断片集

香苗ちのえ

千里の道も未明まで

 アパートから一歩出た瞬間、冷気が頬を突き刺した。切ったばかりの前髪の隙間にも、容赦の無いスピードで。

 私はマフラーに顔を埋めたまま、ゆっくり長く息を吐く。

 頭上で、シンヤの笑い声が響いた。

「寒がりだなぁ」

「シンヤもじゃん」

 私が指摘すると、シンヤは心外そうに長髪を揺らしながら笑った。

「べつに寒いから伸ばしてるわけじゃないよ」

「うそ」

 他愛の無いやり取りを重ねながら、ひたすら歩く。路面は昨日の雨でまだ濡れていた。水たまりが、数少ない街灯の光を鈍く反射する。足元が芯から冷え切っていくのを感じて、ぽつりと呟いた。

「ブーツ履いた方がよかったかな」

「あれは望に合わん」

 シンヤがはっきりと言う。ファッションに厳しい友達を持つと些細な事でジャッジされるが、歯切れの良い言い方が心地よかった。

 えー、と私は声を上げる。声が高くて変な発音になってしまった。シンヤ以外聞いてるわけでもないし、いいか。

「高かったのに」

「買い物苦手だもんね? 望は」

 揶揄うように言われ、私はマフラーに潜った。事実を示されると気まずい。このマフラーも、悩みに悩んで買った後でもっと安い物を見つけて落ち込んでしまった…という曰くが付いている。私が持っている物で、この手のエピソードがくっついていない物を数えた方が早いくらいだ。

 さーて、と頭上から声がする。

「なに買おっかな」

 シンヤが言った。

 向かう先は、私が住んでいるアパートから徒歩十五分のドラッグストアである。深夜零時まで開いているお店は、この辺だとここしか無い。現在時刻は午後十時過ぎ。全然焦る時間じゃない。のんびりと、弾むように歩きながら私は言う。

「私もう決めた」

「はや」

「メモしてるもん」

 言いながら、私はポケットからスマートフォンを取り出した。ホーム画面に表示されているリマインダーには素っ気ない文字列が浮かび上がっている。中身は日用品と常備薬。後はおやつだらけだ。

「お酒はー?」

 十九歳のシンヤが呑気に聞く。六月生まれの私はとっくに二十歳を迎え、十ニ月生まれのシンヤは今か今かとその時を待っているのだった。つまり、お酒を買うなら私の担当って事。

「アルコールは無し!」

 えー、とシンヤがつまらなさそうな声を出した。まだ飲めないくせに、人がお酒を飲むのを見るのが好きだという。常に人を俯瞰しているシンヤらしい趣味だった。

「酔っ払うと危ないからね」

 私は自分に言い聞かせるように呟いた。

 路面の凍り方はどんどん酷くなっていて、歩幅を狭くせざるをえないほどだった。こんな中、呑気にアルコールを摂取出来ない。行きも帰りも夜道は危険がいっぱいなのだ。私だってか弱い女子大生というやつだし。

 それに、とシンヤを見る。こんなに寒いのを全く感じさせない、まさに涼しい顔で佇むシンヤは、危険に対処出来るとは思えなかった。全身ひょろひょろと痩せていて、背は高いけど筋肉はほぼ無い。走る速さも普通だ。私と並んでいると、身長が低いせいか私の方が鈍臭く見られがちだけれど、実際は真逆である。

「面白いよねえ」

 思わず呟くと、シンヤが「えっ何が?」と反応する。それには答えずに、ちまちまと歩数を稼ぎながら、私はドラッグストアまで向かった。


 ***


 ドラッグストアの店内は煌々と明るくて、薄闇に慣れた目には眩しすぎた。目を極限まで細めながら買い物カゴを手に取る。

 この時間帯のドラッグストアは驚くほど人気がない。店員さん達が整理だか補充だか、とにかく何かしらの箱を通路に置いて作業していた。その合間を縫って、私はスタスタと目的の物をカゴに放り込んでいく。

 シンヤは後ろを追ってくるが、あんまり話しかけてこない。会話を他の人に聞かれるのが苦手なんだと、いつかの飲み会で言っていた。他の人はいちいち会話を聞いてないと思うけど、シンヤは何かと注目されやすいタイプだからそう捉えているのかもしれない。背が高く顔が整っているシンヤは、同じ学部の中でも特に目立つ存在だった。

 だから私もシンヤの流儀に沿って、店内では押し黙って会話をしないようにする。秘密の任務中って感じでカッコ良い。

 真面目な顔をしようとすればするほど笑ってしまいそうになって、口元から変な息が漏れた。

 ちょうど近くにいた店員さんがこちらを振り向く。不審者っぽくてすいません。

 シンヤはそれを見てさらに笑いを噛み殺したような顔をする。私は「だまって」と口を動かしながら、商品が並んでいる棚の隙間をひたすらに歩いた。

 店員さんの視線がこちらの背中に集中していて気まずい! 早足でほぼ駆け抜ける速度になった。

 レジでは薬の確認に手間取ってしまった。

 ドラッグストアでは、薬剤師のチェックがないと特定の医薬品を販売してはいけない。分かってはいるけど、いつも買ってる鼻炎の薬なんだし、常連割みたいなのが欲しいなあ。

 ぼんやり考えながら、私は機械的に口を動かし「はい」のみで乗り切った。

 以前同じ薬を使った事がありますか? はい。

 ほかの薬は使っていませんか? はい。

 病院は受診されていますか? はい。

 副作用についてはご存知ですか? はい。

 深夜なのに、薬剤師さんにいっぱい質問させてしまった…。それが相手の仕事だろうけど、申し訳ない気持ちになり、レジを出る時私は頭を下げた。

 シンヤは黙ってついてくるだけだ。何も買わなかったので当然である。

 店内を出ると、再び冷気が私を襲う。

「あー無理」

「寒い?」

 シンヤは素知らぬ顔で問いかけてくる。シンヤは元々、暑さと寒さを感じる機能が鈍い。真夏の屋外でも絶対長袖だし、逆に今みたいな真冬でも薄着だったりする。ここ二ヶ月くらいは特にそうだ。見ているこっちが寒い格好をしている。

 しんじゃうくらい寒いよ、と私が返すと、シンヤはなぜか笑った。その笑顔は悔しいくらいに可愛い。

 その笑顔を見返し、私は息を吐く。

 それから、買った物を自分のリュックに詰め直した。エコバッグには必要な物だけ残して手に持つ。これで準備完了。

 黙って待っていたシンヤに「お待たせ」と声をかける。

「早く帰ろうよ」

 私の家にいるのが好きなシンヤは、しれっと可愛い事を言う。けれども私は首を振った。

「寄り道するからだめ」

 向かう先は家と正反対の方向にある。私はくるりと方向転換をし、歩き始めた。シンヤもついてくる。無言で。

「大丈夫、アイスとか無いから」

 私が伝えると、シンヤは「べつにそこは心配してない」と笑って返す。

 ドラッグストアから目的地までは歩いて五分程度だ。緩やかな上り坂を登りながら、私はひたすらシンヤと喋る。

「どこ行くの?」

「公園ー」

「えー危なくね?」

 シンヤの心配ももっともだ。

 田舎の道あるあるだと思うが、この辺りは特に道が暗い。住宅地の割に街灯も少ない。通学路だった頃はもう少し明るかった気がするが、スクールバスが運行されてからは電灯が切れていても放置されるようになったらしい。

「人通りが多い道が優先されちゃうのよねぇ」と、近くに住んでいる中年の女性はため息混じりに教えてくれた。

──最近、空き家が増えたでしょう?

 女性の少し呆れたような声が、今でも耳に残っている。母親と同じ年代の女性が発する、諦めを含んだ物分かりの良い声。

 少しぐらい人通りが絶えても、センサーで反応するはずの灯りが切れていようとも、しょうがないのだと。

──だからさ、気の毒だけど…。

 その顔を見た時、私は。

「望?」

 シンヤの声で我に返り、あーごめん!と声を張る。

 ちょうどすれ違った買い物帰りらしい男性が、びくりとこちらを向いたのが分かった。気まずさを振り払うように、私はシンヤの方だけを見て続ける。

「ごめんボーッとしてた」

「もー気をつけなよ」

 えへへ、と私はだらしなく笑う。

 ボーッとしている、は私が人生でよく言われる言葉ベストスリーに余裕で入る。

 だからといって、何も考えていないわけではない。

 むしろ、ずっと考えている。

 シンヤはそんな私を見つめている。黙ってじっと、見守ってくれるのだ。いつも変わらず。特にここ二ヶ月くらいは、ずっと。

 そのさりげない優しさが、大好きだった。

「公園寄るっていってもさー、すぐ終わるから」

 ほら、と私は言う。

「自販機であったかいの欲しいだけ」

「さっきの店にもあったじゃん」

 シンヤの声は少し呆れ気味だ。

「だって私の好きなやつ、公園の方にしか無いんだもん」

 自販機のメーカーが違えば、当然取り扱っている飲み物の種類も違う。

 私は、そんな事もよく知らずに、無邪気にこれ好き!と家に遊びに来るシンヤから受け取っていたのだ。私の大好きな飲み物、ミルクたっぷり牧場カフェオレを。

 だから、シンヤは。

 あの日。

「サッと買って帰るからさ」

 心配しないでよ。

 私は笑う。…うまく笑えているだろうか。

「気をつけなよ」

 頷いてシンヤは言う。

 寒さで顔が強張るのを感じながら、私は公園まで歩いた。


 ***


 夜の公園は、こちらが思っている以上に薄暗かった。

 電灯は間隔を空けて切れているし、全体的に不気味な雰囲気だ。遊具も錆びついてボロボロだし、もちろん人気は全く無い。砂場の広さが寂しさを強調しているようだった。

「ここで遊ぶ人、ほぼ居ないんだろうね」

 思わず呟くと、だろうねーとシンヤが返した。

「自販機無かったら絶対無人だよ」

「まちがいない」

 笑いながら、ぐるりと外周を回って自販機へ向かう。

「なんで遠回り?」

 シンヤの問いに私は短く「歩数」と答える。少しでも稼ぐための悪足掻きみたいなものだ。

 今夜の行動は、全て悪足掻きみたいなものだけど。

 そんな事を考えながら、私は自販機の前に立った。

 ぼんやりとした明かりが私の輪郭を照らしている。それは夜の闇に対してあまりにも小さかった。

 その小ささに、手が震えてしまうのを止められなかった。

 スマートフォンを握る手は、手袋をしているのにも関わらず、氷のように冷え切っていた。

 アプリケーションを起動させて、自販機と接続する。商品を選択して決済を済ませると、ゴトンという音がした。私の大好きなカフェオレが落ちてきた音だ。

 ペットボトルを握りしめると、じんわりと温かさが広がる。

 思わず頬に押し当てようとして止める。

 シンヤはただ微笑んでこちらを見ていた。

「望ってほんとそれ好きだね」

「だってコーヒー飲めないし」

 声が震える。どうしようもなく。

 こんなに寒いからだと言い訳するまでもなく、全身が小刻みに揺れていくのが分かった。

「でもカフェインは欲しいじゃん? これがいっぱい飲めていいんだよ」

「牛乳入ってるのにカフェイン意味あんのかな」

「分かってないなあシンヤは!」

 声がどんどん大きくなるのを止められない。

 落ち着こうと息を吐いても、効果が無かった。

「あの日も、これ買ってきてくれたよね!」

 半ば叩きつけるように叫んだ。その声は、深夜の公園に想定以上に響き渡った。しんと、余韻が広がる。シンヤは黙ってこちらを見ていた。静かな瞳が真っ直ぐに私を見ている。全てを通過して、私を。

「別にこれじゃなくても良かったのに」

 本当は、こんな事を言いたくなかった。

 ありがとうシンヤって、笑って受け取りたかった。

「シンヤからなら、なんでも嬉しいのに」

「だって望がこれ好きだから」

 何でもないようにシンヤが言った。平静な声だった。

「あったかいうちに届けたかった」

 ね、とシンヤは笑う。いつも通りの魅力的な笑い方だった。男女問わず、夢中になってしまうような。

「…何でこうなるの」

 シンヤの笑顔は変わらない。ずっと、それこそ二ヶ月前から。

 あの写真と同じ笑顔が頭から離れない。

 焼きついている表情を振り払いたくて、私はペットボトルのキャップを乱暴に開けた。手が震えてうまくいかないが、どうにかこじ開ける。

 ぷしゅっと気の抜けた音がやたらと響いた。

 私はエコバッグに入れた薬を手に取る。なんてことない鼻炎薬。副作用は強い眠気、それから。

 私はシートから錠剤を取り出して、カフェオレに投入した。ポチャンという音がする。ペットボトルの蓋をゆっくり、力を入れて閉めて、自販機の横、コンクリートが剥き出しになっている縁に置いた。

 その時の私の顔は、どんな顔をしていたんだろう。

 シンヤに聞くべきか少しだけ迷った。

 私はゆっくり息を吐き、歩き始める。再び外周に沿って、今度は公園の出口に向かって。

 出口に向かった先には眩い光が待ち構えていた。

「すいませーん、ちょっといいですか?」

 光の持ち主は警官だった。懐中電灯で人の顔を照らすのはやめてほしい。私は必死で目を細めながら返事をする。

「さっきねー、道で大声出してる人がこの辺にいるって通報あってね」

 パトロールしてるの。

 自らを指差しながらそう言われた。

「はあ…」

 気の抜けた声しか出せなかった。

 警官は二人組で、背が高い方と太っている方のコンビだった。どちらもそれほど高齢ではなく、寧ろ歳が近そうな組み合わせだ。刑事ドラマのイメージだとイケメンとおじさんだけど、全然そんな事無いんだな。

 ぼんやりと、関係の無い事を考えた。

「あなたは見てない? そういう不審な人」

「見てないです」

「え?」

「だから! 見てないです」

 少し声が掠れていたらしい。さっき大声を出したからだろうか? それとも少し緊張しているかもしれない。

 何も罪を犯していなくても、警察官の格好をした人に声をかけられるとビックリしてしまう。ましてや今は尚更だ。

 今まさに、罪を犯していたのだから。

 気取られないように、私は努めてゆっくりと話す。

「聞き間違いじゃないですか」

 この辺って、あんまり人いないし。

 付け足すと、まあねー、と二人とも頷いた。

「空き家も増えたしねえ最近は」

「それ、よく聞きます」

「道も暗いでしょ。…こんな夜に何してたの?」

「散歩です」

 さんぽ、と呆れ声で復唱される。

「健康のために、歩数稼いでて」

 付け足すと、うーんと微妙な顔で頷かれた。

 私の見た目が不健康そうだから? 確かに、寝不足でクマは酷いし、コンディションは悪いけど。だからこそ健康に気を遣っているという証拠だろう。祈るように警官を見つめた。

 最終的に、私は不審者ではないだろうと判断された。

 人より低い身長や侮られやすい見た目も、こんな時だけは役に立つらしい。

「散歩はいいけど、明るい時間にやりなさいね」

「授業あるから夜しか出来なくて」

「ま、夜にやるとしても! 明るい場所を選んだ方がいいよ」

 太っている警官が、声を潜めて付け足した。

 


 はい、と私は明るく返事をした。無邪気に聞こえるように、努力は怠らない。

 警官たちには間の抜けた声に聞こえる事を祈る。

「この辺は危ないでしょう」

 背が高い警官は続けて言う。

 帽子に遮られて私の顔なんか見えていないだろう。

 …そんな装備してるから見落とすんだよ。私は唇を噛んだ。

「二ヶ月前は大学生が倒れてたんだから。あなたも気をつけて帰りなさいね」

 はい、と短く叫んで私は踵を返す。

 もつれるように走った。これによって不審者と思われるかもしれないが、それでも良かった。

 路面は滑る。でも私は見かけによらず機敏だから、シンヤより素早く動ける自信があるから。だから、転ばずに走る事が出来る。可能なら、どこまでも走っていける。

「シンヤ!」

 と大声で叫んだ。

 なあに、とのんびり返事が返ってくる。

 私が早足で進むスピードなんてお構いなしに、


「望、慌てると転んじゃうよ」


 ──私みたいに。

 優しい声が頭の中にこだまする。

 

 ──私は、シンヤと初めて話した日の事を思い出す。

 

 五月の大学構内は蒸し暑く、ぼんやりと歩いていた私は、教授に用事を言いつけられやすい雰囲気を持っていた。そんなわけで、暇そうに見えた私はシンヤを探し出す役目を申しつけられた。用事の詳細はもう覚えていない。とにかく私は、シンヤを探して構内をひたすら歩いていた。いや、小走りだったのかも。シンヤに会う時、自分の汗の匂いが気になってしまって、つい離れたところから呼びかけてしまったからだ。

「リュウグチ、シンヤさん?」

 振り向いた彼女の髪からは、良い匂いがした。花じゃなくて果物の、とにかく良い匂いとしか言えないもの。

 そんな匂いを振り撒いている彼女の雰囲気はまったく柔らかくなかった。

 黒髪ストレートのロングを靡かせる学部の美女。吊り上がった目とアーチ形の眉毛が似合っているきれいな女のひと。同い年のはずなのに、茶髪でショートの毛先を跳ねさせまくっている自分とは真逆だ。身長も、頭ひとつぶんくらい違う。

 彼女とはゼミも何もかも違うけど、学部と必修は同じなので、顔はもちろん知っていた。

 ただ、属するグループが全然違ったので、これまで一言も言葉を交わした事が無かった。彼女が属していたのは、学部内でもかなり華やかなグループで、その中でも一目置かれる存在に見えたのだ。

 なので、話しかける時はかなり緊張していた。声も裏返ってしまったように思う。

 変な声で私に呼び掛けられた彼女は、「シンヤ?」と首を傾げた。それから、微笑んで言う。

「私の名前、龍口真夜たつぐちまよ

「うわごめん!」

 口しか合ってない!

 三歩ほど下がりながら謝った。

「すみません龍口さん以後気をつけます…」

「かしこまりすぎ」

 あはは、と彼女は笑う。イメージとは少し違う開け放した笑い方だった。

「シンヤでいいよ」

 そう言われて私は顔を上げた。笑顔の彼女と目が合う。

「まよ、だとマヨネーズと絡めてイジられたりするの、結構嫌なんだ」

「あー…」

 そういうの、小学校くらいだとよくあるよね。

「えっとじゃあ…シンヤ、さん?」

「タメでしょ? 呼び捨てでいいよ」

「えっ…はい」

 私の事知ってるの?

 びっくりしていると、「菅原さんて面白いね」と言われて更にびっくりしてしまう。

「面白い?」

「いま、なんで知ってるの?って顔してた」

 全部顔に出てる。

 そう言われて、顔に熱が集まるのを感じた。

「望って呼んでもいい?」

 普段なら、陽キャ特有の距離の詰め方だ!と警戒してしまうところだけど。その笑顔が優しくて、とても素敵だなあと思って、気づいたら私は返事をしていた。

「いいよ」

 そこから私たちが仲良くなるまでに、劇的なエピソードは何も登場しない。

 取るに足らない会話の積み重ねで、私と真夜…シンヤは急速に親密さを深めていった。

 学内で私とシンヤが話している姿を見かけた人はあまりいなかったかもしれない。

 お互いサークルやゼミが忙しく、バイト先やお気に入りの喫茶店で会う事の方が多かったからだ。

 意外にも、シンヤの家に行ったのは大学の同級生の中で私が初めてだった。

「自分の場所にあんまり入ってこられたくなくて」

 シンヤは気まずそうに笑いながら答えた。

 美人にはそれなりの対人トラブルが付き纏う事を、数ヶ月の付き合いの中で私はなんとなく理解していた。

「私はいいの?」

「望はだいじょーぶ」

 シンヤはどんなにしんどい事があったとしても、何でもなさそうに笑う。その強さが好きだった。

 私の頭をくしゃっと触りながら、シンヤは言う。

「望の家も行きたいなー」

「うち狭いし、道暗いし、治安悪いよ?」

 私は慌てて返した。事実そうだからだ。

 裕福な実家から仕送りを貰っているシンヤは、駅近くのオートロックマンションを借りて暮らしていた。

 一方の私は、しがないバイト奨学生。駅向こうの寂れた住宅街にある、アパートに住んでいた。家賃の安さだけが取り柄の築五十年。ギャップが激しすぎる。

「場所は気にしないよ、望の住んでるとこ行きたいだけ」

 ストレートな言葉に私の方が照れた。

「いまレポートやばいから、片付いたらね」

 片付けが苦手な私の家は、すでに遊びに来た事がある友人からは腐海と称されていた。せめてもう少し、人を呼べる状態に整えてから迎え入れたい。

 シンヤはそんなの気にしないのに、と笑いながら、お土産何がいい?と聞いた。

 問われた私はうーんと唸って、こう答えた。

「おやつは家にいっぱいあるから、飲み物かなー」

「やっぱあれ? カフェオレ?」

「うん。何個あってもいい」

 …そんな、何でもない会話が、今でも脳みそにこびりついている。


 ***


 あの日。

 今から二ヶ月前。

 やっとレポートも片付き、バイトも繁忙期を過ぎて休みを手に入れた私は、部屋の片付けに没頭していた。

 テレビは置いてないけど、タブレットはあるし配信で何か見ようかな。シンヤって、アクション映画いけるかな。脳内でリストアップしながら、ちょうど洗面所を掃除していた頃。

 私のスマートフォンがふいに振動した。

 水音に紛れて反応出来なかったそれは、シンヤからの不在着信だった。

 掃除が終わってから確認した私は、シンヤに電話を掛け直した。けれど、すぐに留守電になった。

 ──おかけになった電話は、現在お繋ぎする事が出来ません。

 来れなくなっちゃったのかな?

 私は首を捻った。

 シンヤからのキャンセルは、別に珍しい事ではない。交友関係が私よりも広い彼女は、どうしても予定がバッティングしてしまう場合がある。私から断る時もある。当たり前の事だった。

 メッセージアプリを起動して、伝言を残した。

『今日来れそう?』

 いつまで経っても付かない既読マークも、私を少しも不安にさせなかった。

 シンヤはそこまで連絡がマメな方ではないからだ。寧ろさっきの着信の方が珍しかった。呑気に待っていたが、掃除で張り切って疲れてしまったのか、気づいたら私は眠ってしまっていた。

 

 いつもと違うところに気づいていれば、何か変わったのだろうか?


 私を叩き起こしたのは、翌朝の大学のグループメッセージだった。たしかゼミのものだったと思う。

 誰かがこう発言したのだ。

『これ、龍口さんじゃね?』

 そこには、ニュースサイトへのリンクが掲載されていた。

 見出しにはこう書かれていた。

『事故か? 女子大生が公園で死亡』

 記事の詳細は、いまでも一言一句思い出せる。驚きすぎた私でも、どうにかスクリーンショットを撮る事が出来たからだ。

 その写真は今も私のフォルダーの中に保存されていて、いつでも取り出せる場所にある。…いつでも見返す事が出来る場所にある。

 『十月二十九日未明、◯◯公園で人が倒れているとの通報があり、警察が駆けつけたところ、死亡が確認された。

 死亡したのは◯◯大学法学部二年の龍口真夜さん(十九歳)。現場は人通りが少ない住宅街で、目撃者を募っている。』

 たったこれだけの情報を握りしめて、私はシンヤの葬儀へと向かった。参加している人数は多く、シンヤの交友関係が改めて見えてくるようだった。その人たちに紛れるように顔を伏せながら、私は席に着いた。着慣れない喪服はサイズが少し大きくて、余計に場違いに思える。

 シンヤの笑顔が焼きついた遺影が少しでもよく見えるようにと、前の方に座った。

 そこは親族席に程近い場所でもあった。

 その場所から漏れ聞こえてくる会話は、私をひたすらに打ちのめした。

「お友達の家に行こうとしてたんだって?」

「なんでそんな夜遅くに…」

 心臓が裏返ってしまうかと思った。

 私は必死で聞き耳を立てる。

 親族の人たちは、高齢のため声が大きかった。私にも十分聞き取れる程度には。

「犯人って見つかってないの?」

「自販機のところで突き飛ばされて、転んだんでしょ?」

「そんな人いないだろ。真夜ちゃんは雨で滑って転んだんだって」

 確かにあの日は小雨が降っていた。

 私が、シンヤを迎えに行けばよかったんだ。

 後悔に胃が捩れそうになった。

「でも、ホームレスが…」

 ちょっと、と咎める声がする。幾分密やかになったが、まだ聞こえる範囲だった。

「防犯カメラは?」

 不満げに誰かが言う。おじいさんだかおじさんだか、元気そうな男性の声はよく聞こえた。

「そこ、公園だろう。何か映ってないのか」

 それがねえ、と隣の女性が返す。興奮で裏返った声だった。

「あそこの電灯切れてたから、真っ暗で。何も映ってないんだって」

「何だそりゃ。町は何してんだ」

「だってあそこ、人通りも無いし。通学路でも無いでしょう」

 だからって! と声を張り上げたところで、シーっと咎める声が聞こえた。

 トーンダウンした噂に紛れて、私の心臓の音が鳴り響いた。こんなに煩くなっているのに、誰にも聞こえないのか。不思議な気持ちだった。

 まあでも、と気を取り直したように他の誰かが言う。

「乱暴はされてないんでしょう。なら、良かったわよねえ」

 何が良かったの?

 思わず、叫びそうになった。

 これ以上そこに座っていられる自信が無くなって、私は立った。シンヤの遺影も、他の人たちの顔も、視界に入れたくなくてひたすらに走った。

 ──私がシンヤを家に呼んだからだ。

 その事は、誰にも言えなかった。言えるわけがない。

 私は、自分がシンヤの死んだ原因だと認めるわけにはいかなかった。

 シンヤとは、ずっと友達でいたかったから。


 ***


 シンヤが私の前に現れるまで、あまり時間は掛からなかった。

 事件以来、バイトを休みがちになった私を心配して、何人かの同級生が心配して連絡を入れてくれていたが、反応する気力もなかった。けれど、シンヤの姿が視界の端にあるのを確認してからは、次第に普段通りの生活に戻る事が出来た。間違いなくシンヤのおかげだ。…たとえ、私の頭の中にある幻としても、十分だった。

 一方で、私はどうしても事件の事を考えてしまう。

 シンヤはなぜ死んだのか? それはもう、分からない。

 なぜ、分からないのか?

──街灯が、点いていないからだ。

 駅前みたいに、明るく照らされていれば。

 シンヤがあの自販機の前でどうして転んでしまったのか、誰かが転ばせたのか、空き家に居座るホームレスの仕業なのか、全部分かるのに。

 私の力はちっぽけで、町を動かすには力が足りない。女子大生の力なんて高が知れている。署名をしようが何も変わらない。駅前の発展に比べたら、こんな住宅街の明るさなんて些末な事だ。

 それでも、もし。

 この公園で、何かの事件が再び起きたとしたら。

 たとえば、不審な飲み物が放置されていて、ホームレスが誤って飲んでしまう。…なんて事件あるいは事故が起こったとしたら。

 街灯が新たに設置され、防犯カメラもきちんと作動して、犯罪の抑止力になる。あるいは、事故が起きても見過ごされない。

 そうなってくれればいいのに。

 家までの道を歩きながら、私はそんな事を考える。

「望、」

 シンヤの声が頭の中に響いてくる。

 私にしか聞こえない声は、柔らかい。

「早く帰ろーよ」

「うん」

 たとえばあの日、もしシンヤが私の家に到着していたら。

 きっとこんな風にふたりで買い物に出ていただろうと、空想の道を辿りながら、私は今日も歩いて行く。

 千里の道も一歩から。

 いつかは変化を投じられると信じて、こんな夜を積み重ねていくだろう。

 そんな予感を裏付けるように、一際光った星を目指しながら、私とシンヤはアパートへと帰っていくのだった。

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断片集 香苗ちのえ @chino2514

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