始まり -3-

 スマートフォンのようにも見えるその物体は、ひしゃげて溶けだしていた。


 ――金属が溶ける? 


 そう考えているうちに、その物体はポトポトと静かに、鈴木杏の頭の割れ目へと落ちてゆく。


 ――頭蓋骨が割れて脳がはみ出している?


 岸本は自分の目を疑った。


 ズルズルという音がして、鈴木の身体が上と昇っていく。その姿はまるで吸盤でくっついているかのようだった。窓ガラスにナメクジが這ったような跡がついている。


 ――あれは血? 肉片?

 ――鈴木杏の前部がガラスと擦れて削られて? ――

 

 嫌な想像だった。


 ズルズル……ピチャピチャ……ペタン……ビチャ と音がする。

 同時にキーキーと黒板を爪でひっかいたような音を立てるのは、杏の頭に刺さっているスマホと窓ガラスが擦れる音のようだった。


 やがて彼女の身体が天井に到達すると、今度は後ろ姿のまま、のろのろと這いまわってゆく。その動きは何者かが彼女の身体を、無理矢理動かしているようにも見えた。ジプトーン模様の天井の小さな割れ目に血が滲み、入り込み、滴り落ちて来る。


 スチームオーブンの中で、焦げ付いた肉が腐ったような嫌な匂いがした。


 ――エアコンの温度は今、何度になっているのだろう? 

 岸本は現実逃避をするようにぼんやりと考えた。


 ――暑さで皆、思考がおかしくなっている? 

 ――これは幻?


 不意に、岸本に大人のずるさと云う魔が差した。


 岸本はスマホを取り出しおもむろに電源を入れる。すぐにピコン・ピコンと云う音が戻ってくる。杏の頭に突き刺さっている物が彼女のスマホなら、もう使い物にならないほど溶けている。岸本のスマホに着信したメッセージを消してしまえば、証拠は残らない。いや、警察が本気で調べる気になれば、そんな小細工はいとも簡単に崩れることは百も承知だ。


 ――そこまで調べるだろうか?

 ――この異常な状態。検視係は、医者はどのような死因を死亡診断書に書くのだろう?


 その考えは非常に都合がいいように思えた。妙な不快感と快感が入り混じり岸本の背中を撫でる。彼女の死を願っている自分を否定しようと試みたが、無駄だった。


 岸本はメッセージを削除し始める。


 ――これさえ全て消してしまえば俺は助かる。


“懸想しております” “愛してるの” “奥さんと別れて” “あのキスは、抱擁は何だったの?” “初めて抱かれた日を私は忘れない” “あの放課後、あの教室” “先生は私を愛していると抱きしめてくれた” “全部嘘だったの?” “嘘つき!” “赤ちゃんができたら捨てるの?” “私は先生を許さない” “嘘つき! 嘘つき! 嘘つき!” “全部奥さんにばらしてやる!” “十八歳未満の子供への性的暴行” “世間はどう見るかしら?” “先生を殺して私も死にたい”  “おっさんの癖に、私の憧れと尊敬を利用した”  “死ね! エロ教師!”  “死ね!”  “死ね!”  “死ね!”  “死ね!”


 いくら消してもメッセージは次から次へと入って来る。


 ピコン・ピコン・ピコン……


 岸本はスマホをミュートにして、背中を丸めたままメッセージを消し続けた。全身から変な汗が噴き出す。


「岸本先生。何してるんだよ。鈴木さんを、杏を助けなきゃ」と岡崎に肩を叩かれて岸本は顔をあげた。


 スマホが岸本の手から滑り落ちる。


 ピコン・ピコン・ピコン……ピコン・ピコン・ピコン……


「俺は何もしてない! ちきしょう! なんだこれ、ミュートにしたはずなのに!」と叫んだ岸本の顔を岡崎が平手打ちした。


「しっかりしてください!」


 「杏、俺だよ。洋太だよ。分かるか。そんな所にいないで、こっちへ降りておいで」


 岡崎は天井へ手を伸ばす。

 岸本は反射的に岡崎の手の先へと視線を向けた。


 長い黒髪が天井から垂れ下がり、教室の熱気を吸って濡れたように輝いている。

 ピコンまた音がして、岸本は手元を見る。床に落ちたはずのスマホはいつの間にか彼の手の中に戻っていた。


“洋太、邪魔をするな!” “岸本先生から離れろ” “離れないならお前もコロス”


 ――どうやってメッセージを送っている? 

 ――送っているのは別人?


岸本は窓際にいる生徒たちの数を数える。 一、二、三、四……八、九と岡崎を指さした。何人かスマホを手にしている生徒はいたが、それは杏の方へカメラを構えているようだった。その姿を見て岸本は気付く。


――もはや鈴木杏は、特選クラスの友人でもなんでもない。

――この現象は生徒たちにとってエンタメなのだ。


よく見るとニヤニヤと笑って見ている者も多い。


――こんな奴らに、このメッセージの内容がバレたら一気に拡散される。


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