からふるぱんだ

さらのき

第1話 顔のあざ

「ただいま」

久しぶりに実家に帰った。

玄関を開けると、そこには顔に大きな青あざを作った母がいた。

私はぽかんとして「なんで?」

母は「えへっ」と笑った。


それが5年ほど前のこと。

思えば当時から少しずつ母の脳は、異変を知らせていたのだろう。

仕事場のドアや自宅の台所のドアに顔面の左側をぶつけるようになり、そして、乗っていた車をぶつけるようになった。

顔面のあざは台所のドアで顔をぶつけた時にできたものだった。


さらには食堂のパートから帰ると椅子に座り、夜まで同じ姿勢で椅子にもたれて寝ていた。

完全なる無気力である。

料理が得意な母が、仕事から帰る父の食事も作らずひたすらぐったりとしていた。


当時、総合病院の脳神経外科病棟で働く看護師だった。

少し前からおかしいなとは思っていたが、母に起こっていることが、疲れや、おっちょこちょいのレベルではないのではと思い始めたのはその頃からだった。

「脳腫瘍でそうゆう症状が出ることがあるし、ホルモンや電解質の問題かもしれない。何か病気があるかもしれないので病院に行ったほうがよい」と父に話した。

父も母もめんどくさそうだった。

これはもう一押ししないと行かないな、と直感的に思った。


余談になるが私には家族に看護師として信頼されうる功績(?)があった。

母方の祖母が長期間、咳をしており、様子がおかしいので病院に行くように勧めたことがある。

祖母は病院に行き、肺がんと診断された。

抗がん剤の内服を始め、苦しい咳の症状は一時的に改善し、最期ギリギリまで約2年自宅で過ごすことができた。

最期まで「私ちゃんに助けてもらった」と祖母はいい、私は「普通のことやん」と言いながらも、それを誇らしく思っていた。


その事例を取り出し、私を信用しないのか、私の言うことは聞いておいた方がよいと必要以上に恐怖心をあおる表情で圧をかけ、病院受診を承諾させた。

そこまで言うのであれば自分で連れて行くべきというのは今書いていて思う。

ただ、私は年齢を度外視し、ただの自立した大人として両親を見ていた。

「自分たちでできるでしょ、私も仕事が忙しいから」

これが後数年で通用しなくなる言葉とは思いもしなかった。


後日、父から病院に行ってきたと連絡があった。診断は、認知症。


母の行動は日に日におかしくなった。

聞いたことを忘れただけなのに「教えてもらえない、馬鹿にされている」と怒って、その辺のものを投げ回ったり、「気にかけてもらえない」と泣いたりする。

母は空間認知を障害されているタイプの認知症のため、簡単な料理もできず、食事もうまく食べられない、更衣ができない、幻視が見えるなどの症状が少しずつでてきた。

何度も何度も執拗に地域のゴミ当番が回ってくる日付を聞いてくる母を見て、わからなくなっていることへの母の焦りを感じるとともに、これから長く続くであろうこの状況にどんよりと気持ちが重くなった。


様子のおかしい母を見て私も父もいちいち気持ちを振り回された。


ふと周囲をキョロキョロ見回した。

私はぽつんと一人でたっていてその前に父と母が二人で寄り添いながら心細そうに立ちすくんでいることに気づいた。

「あれ?これってもしかして介護するの、私ですか?」

その瞬間、ものすごい孤独と重圧が私を襲った。


母の行動がおかしくなっていくことに戸惑いながら介護をする。

できないことは手伝えばよい。

本当に家族を苦しめるのは、介護そのものだけではない。

その人が元の姿ではなくなることを突きつけられることだ。

気遣いの人だった母が、風邪で寝込んでいる私の横を素通りする。

自分の希望が通らなければものを投げて怒る。

そういう行動を見るたびに、行動そのものにまず衝撃をうける。

そして次の瞬間には、あの頃の母はいないんだと言う喪失感が襲ってくる。

それを毎回味わう。

変化を目の前で見ているのが悲しい。


私は何度も泣いた。一人でも父の前でも泣いた。

病気のせいとわかっていても悲しい。

変化が早すぎて気持ちが追いつかなかった。

少しずつ増えていく母の「おかしな行動」と「できないこと」。

少しずつ減っていく「昔の母の面影」。


母が「認知症」と診断されたあの日から、泣いたり笑ったり怒ったり。

孤独を感じたり、思いもよらぬところからの励ましに助けられたり。


変化や失われていくことへの淋しさとこれからの不安に押しつぶされそうになりながらも、それを受け入れて一日一日生きていくしかない。

母や家族だけではなく、自分自身の気持ちとも向き合う日々が始まった。

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