八方美人

@harumaki8888

日常と非日常

 八方美人。人に囲まれることでしか己の価値を確かめられない者である。


 笑顔は常に顔に貼り付けられ、口から吐かれる言葉は滑らかに流れ、人間は警戒しているつもりのまま、彼らの周りに集まってゆく。


 まるで磁石に引き寄せられた、形を失った金属片のように。


 そのため、この種の人間にとって、一人一人を大切にする必要は存在しないのである。


 至極当然のことだ。人はホッチキスを使う時、手のひらに力を込めるたび、紙を束めた金属棒の運命を想像するだろうか。

 そのような〝貧乏くさい〟思考など、彼らの瞼の裏にさえ浮かばないのである。


 だが、人は人である。時に、熱が冷めてもなお、体のどこかに火傷のように残り続ける一人が現れる。

 

 八方美人は、それを失った時もなお、持ち前の笑顔を浮かべ、「代わりはいくらでもいる」と考えることができるのか。


        


 日常はいつも通りであった。


 相変わらず周りには人が存在し、声を掛ける度に笑顔を得る。


 私はいわば政府のような存在である。他人から愛を徴収し、それに飢えている人々も含めて再分配する。

 

 私も少しばかり摘むのだが、空から星が一つ消えたところで、人はそれを気にしないように、その程度他人が思慮するほどでもない。


 一人部屋にいる時、ふと目線を逸らす。


 想像通り、壁に掛かる日時の書かれた紙には、雑にペンが殴り書きしてあり、白と黒の部分が同じになるほど、多くの文字が書き連ねてある。


 それを映した瞳は、少しばかり形を変え、また手元の本に戻った。


 一途ほど美しいものはない。


 本の一節がふと目に入った。美しいという言葉に疑問を覚える。


 一途の何が美しいものか。


 たった一人しか手に入れられなかっただけではないか。

 それとも、一人以外を不幸にし、たった一人を幸せにすることが美しいというのか。


 静かに鼻で笑い、本を閉じる。


 この本を閉じた時、一人の顔が浮かんだが、長くは続かなかった。


 この本はつまらない。次の本に行くとしよう。


 瞼が赤く、熱を帯びているのを感じた。

 窓からの光が、そのまま部屋に差し込む。


 私はカーテンを睨み、朝支度を始める。

 朝ごはんを作り、家族に一声掛け、出掛ける。


 これもまた、私の役割の一つである。


 学校に着けば、靴をまだ脱ぎ捨てている最中であるというのに、他人に呼びかけられ、少しばかり眉間が動くが、それに応じる。


 手も足もそのまま脱ぐ動作を続け、顔だけを向けて笑顔を向ける。


 靴はまだ片足だけ、私の足を包み込んでいるのだが、話を終えると、人は笑顔で去っていく。


 靴を手に持ち、自分の名前の書かれた薄汚れた木の箱を開ける。


 途端、床に何枚かの紙が崩れ落ちる。


 眉間がまた少し動いたが、その紙を拾い上げ、木の箱を閉じながら鞄にしまう。


 学校が終わるとまた、呼び出された。

 私はいつも通り校舎裏へ向かい、声を掛ける。


 私が声を掛けると、相手は一瞬吃るが、数秒にも満たない沈黙の後、整え直すように言葉を吐き出した。


 私はそれに答える。


 相手の表情は一度だけ沈むが、すぐに元に戻り、走り去っていく。

 相手は振り返らない。


 相手が立ち去った後、待っていた人に声を掛けた。

 廊下を歩き、帰路についた。


 次の日も、その次の日も、多くの笑顔を目にした。


 私が多くの人を笑顔にしてきた。その事実だけが残ったのである。


 私はある時を境に、これを〝役割〟だと考えるようになった。




 私の日常がまた始まった。

 朝から夕方まで何一つ変わりはしなかった。

 役割もまた、滞りなく果たした。


 他人に話しかけられ、笑顔を振り撒いた。

 他人に話しかけても、笑顔を振り撒いた。


 その際、何を話し、何に笑ったのかは覚えていない。


 他人に呼び出され、向かった。

 他人を呼び出しては、待った。


 その際、何の用の呼び出しだったのか、何の用で呼び出されたかは覚えていない。


 待っている間、私はポケットに手を入れ、確認した。

 一通り弄った後、すぐに手を出した。


 そして私はいつも通り相手に返答をし、門の方向を一目見た後、待っている人に声をかけようとした。


 しかしその必要は、無くなっていた。


 その後、私は廊下を歩いた。

 夕日を私の手のひらで隠した。

 血潮が浮き、赤く見えた。

 私の手が盾となり、光という鋭い刃から、私の瞳を守っているのだ。


 気づけば、誰かが隣に来る前提で歩調を緩めていた。


 しかしその必要は、無くなっていた。


 また次の日も私は役割を果たした。

 そのはずだった。


 それでも、他人に言葉を吐き出そうとするたびに、喉に何かが引っかかる。


 それが何なのか確かめようとすると、顔から笑顔が剥がれそうになるため、私は考えない。




 平穏な日常がまた終わる。

 静かに、いつも通り。


 しかしどこか、違和感を覚える。

 顔から、笑顔が剥がれそうになった。

 誰にも見られないように、視線を落とす。


 夕日が、私の体に差す。

 普段は隣の人の影に隠れ、見えないはずの光が、今、私の体を鋭く赤く染める。


 皮膚の上で血潮が波打つように浮かび、指先まで熱を帯びた。


 手のひらを前で組む。

 そして、硝子の容器を扱うように慎重に、そして丁寧に、そっと離す。


「俺には……お前だけだったのにな」


 瞬間、あの声が廊下に響いた。

 振り返れば、その姿はもう、何処にもなかった。


 ほんの一瞬、笑顔が剥がれる。

 しかしすぐにまた笑顔を形作る。

 誰にも見せることのない、冷たく硬質な笑顔を。


 今日もまた、日常が終わる。

 それだけである。

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