Log. 10 ――紫煙に溶ける味。

 ――映画館外、人混みを避けた物陰。

 花谷は、先ほどまでの“新人の顔”を捨て、冷徹な手際で端末を操作していた。


「……ああ、渡峯が現場から消えた。手帳端末は追えるか?」

『電源入ってないっすよ、三十分前から』


 電話の相手は加納だ。

 花谷の口調には、上司を敬う色は微塵もない。


「俺と別れた直後だな。……上にあげる資料、用意しておいてくれ。職務中の端末電源オフは規定違反だ」

『揉み消されそうな弱いネタっすねー』

「揉み消す時に誰かしら尻尾を出す。何かしら手がかりは掴めるかもしれない」


 花谷は無機質に言い切り、話題を夜宵の安否へと移す。


「あいつの容態は?」

『一命は取り留めたみたいっすよ。詳細は真琴さんから聞いてください』

「そうか。また連絡する」



 - - - - -



 ――地下鉄跡地、静まり返った暗闇。

 比与森は、自らのプライドをズタズタにされた屈辱に震えていた。


「毒なんて飲ませなくても、僕は負けなかったのに……!」

『事前準備をしておきながら、あなたは夜宵くんと互角だった。つまり、普通に戦えば負けていたんですよ』


 通話の向こう、渡峯の声はどこまでも冷酷だった。


「僕は……っ!」

『言い訳はいりません。今日中に痕跡を消してください。サイ犯が地下鉄跡地まで嗅ぎつけていましたよ』


 一方的に通話を切られ、比与森は忌々しげに壁を叩いた。



 - - - - -



 警視庁本庁の屋上、冷たい夜風が激務を終えた肌を刺す。

 葛城が手すりに寄りかかっていると、背後から重い足音が近づいた。


「空」

「……蒼さん」


 伊勢は隣に腰を下ろし、慣れた手つきでタバコの箱を取り出した。


「ん。吸うか?」

「私に禁煙させたいんじゃなかったんですか?」

「キツい時には、いい薬になる」

「……身体には毒ですけどね」


 葛城はぼそりと毒づきながらも、差し出された一本を受け取った。

 伊勢が差し出した火が、闇の中で小さく揺れる。

 二人の口から、細く白い煙が吐き出された。


「っ……この銘柄……」

「変えたんだ」


 驚く葛城には目もくれず、伊勢は夜空を見上げた。


「……で? 夜宵のことか」

「……かなりの猛毒だったそうです。解毒が間に合うかどうか」

「夜宵は助かる。信じて待ってろ」


 そうですね、と葛城は力なく答えた。


「いつまで引きずってるんだって話ですよね」

「まだ一年だ。そんな簡単に癒える傷なら、最初から傷ついたりしねぇよ」

「……わかってるつもりなんです。もう陸翔はいないって。でも、いつまでも彼の影を追ってしまう」

「俺もだ。……タバコの銘柄を変えたのは一年前だ」


 伊勢の告白に、葛城は煙を目に染ませながら頷いた。


「陸翔の銘柄……ですよね」

「ああ、俺には軽すぎる」


 紫煙の向こうに、一年前の騒がしい日常が浮かび上がる。


『うっわー、二人ともまた吸ってんのかよ! 老けるぞー!』

『陸翔って本当にデリカシーのないよね!?』

『なっ! 悪かったな! ……冗談だよ、空。身体に毒だからほどほどにしろよな』

『はーい』

『おっし、お前ら!飯でも行くか!』

『蒼さんのおごり?』

『ったく……まぁ、ガキには払わせねぇよ』

『『やった!』』


 ――パチン、とハイタッチを交わしたあの手の感触が、まだ残っているような気がした。


「あーあ。せっかく禁煙してたのにな」

「勧めて悪かったな」

「……いいえ。少し気分が晴れました」


 葛城は吸い殻を消し、立ち上がった。


「あと一時間半か。久々にラーメンでも行きますか? 蒼さんの奢りなら」


 伊勢は軽く笑いながら反応する。


「……ああ。ガキには払わせねぇよ」



 - - - - -



 遠ざかる足音を見送ってから、柱の陰から二人を見ていた影――花谷がゆっくりと歩み出た。

 手元の端末が着信を知らせる。


「……もしもし」

『夜宵くんの話だけど。……勧誘したわ、例の件』


 通話の主は辻宮真琴。

 彼女から、夜宵が「僕で力になれるのなら!」と答えてくれたと聞き、花谷はほっと胸を投げ下ろす。


「なるほどね。いい戦力だ」

『……そうね。また連絡するわ』


 電話を切り、花谷は手すりに肘をかけ、夜の街を見下ろした。

 自分たちを取り巻く環境が、全てを飲み込もうとする「何か」に侵されていく感覚。

 その邪悪な影は、すぐ傍まで来ている気がした。


「……この事件、早く終わらせたいな。嫌な予感がする」

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