黄昏、少女はまだ名前のない恋をする
立華アイ
第1話 夕暮れの商店街
蝉の声が細くなって、代わりに草むらのどこかで鳴く虫の音が目立ち始めると、夏がひとつ年を取ったように感じられた。
西の空は茜色に染まり、商店街の看板の影を長く地面に引きずらせている。
アーケードの下、裸電球がぽつ、ぽつと灯りはじめる。まだ完全には夜になりきれず、昼の名残を抱えたままの中途半端な時間。
人々の話し声と、店先のラジオから流れる歌謡曲が、ゆっくりとした波のように往復していた。
――あなたを想えば、胸の高鳴り……
聞き覚えのある歌が、小さなスピーカーから流れ出す。
そのメロディに紛れながら、真知子は自転車のハンドルを片手で押し、アーケードの中央を歩いていた。
白いブラウスの袖を少し折り、学校指定のスカートの裾がふわりと揺れる。
鞄の中では、授業中に回して読んだ雑誌と、小さな手鏡、それから――安物の口紅が隠れるように入っていた。
(バレたら、怒られるかな)
そんな考えが一瞬よぎるが、誰かに見せるつもりもない。
ただ、放課後の鏡の前で、少しだけ背伸びをしてみたいだけ。
それだけのことが、この頃は妙に心をくすぐるのだった。
乾物屋の店先からは、煮干しと醤油の匂いが広がる。
氷屋のポスターには、もうすぐ終わる夏の名残のように、青いかき氷の絵が貼られている。
「おう、真知子ちゃん。今日も早いねぇ」
声をかけてきたのは、肉屋のおばちゃんだった。
ふくよかな腕で、まな板の上の肉を手際よく叩いている。
「こんばんは」
軽く会釈をして通り過ぎようとすると、
おばちゃんは、まな板を叩く手を止め、少し顔を寄せた。
「最近、夜遅い日があったろ。お母さん、心配してたよ」
「……そうですか」
笑顔で返したつもりだったが、頬が少しだけこわばった。
ほんの世間話のようでも、その一言は、胸の奥で小さくひっかかる。
誰が、どこまで知っているのか。
自分のことが、どんなふうに見えているのか。
そんな考えが浮かぶのは、いつからだろう。
喫茶店「ひばり」の前で、真知子は足を止めた。
磨かれたガラス越しに、淡い灯りに照らされた店内が覗ける。
丸いテーブル、シンプルな椅子、煙草の煙がゆらゆらと漂っている。
常連らしい男の人が新聞を広げ、奥の席では主婦たちが声を潜めて笑っていた。
カラン――。
ドアが開き、コーヒーの香りがふわりと外へこぼれる。
店の奥から、ママが気づいて手を振った。
「あら、真知ちゃん。寄っていかないの?」
「今日は……ちょっと急いでます」
「そう? またおいでよ。アイスコーヒー取っとくからね」
笑顔で会釈しながら、自転車を押して歩き出す。
背中に、かすかに漂うコーヒーの苦い香りがついてくる。
(寄りたいな)
ほんの少し、心の中で呟きながら、
真知子は、ゆっくりと家へ向かう道へ入った。
夕焼けが、やがて薄紫に溶けていく。
アーケードの外へ出ると、空は広く、遠くの山の稜線がくっきりと見えた。
角を曲がると、急に静かになる。
古い家が並ぶ通り。洗濯物が風に揺れている。
玄関の前に自転車を止め、鍵を差し込む。
金属がこすれる音が、やけに大きく響いた。
ドアを開けると、ひんやりとした空気が迎える。
靴箱の上には、新聞と折り込みチラシ。
並ぶ靴は二足だけ。
そこに足りない一足が、何より雄弁に――家の静けさを語っていた。
「ただいま」
声を出すと、奥からかすかな返事が聞こえた。
「おかえり」
台所へ向かうと、母・とみが鍋の前に立っていた。
薄いエプロンの紐が、腰の後ろで細く結ばれている。
湯気の向こうで、背中が少し小さく見えた。
「手、洗っておいで」
「うん」
洗面所の鏡に映る自分の顔を見て、真知子は瞬きをした。
少し日焼けした頬。
学校の友達に「大人っぽくなったね」と言われたその言葉が、また胸の奥で灯のように揺れる。
(ほんとうに?)
鏡に向かって、そっと微笑んでみる。
でもすぐに恥ずかしくなり、水の音でそれをかき消した。
居間のテーブルには、茶色い封筒が二つ置かれていた。
電気代と書かれた請求書、そして、差出人の名前のないもう一枚。
とみが気づき、慌てたように封筒を重ねた。
「これは、いいから」
短く言って、視線を逸らす。
その仕草の中にある、言葉にならない重さ。
それを感じながらも、真知子は何も聞かなかった。
(また……)
気づかないふりをするのは、慣れた。
触れたら、きっと壊れてしまうような気がしたから。
夕食は、煮物と味噌汁と、焼き魚。
二人で向かい合って座る食卓は、どこか事務的だ。
「明日、早いの?」
「うん。掃除当番だから」
「そう」
それきり、会話は途切れた。
テレビの音だけが、部屋の隅で静かに響く。
食器を洗い終え、部屋へ戻る。
窓を少し開けると、外の空気がひんやりと頬を撫でた。
遠くで犬が吠え、商店街のラジオがニュースへ切り替わる。
真知子は机に肘をつき、頬杖をついて外を眺めた。
夕暮れの明かりが、ゆっくりと夜の色に飲み込まれていく。
ガラスに映る自分の顔が、少しだけ大人に見えた。
(この町で、私はどうなるんだろう)
胸の奥に、小さなざわめきが生まれる。
不安と期待と、説明のつかない焦り。
安い口紅を、そっと机の引き出しから取り出す。
キャップを開け、赤い先端を眺めると、
胸が、少しだけ熱くなった。
(まだ、いいか)
また引き出しに戻す。
自分でも理由はわからない。
窓の外、街の灯りが一つ増え、またひとつ灯る。
真知子は、小さく息をついた。
――そして、知らないうちに決まっていく。
自分の行く先も、心のゆく先も。
そのことに、まだ気づいてはいなかった。
黄昏、少女はまだ名前のない恋をする 立華アイ @kisaragikira
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