わがまま伯爵令嬢の料理改革
ほんわか
第1話 プロの目覚め
1. 異世界転生、そして「神の舌」
老舗料亭で生涯を捧げた工藤玲子(くどう・れいこ)は、八十三歳でその人生の幕を閉じた。彼女の心に残ったのは、愛おしい客の笑顔と、生涯最高の仕事をしたという満足感だけだった。
次に目覚めた時、玲子の意識は奇妙な浮遊感の中にあり、眼前に広がるのは豪華絢爛な天蓋つきベッド。
「あら、あら。私はいつの間にメイド喫茶に来たのかしら。随分と気合の入った内装ね。」
玲子の口から紡がれたのは、澄んだ、年端もいかない幼女の声だった。
メイドのエリーが青ざめて膝をつく中、玲子の脳裏に激しい頭痛とともに、この体の持ち主――リアナ・ド・オルフェウス伯爵令嬢の記憶が流れ込んできた。
リアナは、この地方を治めるオルフェウス伯爵家の七歳の箱入り娘。そして、彼女が以前から抱えていた唯一の問題、それは**「食事への異常なまでのわがまま」**だった。
「なぜ、この家の料理はこうもまずいの!」
「こんな脂と塩の塊、とても食べられないわ!」
激しい拒絶の言葉を吐く幼女リアナ。周囲は彼女を『美食への執着が強すぎる、わがままな令嬢』と見なしていたが、玲子に憑依したことで、その真の原因が判明した。
「なるほどね……これはわがままなんかじゃないわ。純粋に、舌が正直すぎただけよ。」
幼いリアナは、生まれながらにして『神の舌(絶対味覚)』を持っていたのだ。その才能のせいで、この異世界の単調で粗雑な、技巧のない料理の全てが、耐えがたいほど不味く感じられていた。
そして、その神の舌に、八十三年間の日本の板前、工藤玲子の知識と技術が、重なった。
「お食事はいただくわ、エリー。」
リアナは微笑んだ。その笑顔は七歳の少女のものだが、瞳の奥には、六十年の経験を積んだプロの鋭い光が宿っていた。
「ただし。私が食べるものは、私が作る。すぐに厨房に案内しなさい。」
2. プロの目から見た「鉈」
伯爵家の中枢である厨房は、天井が高く、壁には銅製の鍋やフライパンが重厚に飾られていた。しかし、玲子――リアナの目には、その全てが『使えない道具』に見えた。
「なんて、汚い厨房なの!」
真っ先にリアナが絶句したのは、厨房の衛生状態だった。調理台の木は黒ずみ、肉の血が染み込んだ跡がある。
「エリー!今すぐこの木台を削り直させなさい!血の汚れが染み込んだ台で、どうやって清潔な料理が作れるというの!」
料理人たちは、幼い令嬢の突然の『衛生観念のわがまま』に顔を見合わせる。この世界では、まな板の汚れを気にすることなど誰もなかったからだ。
そして、リアナが一番拒絶したのは、台に置かれた重厚な刃物だった。
「これを見なさい。あなたたちは、これを『包丁』と呼んでいるのでしょう?」
リアナが指さしたナイフは、柄が太く、刃も厚く、日本の出刃包丁よりもさらに重くて武骨な作りをしていた。
「これは包丁ではないわ。ただの鉈(なた)よ。これでどうやって繊細な切り方ができるというの?これでは食材の細胞を潰すだけ。これで切った肉や野菜が、美味しいはずがないわ!」
少女の強すぎる批判に、料理長のアロイスは額に汗を浮かべた。
「り、リアナ様。これは代々、オルフェウス家に伝わる最高の鍛冶師が打った、最高の切れ味を持つ調理ナイフでございます。これ以上に鋭利なものは、武器にしかありません…」
「武器?ああ、そうでしょうね。これは食材を潰す武器よ。料理に使う道具ではないわ。」
リアナは腕を組み、小さくため息をついた。七歳の体には、その「鉈」は重すぎて、片手で持つことさえできない。プロの技術を発揮する前に、物理的な障壁があった。
3. 道具の特注と周囲の疑念
「エリー。至急、この領地の最高の鍛冶職人を呼びなさい。」
リアナは、幼い声ながらも絶対的な命令を下した。
「私に合う、軽くて、薄く、長く、研ぎ澄まされた刃を持つ刃物を特注させるわ。柄は私の手でしっかり握れるように、細く、短く。そして、表面は絶対に磨き上げなさい。汚れが入り込まないようにね。」
これは、和食の命である柳刃包丁や薄刃包丁のイメージだった。
翌日、伯爵家の客間で、当主である父伯爵と鍛冶職人、そしてリアナが対面した。
「伯爵様、恐れながら申し上げます。奥方様より、娘御様のために奇妙な注文を承っております。『薄く、長く、鋭利』な刃物で、しかも幼女の手のサイズに合わせろと…」
鍛冶職人は困惑していた。この世界で料理用の刃物は、肉の骨を断つために厚く作るのが常識だ。
「お父様、わがままを言っているのは承知していますわ。ですが、私の『わがまま』は、この世の全ての不味い料理に対する抗議なのです。」
リアナは父親に向き直った。
「私が作る料理は、このオルフェウス家の名声を、今よりもっと高めるわ。ですが、この『鉈』では、それは不可能です。どうか、私の『料理人としての道具』を用意させてください。」
伯爵は、娘のただならぬ気迫と、その目に宿る確固たる自信に圧倒された。
「……分かった、鍛冶職人よ、リアナの言う通りに、最高の素材を使って、最高の刃物を作りなさい」
「金はいくらかかっても構わない」
こうして、リアナが求めるプロの道具の製作が始まった。だが、この世界に存在しない道具の製作には、一ヶ月近い時間を要することになる。
4. 待てない板前、旨味の探求へ
しかし、八十年の経験を持つ板前は、一ヶ月も待てなかった。その間、伯爵家の単調でまずい料理を我慢し続けるなど、プロの魂が許さない。
「エリー、私は待てないわ。包丁が来るまでの間、この世界に埋もれている『旨味』を探すわよ」
リアナは、料理人としての探求心を燃やした。
「この世界の料理が単調なのは、『塩』『脂』『甘さ』しか知らないからよ。日本には、昆布や鰹節といった、料理を根底から支える『出汁(だし)』の文化がある。この世界にも必ず、その源となる食材があるはずだわ」
リアナは、メイドや執事を使い、城下町の市場の隅、誰も見向きもしない『怪しい食材』を探し出させた。
「干からびた得体の知れない海藻を、少量だけ持ってきて。海藻の毒の見分け方を教えるから、それを守りなさい。」
「それに、森の奥で採れるという『黒曜石のように硬い乾燥キノコ』も探させて、料理人は誰も使わないそうだけど、構わないわ」
厨房の隅で、リアナの『旨味の探求』が始まった。幼いリアナは、毒の可能性を恐れるメイドたちを横目に、小さな鍋に水を張り、集めさせた食材を次々と煮出した。
天日干しした異世界の魚の干物を煮出すと、強い生臭さだけが残り、顔をしかめた。
「違う。これはイノシン酸の香りではないわ。もっと、クリアな⋯⋯」
異世界の海藻を煮出すと、苦味とえぐみだけが強く出て、とても飲めたものではなかった。
「違うわね。日本の昆布の『グルタミン酸』の品位がない。やはり、海藻は難しいわね⋯⋯」
伯爵家の料理人たちは、幼い令嬢が奇妙な「魔術の儀式」を行っていると噂し始め、恐怖と不審を募らせていった。しかし、リアナはプロの集中力でそれを無視する。
「大丈夫よ。必ず見つけるわ。この世界で、人を幸せにする『旨味』を、必ずね。」
そして、リアナは最後に、誰もが『毒キノコ』だと蔑んでいた、『黒曜石のように硬い乾燥キノコ』を手に取った。これに、『日本の干し椎茸』の面影を見ていたからだ。
「これを、絶対に沸騰させずに、あとこっちは冷たい水に浸けておきなさい。明日、その液体の色で、すべてが分かるわ。」
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