プロローグ
「――エルザ・ヴァン・ド・ラ・モット。貴様との婚約を、今この場をもって破棄する!」
鼓膜を突き刺す高周波。王太子エドワードの叫び声は、シャンデリアの水晶が擦れ合う微かな不協和音をかき消すには十分すぎるほど下品だった。
視界がちかちかする。王宮晩餐会、五百の蝋燭が放つ熱。きつい香水の匂いが混ざり合い、胃の奥を不快にかき回す。エルザにとって、この空間は豪華なパーティーなどではなく、ただの「情報の暴力」だった。
「……ええと。声が大きいです、エドワード様」
エルザは耳を塞ぎたい衝動を抑え、無機質に、しかし正確に答えた。
「それから、婚約破棄。承知しました。その言葉、公的な撤回不能な意思表示と受け取ってよろしいですね?」
「なっ……! 貴様、まずは謝罪だろうが!」
エドワードが顔を真っ赤にして詰め寄る。彼の口から飛ぶ唾液の軌道、血管が浮き出た額の皮膚の赤み、周囲の貴族たちが漏らす「クスクス」という粘り気のある嘲笑。すべてがエルザの脳内で等価なデータとして処理される。
「謝罪。必要性が理解できません」
エルザは首をかしげた。
「私が、あなたの言葉を文字通りに受け取りすぎるからですか? それとも、先ほどあなたが仰った『空気が読めない役立たず』という評価に対してですか? 私はただ、あなたが『好きにしていい』と仰ったから、その通りにしたまでです」
「黙れ! 閣僚が集まる場で『陛下の髭に付いたスープは不潔だ』と指摘したのが誰か忘れたか! あれは指摘ではなく、私の顔に泥を塗ったのだ!」
「事実は事実です。放置すれば細菌が繁殖し、王室の健康リスクが……」
「これだ! これが貴様の救いようのない欠陥だと言っているのだ!」
エドワードが腕を振り上げる。エルザはその動きを予測し、重心を後ろにずらす。 彼女の脳(システム)は、常にフル稼働していた。他人の「意図」という曖昧なものは読み取れないが、物理的な距離、温度、筋肉の収縮――そういった「観測できる事実」に関しては、誰よりも速く、深く潜ることができる。
「エルザ」
冷たい声が響いた。エルザの父、モット侯爵だ。彼は娘を見ようともせず、ただ汚物を見るような目で床を見つめていた。
「お前のその、異様なこだわりには辟易していた。書類を整理させれば文字の傾きに拘泥して一向に進まず、社交に出せば失礼をまき散らす。我が家には、お前のような不注意と偏執を併せ持つ欠陥品は不要だ」
不注意。 そう、エルザはよく物を失くし、約束を忘れ、興味のない話の最中に意識が別の場所へ飛んでしまう。
(お父様、それは違います。不注意なのではなく、優先順位の付け方が貴方とは違うだけ。今の私には、壁にかかった絵画の剥げかけた絵具の成分の方が、あなたの説教より重要だというだけ)
もちろん、それを口に出せば火に油を注ぐことは分かっていた。だからエルザは黙った。
「今日、この場でお前を勘当する。……行け。どこで垂れ死のうと知ったことではない」
その瞬間。
エルザの胸の奥で、カチリ、とパズルのピースがはまるような音がした。 不快な香水の匂い。 耐え難い騒音。 自分を縛り付けていた、理解不能な「マナー」という名の鎖。
それが、今、すべて外れた。
「――自由」
ぽつりと、エルザの唇からこぼれた。
「……何だと?」
エドワードが呆気に取られたように聞き返す。
「今すぐ出ていけ。一刻も早く。……ああ、でもその前に、私の私物、特に北塔の倉庫に預けてある鉱石標本だけは、今夜中に持ち出させていただきます。それさえあれば、あとのものはゴミですから」
「ゴミ……!? この私との婚姻をゴミと言ったか!」
「言葉通りの意味です」
エルザはドレスの裾を翻した。 衝動が突き上げてくる。 今すぐ、あの静かな森へ行きたい。 誰にも邪魔されず、石の声を聴きたい。 あの魔力が歪んで流れる「欠陥品」と呼ばれた鉱石たちが、本当はどうなりたがっているのか、自分の手で証明したい。
「さようなら、皆様。皆様の『空気』とやらは、私には少し酸素が薄すぎました」
エルザは一度も後ろを振り返らず、晩餐会の重い扉を押し開けた。
夜の空気は冷たく、そして澄んでいた。 城を出る足取りは驚くほど軽い。普通の令嬢なら泣き崩れる場面だろうが、エルザの脳内ではすでに「生存戦略」のシミュレーションが始まっていた。
(軍資金は、ドレスの裏に縫い付けてある隠しダイヤが三つ。これだけで当面の機材は買える。まずは隣国の国境に近い、あの魔石の産地へ向かうべきね。馬車を拾うよりも、ここから一番近い飛竜便の受付へ――)
彼女は止まらない。 興味のあるものを見つけた時の、あの**「爆発的な多動性」**が今、彼女の背中に翼を与えていた。
「待ってください! エルザ様!」
背後から、一人の男が追いかけてきた。 王宮の隅で、いつも書類の山に埋もれていた地味な書記官。確か名前は、カイル。
「はぁ、はぁ……! あなた、正気ですか? 勘当されて、これからどうするつもりです」
「カイル様。私は正気です。むしろ人生で今が一番、視界がクリアです」
「……あなたは、いつもそうだ。皆が絶望する場所で、一人だけ別の真実を見ている」
カイルは苦笑しながら、手に持っていた一枚の紙を差し出した。
「あなたがさっき、勢い余って落としていった……いえ、放り投げた『北塔の倉庫の鍵』です。これがないと、あなたの『宝物』は持ち出せないでしょう?」
「ああ」
エルザは瞬きをした。 確かに。またやってしまった。 目的(魔石)に意識がいきすぎて、手段(鍵)を物理的に忘却する、いつもの不注意。
「ありがとうございます。カイル様、あなたはとても『有用』ですね。私の欠落を、今、完璧に補完しました」
エルザはカイルの手から鍵をひったくるように受け取ると、彼の目を見つめて言った。
「私と一緒に来ませんか。私はこれから、世界を買い取りに行くつもりです。私には、あなたのような『細部に気づく目』が必要です。あとの大きな流れは、私がすべて作りますから」
「……買い取る? 世界を?」
カイルは呆然とした。追放されたばかりの、一文無しの令嬢が吐く台詞ではない。 だが、エルザの瞳には、狂気ではなく、圧倒的な「計算」の光が宿っていた。
「ええ。エドワード様たちが守っているあの古臭い秩序なんて、たかだか十年もすれば私の魔石燃料なしでは維持できなくなります。彼らが私を追い出したことを後悔する暇もないほど、私は遠くへ行きます」
エルザは夜の闇の先、まだ見ぬ鉱脈を指差した。
「行きましょう。私の情熱(バグ)が、この世界の正解になる瞬間を見せてあげます」
月光の下、彼女の横顔は、どの宝石よりも硬く、鋭く輝いていた。
【第1話・完】
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