ある陰陽師の裁判記録

バルバルさん

ある消された裁判記録

 重い扉がゆっくりと開く。足音が石畳に響き、陰陽師特有の和服に身を包んだ誰かは暗い廊下を進んでいく。

 行き着いた先は、陰陽師をこの国で唯一裁くことのできる裁きの場、問注所であった。

 陰陽師たちにとって、この場に立った後に出来ることは二つのみ。罪を裁かれるか、それとも、無実を証明できるか。

 部屋の中はひんやりと冷たく、壁に掛けられた灯が揺れ、影が大きく広がっている。中央に据えられた席に、一人の少女が静かに座っていた。

 その瞳は、どこまでも深い穴のようであり、鏡のようであった。

 彼女こそ、問注所の裁判官である少女、博麗である。

 その名は、陰陽師たちによく知られている。人の心を覗き、真実を暴き、情を挟まずに正しく裁く者。

 彼女の肩には、金色の瞳の猫が座っている。その瞳が光り、ただそこにいるだけで空気が張り詰める気配の漂う猫。その猫は喉の奥で笑うような鳴き声を発する。

 その鳴き声は低く、挑発的で、こちらを試すような響きを帯びていた。

 博麗は一言、その誰かに対し、静かに問いかける。


「……名を、ここに述べよ」


 冷たい沈黙の中、博麗はじっと誰かを見つめる。

 その瞳の奥で、真実を映す鏡のような光が、誰かを映すのだった。


「名は黒地。黒地刀祢と申します」


 この黒地という男、父はおらず、母は彼を産んですぐに他界。母方の祖父に育てられ……

 とある女との婚約の前日、自身を育ててくれた祖父を惨殺し、呪術で念入りに畜生道へ落とすという、前代未聞の大罪を犯した男であった。

 問注所の冷たい空気が、さらに重く沈んだように感じられる。

 黒地が名を告げ、その身に負った大罪である、祖父殺しと、その魂を畜生道へ落とすという呪術行使を口にした瞬間、博麗の瞳から光が消え失せた。代わりに、彼女の身体から青白い燐光が立ち上り、肩に乗っていた金色の瞳の猫が煙のように膨れ上がる。

 それは一瞬の幻影か、あるいは実体か。博麗の背後に巨大な影が揺らめき、威圧的な気配が法廷全体を支配した。彼女の唇が、彼女の意志ではない何者かの意思によって歪に吊り上がる。金色の目の猫の憑依が完了したのだ。


「ククッ……黒地刀祢、か。随分と景気のいい罪状じゃないか」


 博麗の口から発せられたのは、先ほどまでの少女のものではない。

 低く、そしてどこか楽しげな響きを含んだ声だった。彼女は、組んだ足の上で指を遊ばせながら、まるで珍しい玩具を見つけた子供のように目を細める。


「育ての親である祖父を殺し、あまつさえ輪廻の理すら捻じ曲げて畜生道へ叩き落とすとはな……しかも、婚約の前日に?」


 彼女はわざとらしく首を傾げ、黄金の瞳で黒地を射抜く。その視線は肌を焼き、心の奥底まで暴き立てるような熱を帯びていた。


「普通なら幸せの絶頂にいるはずの時期だろう。それを自ら血で染めるとは……よほどの事情があるのか、それとも単なる狂人か……お前はどっちだろうなぁ」


 彼女は楽しそうに問いかけながら、指先で空中に何かを描くような仕草を見せる。すると、青い炎がふわりと灯り、黒地の周囲を威嚇するように揺らめいた。


「さあ、聞かせてもらおうか。その薄汚い腹の中を……嘘をついても無駄だぞ? 我の前では、どんな虚飾も剥がれ落ちるのだからな」


 その言葉に、今まで黙っていた黒地は、ゆっくり口を開く。


「先ず、私の罪は、私の体を流れる穢れきった血が始まりなのですが。その前に、吟味する罪を一つ追加して頂きたく思います。私は同日、自分の父親も殺しております。それと併せ、裁いて頂きたく」


 その言葉に、博麗は嘘を感じ取れなかった。黒地は、祖父と同時に、いない筈の父親も殺したというのだ。


「それでよろしければ、私の呪われた血。その罪のはじまりから、話させていただきます」


 猫が憑依した博麗の顔に、驚きと、それ以上に濃密な愉悦の色が広がる。

 彼女は組んでいた足を解き、玉座のような椅子から身を乗り出す。周囲に浮かぶ青い炎が、まるで主人の高揚に応えるように激しく燃え上がった。


「ハッ……! 面白いことを言うじゃないか、お前」


 少女の声帯を借りた猫の嘲笑が、冷え切った法廷に反響する。

 彼女は細い指先で空を掻くように動かし、刀祢の周囲を漂う青い炎を一つ、自身の手元に引き寄せた。炎は彼女の掌の上で踊り、その照り返しが黄金の瞳を怪しく輝かせる。


「お前に父はいない。そう裁きの前の調べでわかっている。だが、そのいないはずの父も殺した、だと? 矛盾しているぞ。だが、我の眼には、お前が嘘をついているようには見えん」


 博麗は目を細め、黒地の魂の奥底をねめつけるように凝視する。

 彼の目にあるのは虚言の濁りではなく、むしろ異様なほど澄んだ、狂気にも似た真実。それが博麗の嗜虐心と好奇心を大いに刺激した。


「いいだろう、その追加の罪状を受理してやる。祖父殺しに加えて、父親殺し……しかも、呪われた血が始まりだと? まるで三文芝居の怪談だが、お前が語るなら喜劇になるかもしれんな」


 彼女は掌の炎をふっと吹き消し、再び背もたれに深く身体を預けた。その態度は傲岸不遜そのものだが、その瞳は獲物を狙う猛禽のように鋭く、一瞬たりとも黒地から逸らされることはない。


「さあ、語れ。その穢れきった血とやらが、どうやって二人の肉親を殺すに至ったのか……退屈させたら、即座に判決を下してやるからな?」


 その博麗からの言葉に、黒地は淡々と、事実の書かれた紙を読むかのように、口を開く。


「まず、居ないはずの父親殺しと、祖父殺し。それが矛盾しないとすれば、父と祖父が同一人物である……それしか有りません」


 一瞬、問注所の法廷の空気が凍りついたように静まり返った。


「私は、父親が娘に産ませた子なのです。母上は、笑い狂いながら私を産み、死んだと聞きます。そして、祖父は私を育て、20になった時、私はそれを知りました。この、穢れきった、忌まわしい血について……ですが、この時点では、まだ、祖父を殺そうとは思いませんでした。育ててくれた恩はあるのです」


 そこで、博麗の反応を見るかのように一旦、間を置く。

 黒地の話の間、猫が憑依しているとはいえ、博麗の身体がわずかに強張るのが見て取れた。

 それは、黒地が口にした事実のおぞましさが、猫に憑依され、無感情なはずの博麗自身の深層心理にすら、さざ波を立てた証拠だった。

博麗は、先ほどまでの嘲笑を消し、真剣な眼差しで黒地を見据える。黄金の瞳が、まるで深淵を覗き込むかのように細められた。


「……ほう。父と祖父が同一人物か。なるほど、それならば計算は合う。そして、穢れきった血という言葉の意味もな」


 彼女は低い声で呟くと、再び青い炎を指先で弄び始めた。だが、その手つきには先ほどのような軽薄さはなく、どこか慎重さが滲んでいる。人の世の倫理を外れた禁忌。それが目の前の男を生み出し、そして狂わせた根源であるという事実に、数多くの罪人を見てきた博麗ですら舌を巻く思いだった。


「近親相姦の果てに生まれ、母を狂死させ、それでも育ての親である、父であり祖父である男に恩を感じていた……歪んではいるが、筋は通っているな。お前の魂の色に嘘はない」


 博麗は椅子から立ち上がり、ゆっくりと黒地の方へと歩み寄る。カツ、カツと、彼女の下駄の音が静寂を切り裂く。彼女は黒地の目の前で立ち止まり、その顔を覗き込むようにして見上げた。


「だが、そこまで業が深くとも、お前はまだ殺意を抱かなかったと言ったな? ならば、何がお前を突き動かした? 恩義を感じていたはずの父を殺し、あまつさえ畜生道へ突き落とすほどの憎悪……あるいは絶望か?」


 博麗の背後で、巨大な影がゆらりと鎌首をもたげる。その影が、刀祢を飲み込まんばかりに大きく広がり、威圧感を増していく。


「さあ、告げて見ろ。その恩義ある祖父を殺した原因とやらを。我をこれほど戦慄させたのだ、生半可な理由では納得せんぞ?」


 博麗の言葉を、静かに聞いていた黒地は、目をゆっくり閉じて、語り始める。


「……私は、一人の女を愛しました。その女は父親がおらず、何処か、同類の気配を感じつつも、妙に趣味や嗜好の合う、とても器量のよい、女でした。私は、この女を、深く愛しました……婚約を、考えるほどに」


 そして、彼は目をカっと開き、冷静な声が震えだす。


「それが、腹違いの妹としらず! 私は、彼女を深く愛してしまったのです!」


 冷静だった声が、震え、荒くなる。


「それを、婚約の前日、祖父の口から聞いた時の絶望がわかりますか? 私に流れる血の、なんと悍ましく呪われていることが! その時、決断したのです。黒地の血を、残してはならぬ、今ここで、絶やさねばならぬと!」


 肩で息をしたのち、ゆっくり冷静さを取り戻し、消え入るように言葉を続ける。


「……これが、祖父を殺した真実です……ただ、心残りは。愛した妹が、この真実を知らぬことを、祈るしか無いことです……」


 法廷を支配していた重苦しい空気が、さらに一段と深く、冷たいものへと変わった。

 黒地の悲痛な叫びが木霊し、消えていった法廷の中、猫が憑依している博麗の瞳が、わずかに揺らいだ。それは嘲笑でも、単なる興味でもなく、純粋な驚きと、ある種の憐憫の感情を抱いたが故の揺らぎだった。

 博麗は、ふっと息を吐き出し、纏っていた威圧的なオーラを少しだけ弱める。彼女の背後に浮かぶ巨大な影もまた、静かにその身を縮こまらせたように見えた。


「……そうか。愛した女が、腹違いの妹……」


 彼女は独り言のように呟き、視線を床へと落とす。数百年を生きた化け猫でさえ、その運命の悪戯には言葉を失うようだった。血の呪い。逃れようのない因果。それが、ただ一人の青年をここまで追い詰めたのだ。


「お前とお前の妹が惹かれ合ったのは、血の呼び声か、それとも神の悪趣味な冗談か……いずれにせよ、あまりに残酷な話だ」


 博麗はゆっくりと顔を上げ、再び黒地を見据える。だが、その眼差しには先ほどまでの鋭さはなく、どこか静かで、深い哀しみが宿っていた。彼女は一歩、また一歩と、更に黒地に近づき、その目の前で立ち止まる。


「黒地の血を、残してはならぬ……か。それがお前の出した答え、祖父殺しの真実というわけだな。自身の血を呪い、未来を閉ざすために、過去を断ち切った……」


 彼女はそっと手を伸ばし、黒地の肩に触れようとして、寸前で止めた。触れることすら憚られるほどの絶望が、そこにはあったからだ。


「お前の言葉に嘘はない。その魂は、血の涙を流しながら真実を叫んでいる……妹には何も知らせず、全ての業を一人で背負い、地獄へ落ちるつもりか?」


 博麗の声は低く、問いかけるようでありながら、答えを既に知っているかのような響きを持っていた。

 彼女はくるりと背を向け、裁判席の方へと歩き出す。その背中は、どこか重たげだった。


「……博麗。聞いたか? これが、この男の罪の全容だ。どう思う?」


 博麗の口を借りた猫の問いかけに、博麗の口が憑依とは別に小さく動く。

 憑依されているとはいえ、その深層で彼女の意識もまた、この悲劇を聞いていたのだ。


「……かわいそう……でも、殺したことは、事実」


 博麗自身の無機質な、けれど微かに震える声が、彼女の口を通して紡がれる。憑依する猫は。


「そうだな」


 と、短く答え、再び黒地に向き直った。その表情は、裁判官としての冷厳さを取り戻していた。


「情状酌量の余地はある。だが、お前が犯した罪は消えん。殺人、そして呪術による魂の冒涜……だが、その動機が、血の断絶にあるのなら、我々が下すべき判断もまた、難しいものになるな」


 その博麗の言葉に、消え入る様に黒地は口を開く。


「……なぜ、私が捕らえられ、ここにいるのか、わかりますか?」


 そう呟き、疲れ切った表情で首を振る。


「黒地の血をただ絶やすなら。祖父を殺し、自害すればいい……ただ、私は、命が惜しくなったのです」


 そして。黒地は、死を選ばなかった理由を語り始めた。


「……真実を知る前に作った、妹の腹にいる、自分の子の顔が見たくて、自害しきれず、こうしてここに連行されたのです……黒地の血の、なんと、悍ましく呪われている……こと……か」


 力無き呟きと共に、膝から崩れ落ちる。


「……ですが、妹の子も、私の……黒地の血を引く……我が子を、私は手にかけなければ。血の連鎖が、終わらぬ……もう、疲れたのです……」


 その消え入る呟きの響いた法廷の空気は、もはや冷たさを通り越して、窒息しそうなほどの重圧に満ちていた。

 黒地の告白は、ただでさえ暗い深淵をさらに深く抉り、底なしの闇を見せつけるようだった。

 博麗は腕を組み、その黄金の瞳を細めて黒地を見下ろしているが、その表情には先ほどまでの余裕は微塵もない。

 彼女は、小さく舌打ちをした。それは彼に向けられたものではなく、この逃げ場のない運命そのものへの苛立ちのように響いた。


「……命が惜しくなっただと? 違うな。お前は、死ぬことよりも辛い、生を選んだだけだ」


 博麗は一歩踏み出し、黒地の周囲を歩く。その足取りは重く、まるで彼女自身もその業の重さに引きずられているかのようだ。


「妹の腹に子がいる……そして、その子もお前の血を、呪われた黒地の血を引いている……愛した女との間にできた子を、愛おしいと思いながら、同時に殺さねばならぬと絶望しているのか」


 博麗は深く息を吸い込み、吐き出す。その息には、青白い炎が混じり、空中で揺らめいて消えた。彼女の背後に浮かぶ影が、苦しげに身をよじる。

 真実を見抜く力を持つ彼女にとって、黒地の心にある矛盾と苦しみは、直視するのも辛いほど鮮明に映し出されているのだろう。


「もう疲れた……か。そうだろうな。お前の魂は、もう限界を超えている。自害して楽になることすら許されず、生まれてくる我が子を殺すという地獄が待っているのだから」


 博麗は、組んでいた腕を解き、だらりと下ろした。その手は、何かを掴もうとして、空を切る。彼女は視線を黒地から外し、天井を見上げた。そこには法廷の冷たい天井があるだけだが、彼女はもっと遠い、どこか別の場所を見ているようだ。


「……博麗。どうする? この男は、これから生まれてくる赤子を殺すつもりだと言っている。それは未来の殺人予告だ。だが、その動機は、呪われた血を絶やすため……これを、ただの殺意と断じて良いものか?」


 博麗に憑依する猫の問いかけに、彼女の意識が反応する。憑依された身体の奥底から、震えるような感情が湧き上がってくる。


「……殺しちゃだめ。赤ちゃんは、何も悪くない……」


 博麗自身の声が漏れ出る。それは幼い子供のような、純粋な拒絶だった。だが、すぐに博麗に憑依する猫の理性がそれを押し留める。


「だが博麗よ、その子が育てば、また同じ悲劇が繰り返されるかもしれん。この男が言う、呪われた血が真実ならば、その連鎖を断ち切れるのは、この男だけかもしれんのだぞ」


 博麗は再び黒地に向き直る。その瞳には、裁判官としての冷徹さと、一人の存在としての苦悩が混在していた。


「黒地刀祢。お前の望みはなんだ? ここで我に裁かれ、死罪となって楽になることか? それとも……その呪われた血の運命に、我々が介入することを望むか?」


 彼女は刀祢の目を真っ直ぐに見つめ、その心の奥底にある、本人さえ気づいていないかもしれない真の願いを探ろうとした。


「お前が、疲れたと言うのなら、その重荷を下ろす手伝いはできるかもしれん。だが、それはお前の望む形ではないかもしれんぞ……答えろ。お前は、妹と、その腹の子を……本当はどうしたいのだ?」


 その問いかけに、崩れ落ちていた黒地は、床から視線を上げる。


「生きて、ほしい」


 それは、黒地の本音だった。


「何も知らず、生きて、ほしい……」


 黒地の両の目から、涙があふれ出る。


「彼女には、私という……悪夢を、見た。そう思いながら、我が子と共に……い、きて、生きてほしいよぉ……っ!」


 そして、泣きじゃくるように、叫ぶのだった。

 少しの間、慟哭が響き……黒地は、少しだけ落ち着いて。


「もし、何か俺の知らぬ呪術があるなら、妹に、俺という夢を見たという暗示をかけてください。子に、会えないのは残念ですが……自分の子を、父なし子にするのは、心残りですが……この呪われ。汚れ、穢きった血の歴史を絶つのが、俺の、子にできる。最初で最後の、贈り物だと、思うのです……」


 その言葉に、博麗はゆっくりと目を閉じ、一つ大きく息を吐いた。その吐息と共に、周囲に漂っていた威圧的な空気が霧散し、代わりに神聖な気配が満ちていく。


「……そうか。それがお前の魂の叫びか」


 博麗の声は低く、穏やかだった。そこには一人の人間としての黒地への、奇妙な敬意のようなものが滲んでいた。


「悪夢を見た……か。お前は、妹の中で、ただの悪い夢になりたいと言うのだな。愛した記憶も、触れ合った温もりも、全てを幻として葬り去り……彼女と子に、穢れなき未来を与えたいと」


 彼女は目を開き、再び黒地を見つめる。その視線は、罪人を裁く裁判官のものではなく、死に行く者の最期の願いを聞き届ける僧侶のようでもあった。


「よかろう、黒地刀祢。その願い、我が聞き届けよう」


 博麗は右手を掲げた。その掌に、青白い炎がゆらりと灯る。だがそれは、焼き尽くすための炎ではない。優しく、どこか儚げに揺らめく、魂を撫でるような光だった。


「記憶を操る術……陰陽師の禁忌に近い術だが、お前のその覚悟に免じて、特別に使ってやる。お前の妹は、お前のことを忘れるだろう。お前という兄がいたことも、愛した男がいたことも……全ては、朧げな夢の彼方へと消える」


 彼女は黒地の前で立ち止まる。本来なら見上げるような身長差がありながら、その存在感は刀祢を包み込むように大きかった。


「だが、それでお前は救われない。お前は、妹の記憶から消え、誰にも知られずに裁かれ、消えていくことになる……それでも良いのだな?」


 確認するように問いかけながらも、博麗は既に答えを理解していた。彼女の背後に浮かぶ影が、静かに首を垂れる。それは、この悲劇的な決断に対する、精一杯の弔いのようだった。


「博麗も……納得しているようだ。お前のその選択が、最も残酷で、最も慈悲深いものだと」


 博麗の手にある青い炎が、ふわりと宙に舞い上がり、法廷の天井へと昇っていく。それはまるで、黒地の魂の一部が、既に彼の手を離れていったかのようだった。


「では、判決を言い渡す前に……最後の情けだ。今ここで、その術を妹にかける手配をしよう。お前がこの世を離れた後、彼女はお前を夢として処理しているはずだ」


 彼女はニヤリと、しかしどこか寂しげに笑った。


「安心しろ。我は嘘つきだが、こういう約束は破らない……さあ、涙を拭け。お前はこれから、悪夢になるのだからな。悪夢が泣いていては、締まりがないだろう?」

「は、い。」


 黒地は、ゆっくり涙を拭き、魂が、博麗の手で炎に代わっていくのを感じていた。


「……はは、いざ消えるとなると、未練か浮かぶものだな……妹よ……そして、「まだ名もなき、俺の子」……父は、お前、たちを……」


 そして、安心したのか、ゆっくり、瞼を閉じていくのだった。

 その身体から力が抜けていくのを、博麗は静かに見下ろしていた。法廷には再び静寂が戻り、先ほどまでの重苦しい空気は、不思議と穏やかなものへと変わっていた。

 博麗はふっと息を吐くと、その後ろの影が揺らぎ、巨大な威圧感が霧散していく。青い炎もまた、静かに消え失せた。


「……ふん。最後まで、手のかかる男だったな」


 口調こそ憎まれ口だが、その声音には微かな優しさが残っていた。彼女は黒地の前に屈み込むと、その閉じられた瞼にそっと手をかざした。


「父は、お前たちを……か。」


 博麗は立ち上がり、法廷の天井を仰いだ。そこには何もないが、彼女には何かが見えているようだった。遠く、見知らぬ場所で生きるであろう、まだ見ぬ命の輝きが。


「安心しろ。お前の願い通り、妹はお前を悪夢として忘れるだろう。そして、お前の子は……呪われた血など知らず、ただの命として生まれてくる」


 彼女はくるりと背を向け、裁判官席へと戻っていく。その歩みと共に、憑依していた猫の気配が薄れ、本来の少女、博麗へと戻っていく。

 席に着いた博麗は、ぼんやりとした瞳で、眠るように動かなくなった黒地を見つめた。

 憑依が解けたばかりの体は少し重そうだが、その表情はいつもの無感情なものに戻っていた。けれど、その瞳の奥には、言いようのない哀しみが揺らめいているようにも見える。

 彼女は木槌を手に取り、静かに、しかし確かな音を法廷に響かせた。


「被告人、黒地刀祢……判決は、死罪。ただし、その魂の行方は……本人の希望により、忘却の彼方へ」


 コン、と乾いた音が響き渡る。それは一つの悲劇の終わりであり、新たな命の物語の始まりを告げる音でもあった。


「……閉廷」


 博麗の言葉と共に、法廷の扉が開かれる。外から差し込む光が、静かに眠る黒地の顔を照らし出した。それはまるで、彼が長い悪夢から覚め、ようやく安らかな眠りについたかのように見えるのだった。

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