター――東方労働者。ナチスが「劣等人種」と定めたスラブ人を示す印だ。
1941年6月22日。バルバロッサ作戦が開始された朝、イワンは二十三歳だった。
スモレンスクは電撃戦の餌食となった。ドイツ軍の進撃は凄まじく、赤軍は各地で包囲され、壊滅した。スターリンは東へ逃げた。モスクワは陥落した。
あの年の冬、誰もがドイツ軍は止まると思った。だが止まらなかった。1942年春、ドイツはヴォルガ川まで到達した。スターリングラードは包囲され、ついに陥落した。
赤軍の反攻は来なかった。
1943年、スターリンはウラル山脈の向こうに「亡命政府」を樹立したと噂された。だが戦線は動かない。ドイツ帝国はヴォルガ川西岸までを支配下に置いた。
イワンの故郷は「東部占領地域」となった。
最初、ドイツ人はポスターを貼った。
「ウクライナの人々よ! ドイツでは有益で給料の良い仕事が見つかる! 住居を含め、必要なものはすべて与えられる!」
誰も信じなかった。
だから彼らは村を包囲し、若者を次々と狩り集めた。家畜のように貨車に詰め込まれ、西へ運ばれた。
イワンが連れてこられたのは、かつての赤軍兵舎を改造した労働収容所だった。有刺鉄線が二重に張り巡らされ、監視塔には機関銃が据え付けられている。
バラックは隙間風が吹き抜け、冬には床に霜が降りた。一つのバラックに120人が詰め込まれ、三段ベッドを二人で共有した。毛布は一人一枚。それで零下30度の夜を耐えた。
食事は黒パン300グラムとスープ。スープには腐りかけのキャベツと、時々ジャガイモの皮が浮いていた。
労働は道路建設、森林伐採、石切り場。一日12時間、週6日。休みは日曜の午後だけ。
病気になっても医者はいない。動けなくなれば「選別」された。選別された者は戻ってこなかった。
「父さん」
隣で働く息子のアレクセイが小声で呼んだ。十四歳。この収容所で生まれ育った。
イワンにはかつて妻がいた。ナターシャ。彼女も連行され、別の収容所へ送られた。1944年の連合軍空襲で死んだと聞いた。東方労働者は防空壕に入ることを禁じられていたから。
アレクセイは空襲の翌日、瓦礫の中から見つかった赤ん坊だった。母親は死んでいた。イワンは拾った。
「何だ?」
「あそこ、また新しい輸送が来た」
遠くで汽笛が鳴る。また東から「労働力」が到着する。
1958年。**帝国は「東部総合計画」を着実に実行している。下等民族であるスラブ人を西シベリアへ強制移住させ、空いた土地にアーリア人(ドイツ人)を入植させる。だが労働力は必要だ。
だから収容所は満員のままだ。
「ウラルの向こうはどうなってるの?」
アレクセイが訊く。息子は亡命政府のことを知らない。収容所の外の世界を知らない。
「戦っている」
「誰が?」
「スターリンが。赤軍が」
「勝てるの?」
イワンは答えられなかった。
ただ、口を噤んだ。
十七年。十七年間、反攻の噂は何度も流れた。だが戦線は動かない。
戦線、異常ナシ。
ドイツはヨーロッパ大陸全土を支配し、石油も食料も兵器も人も豊富だ。一方、ウラルの向こうは寒く、貧しく、孤立している。
勝てるはずがない。
夕方、バラックに戻ると、新入りがいた。
痩せた中年男。目だけが生きている。
「どこから?」
「ゴーリキー」
「東部か」
「ああ。パルチザンと一緒にいた。...捕まった」
イワンは訊いた。
「東部は?」
「焦土だ。スターリンは生きている。だが領土を維持するだけで精一杯だ。シベリアは資源も、人も足りない。アメリカは援助を減らしている。もう誰も勝てると信じていない。」
「ならば」
「希望はないな」
男は笑った。乾いた笑い。
「だが、イワン。知っているか? ドイツも同じだ。この収容所を維持するために、彼らは兵力を割いている。パルチザン、反乱、東からの小競り合い。勝者などいない。ただ、灰色が広がるだけだ」
その夜、イワンは床板の下から布包みを取り出した。
中にはぼろぼろの本が一冊。プーシキンの詩集。連行される時、ポケットに忍ばせていた唯一のものだ。
ページを開く。文字はかすれている。
「自由を、自由を世界に呼びかける」
「父さん、それ何?」
アレクセイが覗き込む。
「本だ」
「何が書いてあるの?」
「……自由について」
「自由って何?」
イワンは本を閉じた。
この壁の中で生まれた息子に、どう説明すればいい?
鳥籠に閉じ込められ育った鳥に、翼の使い方をどう教える?
真っ暗な部屋に住むモノに空の青さをどう説く?
窓の外、東の空に星が瞬く。
ウラルの向こう。亡命政府の向こう。凍てついたシベリアの向こう。
そこに何がある?
イワンは息子の寝顔を見た。痩せている。栄養失調で歯が抜け始めている。あと何年生きられるだろう。
詩集の余白に、爪で文字を刻む。
「アレクセイへ。お前はイワンの息子ではない。お前は人間だ。この灰色が永遠ではないことを、いつか誰かが証明する。」
翌朝、点呼の時、新入りの男が倒れた。
監督官が近づく。男を蹴る。
しかし、動かない。
「連れて行け」
二人の囚人がゴミを運ぶ。
収容所の裏にゴミ箱が空いていた。ゴミは捨てられた。
イワンはスコップを握った。
「働け、イワン!」
監督官が叫ぶ。
イワンは答えない。
ただ土を掘る。
道路を作るために。帝国のために。
墓を掘るように。
あるいは、トンネルを掘るように。
1958年”11月”。第一雪が降った。
イワンは四十歳になった。
アレクセイは十四歳になった。
ウラルの向こうで、スターリンは七十六歳になった。
ベルリンで、ヒトラーは六十六歳になった。
そして灰色の地平線は、まだそこにある。
凍てついても、血に染まっても、果てしなく続いている。
偉大なる我らの同志、こちら異常ナシ @itijikuN
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