電脳街区の管理人 前職、殺し屋。

鳥獣跋扈

プロローグ 管理人の朝

 目覚ましは、鳴らない。


 ジン・カシワラの一日は、いつも、目が覚めたところから始まる。


 寝台の上で上体を起こすと、薄暗い天井パネルがぼんやり光っていた。

 照明はまだ夜間モードのままで、部屋の隅までは十分に照らさない。

 壁際で、古い冷蔵庫のコンプレッサーが低く唸っている。


 時刻は、五時三十二分。


 ジンは、枕元に置いていた腕時計を手に取って確認する。

 デジタル表示ではなく、針のついた古いタイプ。

 メンテナンス用の端末でも時間は分かるが、

 彼はこの、電波もネットワークも要らない道具を気に入っていた。


 足を床に下ろす。

 金属パネル越しに伝わる振動が、ぼんやりと足裏を揺らした。


 このフロアの真下を、冷却水と廃熱パイプが走っている。

 その脈動が、朝の地鳴り代わりだ。


「……今日も、問題なく動いているようですね」


 誰にともなくそう呟き、軽く伸びをする。


 シャワーユニットで簡単に汗を流し、台所の片隅に並べたマグとコーヒーポットを手に取った。


 豆は、馴染みの店から取り寄せた中級品。

 贅沢と呼ぶには程遠いが、インスタントよりはずっとマシだ。


 ミルを回すと、静かな部屋にざりざりと豆の砕ける音が広がる。

 フィルターに粉を落とし、ポットから湯を注ぐ。


 香りが立ちのぼる。


 安物の冷却剤と金属の匂いが染みついたこの部屋にも、一瞬だけ別の空気が流れ込む。


 ジンは、マグを片手に窓辺に立った。


 窓と言っても、上層のような大きな透明パネルではない。

 幅の狭い観察用スリットから、低層デッキの通路と、さらにその下のメンテナンス層がのぞくだけだ。


 まだ人影はまばらだった。

 夜勤明けらしい作業員が一人、ホロタブレットを小脇に抱えて足早に通り過ぎる。

 遠くで、冷却ファンのうなる音。

 上層ビル群の裏側を走るホバーカーの光が、薄い線となって視界の端を横切った。


 ここはカシワラ・ブロック十七番。

 名前にある通り、ジンが管理するブロック区画。

 第七環状区の低層メンテナンス帯にある、古い集合ビルだ。


 外装パネルにはところどころ補修跡が見え、エレベーターは、年に一度は必ず機嫌を損ねる。

 それでも、家賃の安さと場所の良さのおかげで、住人は絶えない。


「さて」


 マグを一口だけ傾け、ジンは作業用ジャケットに袖を通した。


 濃いグレーの布地は、膝と肘のあたりが少し色褪せている。

 それでも、しっかり手入れされているのが分かる質感だった。


 腰には、小さな工具ポーチ。

 ドライバー、簡易センサ、ケーブルテスター、それから古い折りたたみナイフ。


 どこから見ても、ただのビルの管理人だ。


 ──少なくとも、そう見えるように。




* * *




 朝の見回りは、ジンの日課だった。


 六階の自室を出て、非常階段を使って下へ降りる。

 エレベーターは緊急時以外あまり使わない。

 体力と、なにより癖の問題だ。


 踊り場ごとに配置された監視カメラを一台ずつ見上げる。

 レンズの角度、ハウジングのガタつき、配線のたるみ。


 どれも、「異常なし」と判断した。


 一階ホールに出ると、ちょうどラーメン屋のシャッターが半分開いたところだった。


「お、管理人さん。今日も早いねぇ」


 カウンターの向こうで店主が手を上げる。

 油とスープの匂いが、通路まで流れてきた。


「おはようございます。朝から仕込み、お疲れさまです」

「こっちは慣れっこですよ。あんたこそ、あんまり階段ばっかり使ってると、膝やられますよ」

「膝より先に、エレベーターの方が壊れそうですからね。先にこちらを気にしますよ」


 軽口を交わし、店の前のフロアパネルを足で軽く踏む。

 下から返ってくる感触で、支持材の状態とブロックの荷重を測るのがすっかり癖になっていた。


 ゴミ置き場のロックを確認し、非常口の開閉センサーをテストし、屋上へと向かう。

 上階の非常扉を開けると冷たい空気が顔を撫でた。


 屋上と言っても、低層デッキと中層との境界にあたる管理スペースだ。

 周囲は同じ高さのビルと配管とケーブルとで埋め尽くされている。


 遠くに上層のガラスと光の塔がかすかに見えた。

 あれが、この都市の「表」の顔だとすれば、ここは確実に「裏」の側だ。


 ジンは、深く息を吸い込む。


 冷却ガスと金属の匂い。

 かすかなオゾンの香り。


 血や火薬の匂いがしないだけ、静かな朝と言っていい。


 屋上の縁から身を乗り出すようにして下を見た。

 隣のブロックとのあいだに細いサービス通路が走っている。

 普通の住人が通ることのない、メンテナンス用デッキだ。


 そこに、見慣れない影が三つあった。


 フードを被った若い男が二人。

 その背中側に腰を下ろさせられている痩せた男性。

 手首を束縛バンドでまとめられている。


 片方の男の腰には、数世代前のエナジーガン。

 もう片方は、折りたたみ式のスタンロッドを振り回している。


 ジンは、眉をひそめた。


 この時間帯に、あの通路で、あの距離感。

 「友達同士のじゃれ合い」というには少々無理がある。


 一階のホログラム案内板には「通路点検中:一般立ち入り禁止」と表示しておいたはずだ。

 わざわざ立ち入り禁止の場所を選ぶのは、隠れて何かをしたい時だ。


「……やれやれ」


 小さく呟き、ジンは屋上の点検口を開けた。


 ハッチの向こうには縦に伸びるメンテナンス用シャフト。

 狭い梯子が下の階層まで続いている。


 ここからなら、あのサービス通路の真上に出られる。




* * *




 サービス通路にいた三人は、まだジンの存在に気づいていなかった。


「なぁ、おっさん。本当は分かってんだろ?」


 フードの男のひとりがバンドで拘束された男性の肩を蹴る。

 男性がうめき声を上げ、頭を垂れた。


「この前、お前の工房から出てきた荷物を見てたやつがいるんだよ。違法パーツなんざ警備に見つかったら即アウトだ。

 ウチの組に“協力”してくれりゃ、黙っててやるって言ってんの」

「し、知らない……俺は、ただ、頼まれたものを……」

「だから、それが誰かって話をしてんだろうが!」


 スタンロッドが空を切った。先端でバチッと小さな電光が散る。


 ジンは、頭上の点検蓋を静かに押し開けしゃがんだ姿勢のまま通路に出た。

 配管とケーブルの影に紛れれば、少なくとも一、二秒は視線を引きつけずに動ける。


 足音を殺しながら距離を詰め、ちょうどフードの男が再びロッドを振り上げたところで声をかけた。


「おはようございます」


 三人の動きが止まる。


「ここは、カシワラ・ブロック十七番と十八番の間にある管理用通路です。

 一応『立ち入り禁止』の表示は出しておいたつもりですが……見えませんでしたか?」


 フードの男が驚いたように振り返る。

 その目に映ったのは、古びた作業用ジャケットと工具ポーチを下げた中年男だった。


「……誰だよ、あんた」

「こちらのビルの、管理人のような者です」


 ジンは、穏やかに答えた。


「通路での喧嘩は、できればやめていただきたいのですが。

 振動が伝わると配管のセンサーが反応してしまうもので」

「喧嘩ぁ?」


 スタンロッドの男が、鼻で笑う。


「ただの話し合いだよ。なぁ、おっさん?」


 蹴られた男性は何も答えられなかった。

 顔は腫れ、口元から血が滲んでいる。


「……そうは見えませんが」


 ジンは、そう言ってから一歩だけ前に出た。

 それだけで、二人の間合いがわずかに変わる。


 エナジーガンの男が、腰に手を伸ばしかけた。


「おい、じいさん。余計なことに首突っ込んで──」


 言葉より早く、ジンは動いていた。

 足元のフロアパネルに触れ、わずかな段差を確かめその反動を利用して一気に詰める。


 エナジーガンの男の腕が、ホルスターから銃を引き抜くより先にジンの手がその手首を掴み、ひねり上げた。


 鈍い音とともに、エナジーガンが宙を舞う。

 通路の床に触れる寸前、反対の手でそれを拾い上げる。


 動きは大きくない。

 だが、無駄がなかった。


「危ないので、お借りしておきますよ」


 ジンは、手から力を抜いた。

 男がうめき声を上げてしゃがみ込む。


 スタンロッドの男が慌ててロッドを構えた。


「てめ──!」


 ロッド先端から、電光が散る。

 ジンは、通路の壁に背中を軽く預けるような姿勢でそれを見た。


「その出力で配管を叩くのは、おやめになった方がよろしいですよ。

 感電するのは、あなたかもしれません」


「ふざけんなっ!」


 男がロッドを振り下ろした。


 ジンは半歩だけ踏み込み、ロッドの軌道から身体を滑らせる。

 すれ違いざま、ロッドを握る手首を指先で一瞬だけつまむように押した。


 小さな悲鳴。

 ロッドが通路に転がる。


 ジンは、拾い上げなかった。

 ただ、足先でロッドを蹴り、配管の陰へ追いやる。


「……何なんだよ、あんた」


 男が、顔色を変えて言った。

 ジンは、手にしたエナジーガンを一度だけ眺めた。


 二世代前の廉価モデル。

 充電ポートの端子には、微妙な焼け跡がある。

 定期メンテナンスを怠れば、撃った瞬間に暴走してもおかしくない個体だ。


 バレルの側面には薄く刻印が残っていた。

 かつて、自分がよく通った店のロゴと、識別コード。


 古い馴染みの銃ショップの品だ。


「……銃にあまり無茶をさせない方がいいですよ」


 ジンは、軽くため息をついた。


「メンテナンスが行き届いていないようです。

 撃ったら、あなたの手の方が先に壊れるかもしれません」

「う、うるせぇ……!」

「それに、ここで撃てば音と熱源で警備ドローンが飛んできます。

 あなた方の事情までは、さすがに庇いきれません」


 肩越しに視線を上げると、頭上を走るセンサーラインが見えた。


 熱源と電磁放射の変化を検知すれば、このブロックを管轄するセキュリティ会社の管制にすぐに通知が飛ぶ。

 警備が来れば、事情の説明を求められるのは男たちの方だ。


 ジンはエナジーガンを傾け、バッテリーインジケーターを確かめた。


 残量は三割。

 トリガーの遊びは、許容範囲。

 安全装置は──甘い。


 親指で安全装置を確実な位置に落とし、ゆっくりと構えを解いた。


「……返してほしければ、後日正式な手続きでお越しください」


 そう言って、銃をジャケットの内側へ滑り込ませる。


「ただし、その前にこのビルの管理室まで“謝りに”来ていただけるなら話は別ですが」


 二人の若い男の顔に分かりやすい動揺が浮かんだ。


「な、なんで管理人のくせに銃なんか──」

「メンテナンスというのは、配管やドアだけの話ではありませんからね」


 ジンは、それ以上説明しなかった。


「さて」


 そうして床にしゃがみ込んだままの男性に視線を向けた。


「お怪我は。立てそうですか?」

「……あ、ああ……」


 男性は、まだ状況を飲み込めていないような顔で頷いた。

 ジンが拘束バンドに手を伸ばすと、フードの男が反射的に一歩踏み出しかけた。


「おい、おっさん、勝手に──」

「おっと、そこまで」


 静かに告げる。


「ここは管理用通路です。

 管理人として、見過ごすわけにはいきません」


 バンドを弄り、指先の微かな抵抗で内部の簡易チップを潰した。

 パチリと音を立てて拘束が外れる。


 男の手首を自由にし終えると、ジンは二人の若者を見た。


「ここから先は、警備会社の仕事になります。

 今なら、私の報告書の書き方ひとつであなた方の扱いは変わるでしょう」


 ゆっくりとした口調だったが、その意味は十分に伝わったようだった。

 フードの男が舌打ちをする。


「……チッ。行くぞ」

「お、おい、銃……!」

「いいから行けって!」


 二人は、捨て台詞も残さず通路を駆けていった。

 配管の影に蹴り飛ばされたスタンロッドだけが、その場に取り残される。


 ジンは、彼らの背中が見えなくなるのを確認してから拘束されていた男性の肩に手を置いた。


「立てますか」

「あ、ああ……あんた、いったい……」

「ただの管理人ですよ」


 ジンは、いつもの台詞を口にした。


「これ以上ややこしいことになる前に、戻られた方がいい」

「ああ……すまない。本当にありがとう」


 男性は、何度も頭を下げながら通路を去っていった。


 残されたのは、ジンと、壁際に転がったスタンロッドと、ジャケットの内側で重みを主張しているエナジーガン。

 ジンは、小さく息をついた。


「……朝から、少々動きすぎましたね」


 首を軽く回し、違和感がないか確かめる。

 正直なところ、まだ「歳だから」と言い訳をするほど衰えてはいない。


 ジャケットの内ポケットを軽く叩いた。

 その感触は、彼にとって馴染み深いものだった。


 この都市のほとんどの者は、最新世代のエナジーウェポンを好む。

 軽くて、扱いやすくて、弾倉管理も不要。


 それでも──ジンにとって「気持ちよく撃てる」銃は、別にある。


「……古女房が、恋しくなりますね」


 誰に聞かせるでもない独り言を漏らし、ジンはスタンロッドを拾い上げた。


 警備会社への報告書には、「通路での小競り合い」とだけ書くつもりだ。

 エナジーガンの出所については、別に考える必要がある。


 古い馴染みの銃ショップ。

 そこに預けたままの一本。


 ──そろそろ、顔を出しておく頃合いかもしれない。


 そんな考えが頭をよぎり、すぐに打ち消す。


「いや……まだ、早いですね」


 あの銃を手元に戻すということは、かつての自分に少しだけ近づくということだ。


 ジンは、サービス通路の端に設けられた点検ハッチを開けた。


 メンテナンスシャフトから低層デッキへ戻ると、朝の人の流れが少しずつ増え始めていた。


 子どもを連れた女が、眠たそうな子の手を引いて通り過ぎる。

 仕事道具を抱えた男が、ホロタブレットを片手にそそくさと歩いていく。


 誰も、さっきまでここで起きていた小さな騒ぎには気づかない。


 それでいい、とジンは思った。


 この街には、見なくてもいいものと、そうでないものがある。

 今のは、その中間だ。


 ほんの少し、手を伸ばせば何とかなる程度の「厄介ごと」。

 それくらいなら、ビルの管理人でも処理できる。


 足元の床パネルを踏みながら、感触を確かめる。

 振動の伝わり方は、いつも通り。

 冷却水の音も、いつも通り。


 ジンは、軽く肩を回した。


「さて。配管図の更新状況を確認しに行きましょうか」


 低層デッキの照明が、夜間モードから朝モードへと切り替わり、色温度の少し高い光が通路を満たしていく。



 この日の午後、ジン・カシワラは久しぶりに第七環状区の組合支部を訪れ、ある少女と出会うことになる。


 その前の、なんてことの無い朝の一幕だった。

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