|蹄音《つまおと》の導き
河村 恵
足跡の消える場所
山には漆黒の闇が迫っていた。
志乃が峠の頂に立ったとき、周囲はすでに輪郭を失いつつあった。予定では一時間は早く下山しているはずだったが、不運なことに登山靴の紐が切れたのがひびいた。
さらに悪いことに、深い霧が谷底からはい上がってきた。手元のLEDライトを点けても、光は乳白色の壁に跳ね返され、わずか数メートル先さえ見えない。
「どうしよう……」
志乃は立ち止まり、震える指でスマホを確認したが、圏外の表示が無情に光るだけだった。
この道は、左側が切り立った崖になっているはずだ。一歩間違えれば、暗闇の底へ真っ逆さまに突き落とされる。霧は志乃の防寒着を湿らせ、体温を容赦なく奪っていく。恐怖で足がすくみ、動けなくなったその時だった。
――パカッ。
乾いた音が、霧の奥から響いた。 志乃は息を呑み、光を向けた。そこには、一頭の大きな馬が凛とした姿で立っていた。 毛並みは深い茶褐色で、雨に濡れたようにしっとりと光っている。鞍も手綱もない。
志乃の口から安堵の溜息が漏れた。
馬は志乃を振り返ることもなく、ただ静かに、里へと続く下り道へ向かって歩き出した。
志乃はなぜここに馬がいるのか考えるより先に、その後ろ姿を追って歩き出していた。
パカッ、パカッ、パカッ、パカッ
蹄の音は、メトロノームのように正確で、志乃を落ち着かせていく。
道は険しく、木の根が蛇のように地面を這っている。志乃は何度も足を取られたが、そのたびに馬は足を止め、志乃を待つかのように、わずかに首を揺らした。
不思議なことに、馬が通った後の霧は、ほんの少しだけ薄くなっているような気がした。
どれほどの時間が経っただろうか。
霧の向こうに、オレンジ色の街灯がぼんやりと滲んでいる。人里だ。
志乃は安堵のあまり力が抜け、その場にへたり込みそうになった。
「ありがとうございました、助かりました」
志乃は声を振り絞り、馬に深く頭を下げた。
顔を上げると霧がふわりと渦巻き、大きな茶褐色の背中は掻き消えてしまった。
翌朝、志乃は昨夜の出来事を確かめたくて、ある古い小屋を訪ねた。
小屋の前には、薪を割り終えたばかりの源蔵という老人が腰を下ろしていた。 源蔵はこの土地を昔からよく知る生き字引のような存在だった。志乃が、霧の中で馬に助けられた話をすると、源蔵は深く頷いた。
「……それは、あの荷馬だろうな」
「荷馬、ですか?」
「ああ。もう70年も前の話だ。この村に、働き者の茶色い馬がおった。名前はアオ。体は逞しく、毛並みも立派だった。重い木材や米を背負って、暑い日も、寒い日も峠を越えたもんさ」
源蔵は遠い山なみを見つめた。
「だがある嵐の夜、馬っていうのはぬかるんだ道を嫌うんだが、どうしても急ぎの荷があったんだ。あいつは、主人の思いがわかるのか、雨の降りしきる中、山に入っていった。崖が崩落しているのに気づかず、馬子もろとも谷底へ落ちちまった。馬子は運良く生き延びたが、アオは…。死ぬ間際まで、背負った荷物を運ぼうとなん度も立ちあがろうとして力尽きたそうな。……それからだ。霧の夜、道に迷った人間を、里まで送ってくれる馬の影が出るようになったのは」
志乃は胸の奥が締め付けられるような思いだった。あの蹄のリズムは、自分を安全な場所へ届けようとする、その馬の強い意思だったのだ。
「お礼を、言いたいんです」
志乃は源蔵とともに、もう一度、山道へと向かった。
志乃は、自分が歩いてきた足跡を見つけた。そして、自分の靴跡の横に、はっきりと刻まれた蹄の跡を見つけた。 それは力強く続いている。
「いた……。ここに、確かにいてくれた」
志乃は微笑み、その足跡を辿るように山道へ入っていった。
しかし、ある場所で志乃は立ち止まった。
「どうして…」
蹄の跡が、唐突に途切れている。 そこは、道が大きく削れ、深い谷底へと崩落している崖の真上だった。
志乃の靴跡は、その崩落箇所の手前で消え、そこからなぜか空中をまたぐようにして、反対側の細い斜面へと続いていたのだ。
蹄の跡は、崖の縁で消えていた。 志乃が昨夜、馬の背中を信じて疑わずに歩き続けたあの「道」は、とうの昔に崩れ去り、存在していなかったのだ。
志乃は震える手で崖の下を覗き込んだ。 底知れない闇と霧が、大きな口を開けて待っている。
源蔵とともに、手を合わせてしばらく目を閉じた。
冷たい風が吹き抜け、志乃の耳元を撫でた。
――パカッ。
あの優しくも悲しい、一定のリズムが聞こえた気がした。
|蹄音《つまおと》の導き 河村 恵 @megumi-kawamura
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