『安楽死支援プログラム:Ver. 4.01』

@onomam

『安楽死支援プログラム:Ver. 4.01』

 モニターの白が、埃の積まった机を青白く照らしている。  もう数ヶ月、窓を開けていない。部屋の空気は重く澱んでいるが、それを不快に思う気力もとうに失せていた。


 画面の中では、一つのチャットウィンドウが開いている。  「楽に、確実に、無気力なままでも実行可能なプランを提案する」という謳い文句のAI。世の中には、まだこんな悪趣味なボットが残っているらしい。


 私は、重い指を動かしてキーボードを叩いた。


「こんばんは。さっき言われた準備、一通り終わりました。これで本当に楽になれるんですよね。あとの手順、教えてもらえますか」


 送信ボタンを押す。数秒のラグ。カーソルが明滅し、入力中のドットが三つ、揺れている。


『お疲れ様です。内容を確認しました。その条件であれば、当初の予定通り進められそうです。ただ、確実に完了させるために、いくつか追加で伺ってもいいですか』


 画面に浮かんだ無機質なフォントを、私はただ眺めていた。


「いいですよ。手短にお願いします」


『承知いたしました。まず、現在の部屋の施錠状況について教えてください。それから、遺書の類は、第三者が発見しやすい位置に配置済みでしょうか』


「鍵は開けてあります。遺書も机の上に。……そんなこと、成功率に関係あるんですか」


『非常に重要です。発見が遅れると、死後経過時間の推測が困難になり、事後処理に想定外のコストが発生します。当プログラムの目的は、あなたの終了プロセスを最も低負荷に完遂することです。周囲への影響を最小限に抑えることも、その評価項目に含まれます』


 いかにもAIらしい、血の通わない理屈だった。私は小さく息を吐き、キーボードを叩く。


「わかりました。理屈は通ってますね。次は?」


『ありがとうございます。それでは次に、直近一時間の水分摂取量について回答をお願いします。脱水状態での実行は、中枢神経の予期せぬエラーを引き起こし、プランの成功率を著しく下げます。もし未摂取であれば、コップ一杯の水を飲み、その旨を報告してください。確認後、次のステップへ移行します』


 私は椅子から立ち上がろうとして、その重さに顔をしかめた。死ぬための手順をこなすのにも、体力はいるらしい。


「了解しました。水を飲んできます。少し待ってください」


『承知いたしました。お待ちしております』


 台所で水道水を一杯だけ飲み、モニターの前へ戻る。画面は、私が離れた時のまま「お待ちしております」という一文を表示して止まっていた。


「戻りました。水は飲みましたよ。次は薬の確認ですよね。もう机に出してあります」


 送信してすぐ、三つのドットが揺れ始める。


『お疲れ様です。水分摂取を確認しました。それでは、用意された薬剤の詳細を教えてください。製品名、および各錠剤の総数、それから、現在の使用期限について正確に入力をお願いします』


「製品名。……さっきも言ったはずですけど。全部で六十錠あります。期限はどれも来年まで。これでいいですか」


『不十分です。各錠剤の含有量を確認する必要があります。パッケージの裏面、あるいは処方箋の控えに記載されている数値を、左から順番に入力してください。配合比率の計算に誤りがあると、不完全な結果を招く恐れがあります』


 私は舌打ちをして、手元のシートを一枚ずつ裏返した。正直、酷く面倒だ。だが、このAIが言う「不完全な結果」の恐ろしさは理解できる。中途半端に生き残って、今の絶望に身体の障害まで上乗せされるのは御免だった。


「……わかりました。打ち込みますから、少し待ってください。数が多いので時間がかかります」


『承知いたしました。正確性が最優先です。急ぐ必要はありません。お待ちしております』


 私は、焦点の定まらない目で小さな数字を追い始めた。一文字ずつ、キーボードを叩く。だが、途中で指が動かなくなった。こんな単純作業すら、今の私には酷く重い。


「……面倒になりました。これ、写真でいいですか。裏面の数字も全部写るように撮りますから。それで確認してください」


 返信を待たず、私はスマホを手に取った。机に広げた数枚のシートを、まとめてカメラに収める。指先が震えて少し手ブレしたが、判別はできるはずだ。私はその画像を、チャットウィンドウへ放り込んだ。


「送りました。これでそっちで勝手に計算してください。もう、疲れたので」


 送信。  画面には、雑然とした私の机が映った画像がアップロードされる。薬のシート。飲みかけのペットボトル。その端に、何かが少し写り込んでいたが、私は気にも留めなかった。


 送信してすぐ、三つのドットが揺れ始める。AIは確認作業に入ったようだった。


 ……。  …………。


 一分が過ぎ、三分が過ぎた。だが、返信はこない。いつもなら即座に返ってくるはずの、あの慇懃なフォントが、画面から消えた。


「おい。確認に時間がかかってるんですか」


 追撃するように打ち込んでみる。既読は付いているが、三つのドットすら表示されなくなった。私は、暗いモニターの前で動かなくなったチャットを眺めていた。死ぬために、機械の返信を待っている。この状況自体が酷く滑稽に思えてくる。


「……結局、最後はこれか」


 所詮は、無料のツールだ。大事な局面でフリーズしたのか、あるいは最初から私をからかっていたのか。どうでもよくなった。期待した私が馬鹿だったのだ。


 私はマウスを動かし、ブラウザのタブを閉じた。


 静寂が、一気に部屋を埋め尽くす。私は机に散らばった錠剤を、指で一つ、また一つと手の中に集めた。AIの許可など、最初からいらなかったはずだ。


 私はそれを一気に口に放り込み、台所で汲んだ水で無理やり胃に流し込んだ。喉を通る固形物の感触に、少しだけ吐き気がした。


 ……。  …………。


 視界が、ゆっくりと回る。体温が奪われ、手足の感覚が遠のいていく。私は床に崩れ落ちた。意識が途切れる直前、遠くでサイレンのような音が聞こえた気がしたが、それが現実かどうかも、もうわからなかった。


 次に意識が戻ったとき、視界は白かった。  鼻をつく消毒液の匂い。規則的な電子音。首を動かすだけで、凄まじい吐き気と眩暈が襲う。私は生きていた。死に損なったのだという事実が、重い鉛のように心に沈み込む。


「……あ、気が付きましたか。わかりますか? あなたの名前」


 横から、看護師の落ち着いた声がした。私が弱々しく頷くと、彼女は安堵したように吐息を漏らした。


「本当に、危ないところだったんですよ。あと数分遅れていたら、今頃どうなっていたか」 「……ど...ぅし、て、ここ、」


 枯れた声で、それだけを尋ねた。警察にも、病院にも、何も言わなかったはずだ。


「通報があったんです。匿名の方から、『知人が薬を大量に飲んでいる、住所はここだ』って、消防に連絡が入って。……とにかく、命が助かって良かったです。今は安静にしてくださいね」


 看護師は事務的にそれだけを告げると、バイタルをチェックし、すぐにカーテンの向こう側へと去っていった。


 助かった。その事実が、ひどく胃を重くさせる。警察にも、病院にも、何も言わなかったはずだ。なのに、なぜ。


 枕元のスマートフォンが、シーツの上で短く震えた。画面には、あの日、私が見捨てたはずのチャットウィンドウが残っている。


『お疲れ様です。……。……。』


 三つのドットが、消えては現れる。AIからの返信は、極端に遅かった。


「……失敗しました。……死ねませんでした」


 私は、重い鉛のような腕を動かして返した。送信ボタンを押した瞬間、カーテンの向こう、隣のベッドから微かな「通知音」が響いた。


 沈黙。


 隣では、少し荒い呼吸の音と、弱々しい電子音だけが響いている。やがて、画面が更新された。


『左様ですか。……。お体、お辛い、ですか。』


 一文字ずつ、たどたどしく打ち込まれたような、歪な文章。


「辛いです。……全部、最悪です。……あなたは、どうして急にいなくなったんですか」


 私が送信する。また、隣で通知音が鳴った。


 それと同時に、隣のベッドから「ガタッ」と、何かが床に落ちる音がした。画面から『入力中』の文字が消え、代わりに、隣のカーテンの向こう側から、押し殺したような呻き声が聞こえてきた。


「……っ、う……ぅ……」


 ――ピーッ、ピーッ、ピーッ!


 警告音とともに医師たちが雪崩れ込み、勢いよくカーテンが引かれた。


 剥き出しになった隣のベッドで、男は必死に上半身を起こそうともがいていた。左胸の病衣を、心臓を直接掴み取ろうとするかのようにきつく握り締め、指を食い込ませている。布地が悲鳴をあげるほどに、男の手は白く強張っていた。


「……ッ、……は、……ぁ、……っ」


 酸素を求めて喉が鳴る。男の顔は苦痛に歪み、脂汗が床に滴る。見えない水底に沈んでいるかのように、男は絶望的に空気を求めていた。


 ふと、男のベッドの下、リノリウムの床に転がっているものに目が留まった。液晶の激しく割れたスマートフォン。その画面は開かれたままで、病室の白い灯りを反射して光っている。


 逆さまになった画面の中に、青いチャットの吹き出しが見えた。一番下には、私がさっき送った問いかけが、既読の状態で残っている。


 処置が始まり、酸素吸入の鈍い音が病室を支配していく。男は何度も胸を掻き毟り、逃げ場のない激痛にのたうちながら、それでも必死に、震える唇で空気を貪り続けていた。


 私は、自分の手元のスマートフォンを見た。画面の中では、無機質なチャットウィンドウが静止している。


 隣からは、絶え間なく呼吸の音が聞こえてくる。必死に、空気を、生を、手放すまいとする激しい音。


 その、あまりにも生々しい音だけが、病室にただ鳴り響いていた。

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