「今・ここ」を祝うヒト
古 散太
「今・ここ」を祝うヒト
一
自分の人生に満足しているヒトは、世の中にどれぐらいいるだろうか。
学校に行ったり仕事をしたりという社会生活をする中で、ヒトは真実の幸せに気づいているだろうか。
幸せはヒトそれぞれ。たしかにそうである。多くのヒトが自分の五感で体験できる範囲の、モノやコトだけに幸せを見ているのだから。
五感で体験できるモノやコトは、自分の目に見えるもの、耳に聞こえるものなどを中心に、他人であってもその確認をすることができることがほとんどである。
早い話が、科学的な証明や証拠が用意できる体験、ということになる。
例えばあなたの誕生日パーティーが催される、ということになったとしよう。何人かの気心の知れた友人や仲間たちが、各々プレゼントをもって集まってくれて、誰かがお祝いのデコレーションケーキが用意してくれて、そのケーキをみんなで食べるだろう。
このとき、あなたが幸せを感じるポイントはどこだろうか。
パーティーそのものだろうか。集まってくれたヒトたちだろうか。皆が贈ってくれたプレゼントだろうか。友人が用意してくれたケーキだろうか。ケーキを食べたことだろうか。そのときの盛り上がった会話かもしれないし、そこにいた愛する人の存在かもしれない。
事実として、すべてのポイントに幸せは存在している。ただ勘違いしがちなのは、そのモノやコトそのものだと信じている思考である。
例に挙げた誕生日に、あなたの五感で体験できたさまざまなモノやコトは、文字どおり、ただの物質と現象である。しかも現象は物質、あるいは科学的な基があるものに限定されている。
この世は間違いなく「諸行無常」である。すべては変化しつづける。万物流転と言ってもいい。ひとつのモノが同じまま存在することはない。
ヒトは生まれたときから成長と老化という言葉を使い分けはいるが、劣化しつづけるように出来ている。すべての物質も同じように、経年劣化という宿命を背負っている。科学的な現象として考えても、同じようなことが繰り返し起きていても、それはそのときだけのことであり、今現在のところ永久機関は存在していない。つまり永遠は存在しない。つまり、すべては劣化しつづけるのである。
しかし、すべてのポイントに幸せは存在している。といっても、すべてのポイントそのものではなく、潜在的に存在している共通項があるということだ。
それは、あなたの「気分」である。「気持ち」でも「感情」でもいい。ここから先は「気分」という言葉を使用する。
あなたの誕生日で体験したことのすべてにこそ、幸せという気分が存在している。
誕生日パーティーに楽しさや面白さを感じ、友人や仲間が集まってくれたうれしさを感じ、プレゼントを贈られたうれしさを感じ、用意されたデコレーションケーキに喜びを感じ、ケーキのおいしさに喜びを感じている。
すべてに共通しているのは「感じる」ということ。これが幸せの正体である。
幸せとは、あなた自身が感じている「気分」であり、モノやコトはあくまでもそこに至る補助的な役割を担っているだけである。
お金、とくに札束が手に入ってうれしいと感じたとしよう。しかし次の瞬間、その札束が世界のどこでも使えない紙になったとしたらどうだろう。きっと落胆するだろう。この場合、その札束を使って何を買うか、何をするのかという部分に幸せを感じているだけで、札束そのものにうれしさや幸せを感じているわけではない。
どれだけうれしいモノやコトであっても、時間の経過とともに劣化していくのは自然の摂理であり、誰も避けたり逃げたりすることはできない。ファーストインパクトの喜びがどれだけ大きくても、それを記憶しているの脳がモノである以上、それもまた劣化していくのである。
そう考えると、幸せを維持することはできない、ということがわかる。何かを手に入れたからと言って、永遠に幸せであることはあり得ない、ということだ。
これを日常生活に当てはめると、学校でいい成績を維持していること、部活で素晴らしい結果を残したこと、仕事で出世したことや会社の規模が大きくなったことなどが、幸せとして感じられるのは、そのときだけである、ということになる。
物質主義の世界で、物質や物理現象などによって得られるものは、まさにうたかたの夢、浮世の夢でしかないのである。
とは言え、モノやコトによるうたかたの夢という体験から得られる幸せは、ひとまず幸せであることは間違いない。瞬間であったとしても、幸せを感じることができているのであればそれは幸せである。
ただそれは、長持ちしないというだけの話だ。
二
一時期の幸せが長持ちしないのは、その体験が一瞬のことだからである。
例えば学校で成績優秀であったとしても、学校を出てしまえば、それを上回る猛者たちが手ぐすねを引いて待っているかもしれない。会社で出世できたとしても、ちょっとしたミスで降格させられるかもしれない。
物質的な現象によって得られる幸せが存在しないわけではない。しかし、幸せを感じ取る側のヒトがその本質に気づいていないため、あくまでも物理現象の表面だけを幸せだと信じてしまい、その結果として喜びやうれしさが一時的なものになってしまうのである。
物理現象によって得られる幸せはモノやコトであるがゆえに、すぐに新しいモノやコトによってかき消されてしまう。
先ほどの誕生日パーティーを例にあげよう。デコレーションケーキは多くの洋菓子店で作っているが、「このお店ではなく、あのお店のほうが」といった、そのときの評判や情報によって目移りする。集まってくれた友人たちも、時間の経過とともに仲違いしたりすると、「このヒトではなく、あのヒトのほうが」と目移りする。
諸行無常である物質世界において永遠はなく、かなりの頻度で目移りする。さらにモノであれば、次々に新しいモノが生みだされ、また目移りするかもしれない。すこしでも良いモノを、すこしでも新しいモノを、と考えるヒトは、いつでも一定数以上いるものだ。
目移りを繰り返しているあいだ、満足することはなく、ただひたすらに目移りした先を追いかけ続けることになる。追いかけた先にたどり着いたころ、また新しいモノが視界に入りそれを追いかける。やはり満足している時間はほとんどない。
早い話、「物質に幸せを求めてしまうとキリがなくなる」ということである。
モノに幸せを求めても、モノはかならず劣化していく。またその時代ならではのモノということもある。それらを手に入れて、ほんの一瞬だけ満たされた気持ちになることができても、次のモノが視界に入ったときその満たされた気持ちは、あっという間に渇望に変わる。つまり「あれが欲しい」ということになるのだ。
コトでも同じことが言える。何かの現象、例えばうれしかったことや面白かったことなどを体験しても、その多くは表面だけのうれしさや面白さであり、それが人生を貫いてうれしいことや面白いこととして維持できることは稀である。
とくに精神的にほどほどの大人になってきたころというのは、知識や知恵も増えてきて、自分のことを大人だと思ってしまう時期がある。このぐらいの時期から、印象に残るコトというのは極端に数が減っていく。
子供のころは、まだまだいろいろな面において知らないことのほうが多く、体験するすべてのことを新鮮な気持ちで受け止めている。年齢を重ねて、すこし世の中がわかってきたような気がし始めるころには、多くの体験が済んでしまっているので、子供のころのような新鮮な気持ちで体験を味わうことができない。つまり、印象に残らなくなってしまうのである。
そうなると、幸せを求めようとすれば、イコール新たな体験ということになり、つねにこれまでに体験したことのないコト、簡単に言えば刺激を求めるようになる。
刺激にしても同じことで、一度体験したことは、二度三度はいいとしても、慣れてしまえば「いつもの体験」ということになり、そこから満足や充足を得られることはなくなる。そして目移りが始まり、もっともっとと刺激を探し求めるようになる。この状態で得られるものはけっして幸せではなく、一時の快楽と渇望感、ということになるのである。
日常を退屈だと感じているヒトの多くは、本当に自分が求めている喜びや楽しさではなく、できるかぎり簡単に手に入る幸せを求める傾向があるように思う。おもちゃのピアノと本物のピアノでは、その音、タッチ、余韻などがまったく違うように、演奏してみて手に入る感動もまったく違ってくるのは明らかである。
もちろんおもちゃのピアノも幸せの一端ではある。しかし簡単に手に入るものは、簡単に過去に変わってしまう。簡単に過去になってしまうものは思い出にもならず、記憶にも残りにくい。つまり自分の歴史上、記憶の空白時間を生みだす、ということになってしまう。本物のピアノを弾くようになれば、おもちゃのピアノは最初のインパクトを残して、そのほとんどの記憶が消えてしまうだろう。
目の前を流れるものに幸せを求めることはお手軽である。わりと簡単に手に入れることができ、幸せを感じることができる。しかしそのループの中に入れば、あとはさまざまな企業戦略やメディアによる情報に振り回され続けることだけに時間を費やすことになる。それはあなたの「もっと欲しい、もっと体験したい」という渇望を引き出すようにできているのだから、長続きする幸せなど、どこにも存在するわけがないのだ。
三
ヒトの欲求に際限はない。生きているかぎり欲求は続く。
ただ本来であればそれは、物質的な欲求ではなく、生きていれば誰もが望むもの。
ひとつは「平穏」、もうひとつは「幸福」である。
この二つの要素が揃っていれば、人生は満たされたものになる。
「平穏」であること。それはすべての生き物が潜在的に求めているものではないかと思う。ヒトはもちろんのこと、動植物で自らの意志があるものは、トラブルやアクシデント、脅威などがないことを望む。
野生の動植物は、「今・ここ」を生きることで精いっぱいである。食物連鎖の頂点であれば、天敵はヒトということになるが、多くの動植物には天敵がいて、いつ襲われるかわからない。
そんな状況の中で子を産み、育てることは本当に難しく、大変な作業であることは想像に難くない。魚や虫などは、捕食者によって子孫の数が減ってしまうことを前提としているため、進化の過程で卵を数多く産むようになった。ウミガメの産卵をテレビなどで見かけることがあるが、孵化して砂浜に出たあと、多くがカモメなどによって捕食されてしまう。成体になれるのは数千匹に一~二匹程度である。
これほど厳しい環境に生きていれば、「平穏」であることがどれだけ重要なことであるかがわかるのではないだろうか。
ヒトは社会的なサービスなどにより、日常の多くが守られている。各インフラをはじめとして、公共のサービスが行き届いているので、ウミガメの孵化後のようなことを体験することはほとんどない。それゆえに、「平穏」という満たされた状況を認識する機会は極端に少ない。ときどき、病気やケガなどをしたときにその末端を感じるぐらいではないだろうか。
平穏という状況は、特別にうれしいことや面白いことがあるわけではない。しかし同時に、トラブルやアクシデントなどもないため、つらいとか苦しいといったネガティブな気分になることもない。プラスも少ないがマイナスがないのである。
あまり気づかれないことだが、刺激を求めるヒトも、その根底には平穏な日常が担保されていているからこそ、刺激を求めることができるのである。
そう考えると、すべてのものを差し置いても、人生の土台に平穏がある、というのが大前提になってるのではないだろうか。
最初にも示したが、幸福は気分である。
それは、感情があなたにとって都合のよい状態になっている、ということである。
感情が都合のよい状態になるためには、元々の状態がフラットか、悪くてもほんのすこし良くない、ぐらいにしておかなければならない。どっぷりとマイナスの感情では、すこしぐらい都合が良くてもプラスには届かないためだ。
元々の感情がフラットであるには、日常が平穏でなければ難しいだろう。平穏無事な日常を生きているからこそ、幸福感を味わうことができるということだ。
あなたが大切にしていたものが壊れたり失ったりして落ち込んでいるとき、ちょっとやそっとの気分の良さで、落ち込みから脱出できるだろうか。おそらく、どれだけ気分が良くても、失ったものへの思いのほうが歴史や記憶、思い出がある分、気分が良くなることがないのではないかと思う。
つまり、どれだけ特別に良いことがなくても、自分にとって都合の悪いことがなければ、平穏と言える状態になっていて、日常が平穏であるなら、ささいなことでも幸福感を味わえる準備ができている、ということになる。
平穏と幸福は、生き物が自然に望む欲求であり、肉体的・精神的に、自分の知らないところで求めている。
多くのヒトにとってそれが当たり前になっている。それだけ社会的なサービスなどが行き届いているという証拠と言えるだろう。しかしこの状態にあぐらをかいてしまうと、目先を流れる派手なモノやコトに引っ張られて、手に入れては目移りし、手に入れては目移りし、というような渇望のループに巻き込まれていく。
日常の平穏と幸福に気づかずに、次々に目移りして追い求めてしまうと、欲求は欲望になる。
欲望が悪いわけではない。すべての生み出されるものの根っこには欲望があり、それが実を結んだ結果である。ただそれをコントロールできない思考は、ヒトを幸せにできない。
欲望は、終わりのない渇望の総称だからだ。
四
すべてのヒトとは言えないかもしれないが、多くのヒトは子供のころ、幸せだったはずである。
社会的な話ではない。親がどうとか、周囲の人がどうとか、生まれ育った環境などはまったく無視して、あなたの行動によって得られた体験をについて思い出してみてほしい。
この世のことなどまだ何もわかっていないころは、経済的なことや世間体のようなものもいっさい関係なく、自分の思うままに行動しようとしていたはずだ。思うままに行動できたかどうかは別にして、コトを起こそうとしていただろう。
子供はそうやって、自らの体験をもとに、生きる知恵を学んでいく。時にはケガをしたり、友達とケンカしたりしながら、何がダメなことであるか、何が危険なことなのか、そういったことを学ぶのである。逆の視点で考えれば、子供は知りたくてしょうがない、という衝動を持っていると言える。
知らないこと、わからないことだらけの世界で、興味を持ち、好奇心を煽られて、自分なりの実験や観察を繰り返しながら、自分のこと、この世のこと、社会のこと、自然のことなどを、自ら主体となって学んでいく。
そのように、自ら学びを欲し、体験を重ねていた子供のころ、ヒトは誰もが充実して生きていたはずである。興味や好奇心のおもむくままに行動し、体験して、すべてではないにせよ、「これはこういうモノである」とか「あれはこうなっている」といった知りたい欲求を満たすことができたからだ。
それは、喜びやうれしさ、楽しさや面白さといった、幸せの原点、あるいは本質を手にしていた、とも言える。
年齢を重ねていく中で、さまざまな知識などが増えていく。そうすると当然だが欲求の種類も増えていく。そしていつのまにか、本当の喜びや楽しさを横に放り出してしまい、お金や時間、他人によってもたらされるかもしれない欲求に変わってしまっている。
お金があれば手に入る、時間があればできるなど、例えるなら、宝くじに当たればとか、運が良ければなどといった欲求が主になり、子供のころ体験してきたはずの自分の体験こそが幸せを手にする切符である、ということは忘れてしまっている。
裏を返せば、誰もが幸せがどんなものか知っているはずなのに、そうしようとはしなくなっている、と言えるかもしれない。
社会という物質至上主義の世の中では、目に見えるものがすべてであり、誰もがそうしているのでそうせざるを得ない、ということもあるだろう。あるいは、目に見えるモノであるお金だけが、自分に幸せを運んでくると信じてしまっているのかもしれない。そのせいで、本来であれば「今・ここ」で体験しているはずの喜びや楽しさなどに、幸せを感じられなくなってしまっているのである。
目に見えるものには限界がある。自分にできること、自分に収集できる範囲、極端な話、自分の人生にも終わりがある。しかし、目に見えない思考である欲求や欲望には、いっさいの制限や限界がない。
限界のあるものと限界のないもののあいだには大きな溝があり、その幅が広ければ広いほど、渇望の思いは強くなっていく。渇望が強ければ強いほど、溝の幅はさらに広がって、より渇望するようになる。そんなことを繰り返しているから、日常にあふれる幸せが視界に入っていても、気がつかなくなってしまう。溝の先の欲求や欲望ばかりに焦点を合わしているので、足元にあるものに気づかないのである。
子供のころは、知らないからこそ足元に視線を落とし、いつも幸せに生きていたはずである。知ることを喜び、わかることに感動していたはずである。だとしたら、年齢を重ねた今であっても、足元を見つめることができるはずである。子供にできて大人にできないことはない。
年齢を重ねていく上で、「自分は知っている」という思い込みが生まれる。自分なりに学んだことや、自分の人生体験のみで、すべてわかったような気がしているだけで、実は何も知らない、ということを知らない。その結果、新しい視点や奇抜な発想など、子供が得意としていることができなくなっているだけである。
実際に一般的成人が知っていることなど、たかが知れている。専門の研究家などであっても、研究対象以外のことは、知らないことのほうが圧倒的に多い。まして、人生の創造の仕方などに至っては、オカルトと一笑に付しているヒトも多くいる。一笑に付すのは個人の自由だが、自分の知らないことをオカルトとして片づけてしまっていては、それ以上の伸びしろがないということも、知らないのと同じである。
興味や好奇心こそが、何が幸せかを思い出すトリガーなのだ。
五
子供のころ、未知であったものを知る、触れるという体験は、「今・ここ」に生きているヒトであれば、誰もが体験している。つまり、幸せの根源は体験しているということである。
その当時、渇望していたものはいつも自分の身のまわりであったはずだ。自分の目の前に今あるもの、そして自分の手が届く範囲にこそ、幸せが散在していたのだ。
周囲の大人や学校教育によって、科学的な思考に染められていく過程で、いつの間にか、映像や活字などだけが真実となり、自分の目の前や、手の届く範囲を見なくなっていく。それを繰り返しながら大人になったとき、幸せはモノやコトだけになってしまっているのである。
結婚して子供が生まれたときや、まだ幼いペットなどと暮らすようになったとき、その瞬間だけは本来の幸せを感じているかもしれない。それも時間の経過とともに当たり前の日常になる。当たり前になってしまうと、結局またモノやコトに幸せを求めるヒトが現れる。
物質的な欲望を追いかけ続けて、歯を食いしばりながら踏ん張りつづけ、ため息とストレスに取り囲まれて生きている自分に気づく。幸せだろうか。
ヒトは生まれながらに、目には見えないが、確実に存在している何かに祝福されている。
スピリチュアルであれば「創造主」や「大いなるすべて」と呼ばれ、宗教であれば「神」や「仏」と呼ばれる存在が出てくるが、ここではあえて「縁」という呼称を使おうと思う。
「縁」は生まれる前から、すべての人とつながりがある。どこの誰を親として自分がこの世に誕生するか、それは「縁」である。どこに住んでいるかによって、どこの小学校に入学するかが決まる。私立であれば、五歳や六歳の子供に決定権はなく、おそらく親が決めるのが一般的だろう。親がどんな思考をしてその私立に自分を入学させようとするのか、それも「縁」である。
そうやってさまざまな「縁」でのつながりに引き寄せられるようにして時間が過ぎていき、「今・ここ」にあなたが存在している。あなたの人生のすべては「縁」に引き寄せられた結果であると言える。
「縁」が独立して勝手にあなたを引き寄せているのではなく、あなたの思考や気持ちの在りかたなどによって、どの縁とつながっていくのかが決まっている。カフェに行って、ブラックコーヒーが飲みたいのにカフェラテとを注文するヒトはまずいないだろう。自分の意志や意図があって行動をスタートさせる。そのとき、「縁」がつながって、あなたの行きたいカフェに足が向かい、あなたの飲みたいと考えているブラックコーヒーを注文しているのだ。
それでも「縁」がつながらなければ、あなたは途中でカフェに行くのをやめるかもしれない。カフェに到着しても臨時休業かもしれない。カフェが営業していてもブラックコーヒーではなくカフェラテを注文するかもしれない。「縁」がつながらなければ、あなたはブラックコーヒーを口にすることはできないのである。
あなたが日々の中で、無意識にしている行動はすべて「縁」によってつながりを持っているから、その結果にたどり着けるのである。「縁」こそ奇跡なのだ。
子供のころは、「無理」とか「できない」と考える前に行動を起こしていた。だからこそ、多くの欲求に対して望んでいる結果を体験することができた。それがなまじ知識が増えて、行動する前から「それは無理」とか「できるわけがない」という予測だけで否定するようになったことで、その欲求に対する結果を見ることができなくなってしまっているである。
さらに言えば、子供のころの欲求は目の前のこと、手の届く範囲のことであったはずだ。それがインターネットやテレビなど、メディアを通して目にしたものまで、自分の目の前のことだ錯覚している。それはけっして目の前のことではない。昭和の時代の感覚で言えば、図鑑の中のようなものだ。図鑑で恐竜を観たからと言って、生きた恐竜を見られるわけではない。
自分の身の丈を知ること。自分の手の届く範囲を知って幸せを求めれば、多くの場合、簡単に幸せを体験することができる。それは図鑑の中ではなく、目の前、手の届く範囲。つまり自分の足元を見ることになるからだ。
あなたが「今・ここ」に生きていること。それはすでに祝福された人生の真っ只中にあるということを覚えておいてほしい。
あなたの足元にはいつもたくさんの幸せが転がっている。子供のころは発見していたはずのささやかな幸せを積み重ねていく。自分の身の丈をきちんと理解していれば感性は磨かれていく。その中でさまざまな「縁」がつながり続けたことで、さまざまな体験をし、その中にあるうれしさや楽しさを見つけながら、「今・ここ」に存在しているのだ。
感性を磨くのに制限や限界など存在しない。今すぐに目の前にある幸せを探してみてほしい。最初こそ、なんでもないことと思い込んでしまって見過ごしてしまうことがあるかもしれない。
しかしいずれは、それがたまたまや偶然などではなく、「縁」によってあなたの前に運ばれてきたモノやコトであることに気づくだろう。そして、運ばれてきたモノやコトの中に隠れている幸せを、簡単に見つけられるようになっているはずである。
幸せは、モノやコトの先に隠れている。モノを手に入れた、コトを体験した、それはほんの一瞬の夢で終わるが、そこにある幸せを見つけたとき、その気分や感謝の思いは、永久保存の幸せに変わる。もちろんあなたがそう決めたのなら、という前提はあるが。永遠に変わらないものは、自分の気分や思いだけなのだ。
そうしてあなたの中に幸せが集まって、本質的な人生を生きられるようになったとき、あなたはあなたが生きていることを祝福してほしい。
あなたの存在なしに幸せは味わうことはできない。あなたの存在なしに「縁」はつながらない。あなたの存在なしに誰かが幸せを体験することはできない。
つまり、あなたが「今・ここ」に生きていること、存在していること。それがこの世の、どこかの誰かへの祝福になっているということを知ってほしい。
完
「今・ここ」を祝うヒト 古 散太 @santafull
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