S
富士子ふみよ
S
夜のはじまりを告げるネオンの輝きを避けるように、私は街中を早足で歩いていた。繁華街を抜け、街角を曲がり、薄暗い路地に入る。
すぐに目に飛び込んできたのは、石造りの洋館だった。薄汚れたコンクリートの雑居ビルが並ぶ裏通りの中で、柱と彫刻で過剰に装飾された左右対称の館だけが、十七世紀の遺物のようだ。
私は店先で立ち止まり、頭上にある一枚板の看板を凝視した。瞬きのたびに、『Gastronomie LAGUNE』の文字配列が不規則に変わって見える。
私は目を瞬かせた。この店に来るといつもそうだ。口腔内のプディングのように、言葉が舌の上で滑らかに溶けてゆく気がする。
私は軽く頭を振ると、重い樫の木の扉を開き、店内へと足を進めた。
今回は広いエントランスホールとその中央に黒い螺旋階段が見えた。私は平静を装い、それを観察する。
階段中心にある太い柱周りを等間隔の踏み板が渦を巻き、その外縁をなぞるように、細い黒鉄の手すりが滑らかな曲線を描いている。視線を渦巻きに這わすと、上空で階段は唐突に行き先を無くしている。
モニュメントにしては大き過ぎる。そんな感想がふと浮かぶ。それは、この螺旋のすべてが黒い鉄素材なのに、枝葉を広げている捻れた太い樹木の姿と重なるからだろう。
現に視線を足元に落とすと、黒いカーペット上には無数の白い曲線が無秩序に広がっていた。その曲線を目で辿ると、階段の支柱に行き着く。それは大木から伸びた根のように思えた。
顔を上げると、部屋の右壁には三枚の肖像画が飾られている。
左端に、フロックコート姿で、鋭い眼差しの奥に強い意思を秘めた、獅子の
中央は、同じくフロックコートに口髭だが、先の男性とは異なり、柔らかな表情を浮かべる典型的な学者風な中年男性。
右端には、口元から顎まで覆う髭も禿げあがった髪もすべてが短い白髪で、丸い黒眼鏡のレンズ越に人の深層を見つめる解剖医のような鋭い目つきをした老人。
私は絵画を凝視し、記憶を探るが、思い当たる人物はいなかった。首を傾げながら、入り口扉前に私が突っ立っていると、螺旋階段の裏手から一人の男性が姿を現した。
細身の長身を黒い燕尾服に包み、黒髪を油で後ろに撫で付けた、どこか蝋人形のように生気のない顔立ちの男。
「いらっしゃいませ。お名前を頂戴しても宜しいでしょうか」
優雅な所作で軽い会釈と共にそう告げた男の胸には、『Conants』と書かれた小さなプレートがあった。私はそれを見つめ、喉を震わせた。
「Sの名前で、十九時に二名の予約はあるかね」
私の言葉に男は右こめかみを人差し指で軽く叩きつつ、一拍してから口を開いた。
「はい、確かに承っております。ご案内致しましょう」
そう抑揚のない返事をし、踵を返した男の背中を追って、私も螺旋階段の裏手に回る。眼前には、奥へまっすぐに続く長い廊下が続いていた。
歩廊に一歩踏み入ると、そこは巨大な肋骨のトンネルの中のようである。天井を通路に沿って走る一本の白い太い梁の左右から、僅かに湾曲した白く細い柱が幾つも突き出し、そこに設置された蝋燭の炎がその白さを微かに照らしていた。
しばらく歩を進めると、暗闇に目が慣れてきた。ふと左手に目をやると、壁の柱と柱の間にはガラス製のショーケースがある。
足を止め、中を覗きこむ。それは両枝が刃のナイフだった。続いて振り向くと、背後には、過剰にガラス玉で装飾が施された、牛の頭蓋骨が見えた。
道具とは用途に沿ってそのフォルムは決まる筈だ。いくらこれらの使い道を考えても、私には思いつかなかった。
更にその隣りには、体表に無数の乳房が配列された、手乗りサイズの女神像が安置されている。
思わず私は、前を行く男に声を掛けた。
「君、これは何だね」
「はい、当店のオーナーによるコレクションでございます。世界各地から選び抜いた逸品です」
「美術品と言うことだろうか」
男は人差し指を右こめかみに当てると、一拍子置いてから、返事した。
「そうとも、違うとも申せましょう。それはお客様がお決めになることです」
男の言葉を反芻するも、私の瞳には鈍い光を放つ刃の曲線だけが写る。
展示品を眺める私に構わず、男は歩き出した。それに気づいた私も急いで彼の後を追うと、広間に出た。
刺すような煌めきに、私は目を細め、右手で庇を作る。指先から垣間見えた光景は緩やかなアーチ状の鉄鋼とその先に広がる青空であった。
思わず視線を自分の左手首に移すが、腕時計の針は七時の数字を指している。腕に金属ベルトの冷たい感触は確かにある。私は部屋を見渡す。柱たる八本の鉄鋼が八角形の頂点の位置に配置され、部屋のかたちを成している。その鋼と鋼の間には巨大な板のガラスが嵌め込まれ、正面の扉と背後の廊下を除き、上下左右すべての空間を閉ざしていた。
視点を三百六十度巡らすと、展開されているのは高所から眺める景色にも似た、この街並みの縮図だった。先程私が通り過ぎたネオンの彩りも、曲がった角のパン屋の看板もすべてがガラス越しに私の眼下に収まっている。
もう一度、左手首の感触を思い出し、視線を男に向けると、男は扉の前で、ドアをノックしていた。
「失礼致します、御連れ様がご到着されました」
開かれた扉の先は少し薄暗かった。窓から差し込む光が部屋を仄かに照らしている。
私の眼下には、緩やかな傾斜が広がり、段々に長机が並ぶ。そして机の先には黒板と教卓がある。黒板に白墨で硬質な音を響かせる一人の男がいた。我が友人、S氏である。
S氏は何かを書いたかと思うと、それを消し、また思い出したかのようにチョークを走らせている。
私は呆けたように、S氏を見つめていると、私に気づいたS氏は手を止めて、私を見上げた。
S氏は、フロックコートに口髭を生やした姿で、柔らかな表情を浮かべている。私は階段を下りつつ、S氏に右手を挙げた。S氏は軽く頷くと、両手を叩き、白墨を払った。
私の傍に佇む男に促され、黒板前に教卓代わりに置かれた長テーブルに私とS氏は向い合い座る。卓上には白いナプキンと共に一枚の紙が置かれていることに気づいた。
『Menu Dégustation(コースメニュー)』
1.Amuse-bouche(小前菜)
• 一口サイズの野菜のタルトレット
2.Premier Entrée(冷前菜)
• ブルターニュ産オマール海老とアボカドのガトー仕立て
3.Deuxième Entrée(温前菜)
• 蝦夷鮑のソテー
4.Poisson(魚料理)
• 舌平目のムニエル
5.Viande(肉料理)
• 黒毛和牛フィレ肉のロースト
6.Grand Dessert(特製デザート)
• 黒トリュフとチョコレート仕立てのミルフィーユ
7.Café(カフェ)
• ハーブティー
私がメニュー表に気を取られていると、テーブル脇に立つ男が声を掛けてきた。
「お飲み物は如何致しますか」
一瞬、考えを巡らせたのち、私は返事した。
「シャンパンをいただこう」
「畏まりました。S様は、いつもの1913年産のARMAGNAC(アルマニャック)で宜しいでしょうか」
軽く頷くS氏を眺めつつ、私は口を開いた。
「飽きないのかね。もしかしたら、君はその酒以外を飲んだことがないのでは」
S氏はメニュー表を裏返すと、胸元から万年筆を取り出し、それを走らせた。
「君も飲んでみたら、分かるさ」
その文字に、私は吹き出しかけた。
「ごめんだね、そんなに強い酒。私なら一発で昇天してしまう」
私の言葉にS氏は吹き出した。声なく笑うS氏に、私は問う。
「喋れない訳でもないのに、相変わらず君は筆談を続けているんだね。君との付き合いは長いが、君の声が浮かばないよ。そのフロックコートを新調した日はよく覚えているんだがね」
その言葉にS氏は文字を書き起こす。
「そうかね。服は消耗品だからね」
急に背後から声がした。
「お話中、失礼致します。お待たせ致しました」
男が恭しく、シャンパングラスを差し出す。グラスの中では淡い黄金色の液体が小さな泡を立っていた。
「それでは久しぶりの再会を祝して、乾杯」
打ち鳴らされたグラスの微かな音が、だだっ広い部屋でシャンパンの気泡のように消えた。
S氏は軽く微笑を浮かべたまま、チューリップグラスを両手のひらで包み込んだ。数分も経たずに、グラスの中の琥珀色の液体から微かに香りが立ち昇りはじめる。その芳香はドライフルーツの乾きとも、腐りかけた果実の生々しさにも、どうとでも解釈できるように感じられた。
そんな取り止めのない会話をしているうちに、男はテーブルに皿を置いた。
「小前菜の一口サイズの野菜のタルトレットでございます」
円形の黒皿に配置されたタルトを、その上に置かれたロマネスコとフィドルヘッドが彩る。
私はナイフとフォークを握り、解体を始める。さっそく切り裂かれた緑の塊を口に含むと、繊維の感触だけが口腔内に広がった。その作業を二度ほど繰り返して、緑の残骸が残る皿をテーブル傍に退けた。
向かい合うS氏を見れば、手にしたフォークを眺めている。その先に絡まるフィドルヘッドは、枝を這う蔦のようだ。S氏は右手のナイフで器用に切断し、再度フォークで突き刺さすと、口に放り込んだ。咀嚼するS氏を観察しつつ、私はシャンパングラスを傾ける。あとに残るのは食道の粘膜に感じる、炭酸の刺激だった。
S氏がすべてを食べ終えたころ、男は姿を現した。
「冷前菜でございます。本日はブルターニュ産オマール海老とアボカドのガトー仕立てをご用意致しました」
差し出された浅皿には、並々とスープのように盛られた乳白色のクリームの中に、ゼラチンの一塊が沈んでいた。その塊は切り刻まれた海老とアボカドがゼラチンで固められ、層を成している。
私はナイフを入れ、スプーンで一口大に切り離したゼラチンを口に運んだ。ゼラチンもアボカドも一瞬のうちに舌の上で溶けて行く。オマール海老も、歯を噛み合わせるたびに、弾性の感覚が口の中に広がるだけだった。
S氏を見れば、S氏はスプーンでクリームを掬い、淡々と料理を食している。
顔を上げると、高い天井が見えた。それは白く覆われ、照明器具は一つも見当たらない。壁面の白壁に設けられた窓から差し込む自然光だけがこの部屋の明度を決定づけていた。
次に運ばれてきたのは、黒くざらついた質感の皿から湯気と共に溢れでる香気だった。磯の風味と大地の匂いが絡み合っている。その香りを漂わせる焼き目のついた鮑を目にして、私の舌先が湿りはじめた。
「今が旬の蝦夷鮑のソテーでございます。旬の味わいをご堪能下さい」
男の言葉を聞くや否や、私はフォークを鮑に突き刺した。皿の端の薄い緑色をした肝のソースを絡め、咀嚼を開始する。ほろ苦さを含んだソースはすぐに消え去った。何度も上歯と下歯を重ねるたびに、それに反発する感覚だけが顎に残る。嚥下するには大き過ぎる固い残留物を私はひたすら噛み続けた。
S氏が机を指で軽く二回ほど叩き、私に合図をした。見れば、裏紙に新しい文字が書かれている。
「どうだい、今日の料理は及第点かね」
「歯応えが凄く、随分と歯にくるね」
「そうかい。君は鮑のソテーが好物だからね。今日はシェフに無理を言って特別な物を用意させたんだ」
「それは嬉しいね。だが、もう顎が限界だよ」
肩をすくめた私に、S氏はニヤリと口角を上げた。
「実は、もう一品あるんだ」
そうS氏は文字を書き起こすと、指をパチンと鳴らし、側に立つ男に合図をした。男は頷き、部屋を後にする。
しばらくして、男は料理を運んできた。それは、先程の鮑のソテーと寸分違わぬ見た目だった。
「さぁ、食べてごらん」
S氏は右手を差し出し、私を促す。仕方なしに私は、蒸気と香りが立ち上る二品目の鮑にフォークを突き刺し、それを口にした。
先程と同様に、口腔内に弾性が走る。否、微かに歯応えが弱い気がする。それとも気のせいだろうか。私は口を動かしながら、判断に迷っていた。
戸惑う私をS氏は満足そうに眺めながら、グラスを傾けている。私がようやく細切れになった断片を嚥下すると、S氏がペンを動かした。
「どうだい、ひと皿目とふた皿目の違いはあるかね」
私は舌先に神経を集中し、二つのソテーの違いを考えるも、濃厚な肝ソースの味わいしか思い出せなかった。
「実はね、最近、質の悪い料理店では、南米のアッキガイ科のロコガイやスカシガイ科のラパス貝を、鮑と称して客に提供しているそうだよ。それでいて値段は鮑と同じ価格帯だそうだ」
そこで一旦、S氏は筆を置くと、私にウィンクをした。
「ちょっとした悪戯さ。君と久しぶりに会えたのが嬉しくてね」
そう語るS氏は笑みが絶えない。私は釣られて口角を上げると、シャンパンを飲み干した。喉を通過する炭酸の刺激はもうほとんどなくなっていた。
給仕の男が口を開いた。
「次はドーバー海峡産の舌平目のムニエルでございます。その前にお客様、お飲み物は如何でしょうか。白ワインをお勧め致します」
「そうだね、お勧めをグラスでいただこうか。一人でボトルを開けるのは荷が重い」
その台詞にS氏は自分のグラスを男に向けた。
「畏まりました。S様にはお代わりをお持ち致します」
そう言い残して、男は消えた。
「舌平目は期待が出来そうだね。今の時期、身は厚く、脂ものっている最高のタイミングじゃないか」
思わず頬が緩み、S氏に笑顔を向けると、S氏は虚空を見つめ難しい顔をしている。
「うん、何か考えごとかい」
「何となく今日は舌平目の気分じゃないだけさ」と書かれたS氏の文章に目を通していると、男の足音が部屋に響いた。
「お待たせ致しました」
男は皿とグラスを持ってきた。白皿に乗った舌平目ムニエルとワイングラスである。
私は早速、白ワインを口に含むと、微かに口に痺れを感じ、吐息に熱とアルコールが滲む。S氏は追加で注文したアルマニャックを顔色を変えずに飲んでいる。
「では、いただくとしよう」
私は舌平目にナイフで切り分け、フォークで切り身をいただく。まずは焦げたバターの味わいだった。次にレモンの酸味が押し寄せる。私は忙しなくナイフとフォークを動かし、気づけばあっと言う間に皿は空になっていた。
グラスを傾け、一口、二口とワインは喉を流れていく。口腔内の雑味が失せるが、代わりに立ち上がったのは喉の圧迫感だった。
はじめて覚える息苦しさに、私は声にならない叫び声をあげた。震える指先でグラスを掴み、乱暴にワインを流し込む。嚥下するたびに、私の中で何かが消えゆくのが分かった。それは私の妻の名前であったり、妻のポークソテーの味だったり、妻の好きなカサブランカの香りだったりした。
机に突っ伏した状態で顔を上げると、S氏が私を見ていた。S氏は凝視する。私を診察対象のように。私が吐き出す息が、更なるアルコール臭を帯びていた。
「黒毛和牛フィレ肉のローストでございます」
次の料理が何ごともなかったかのように卓上に置かれていた。黒皿の厚く切られた牛肉は、その中心に生々しい生の色を残している。
S氏が文字を書き起こし、私に提示した。
「私の知人に闘牛士がいたんだが、ある日、彼は闘牛に貫かれ死んだ」
私がこの一文を読み上げる間もなく、おもむろにS氏はフォークとナイフを床に放り投げた。それは床にぶつかり、乾いた金属音が部屋に反響した。
残響が消えるやいなや、S氏は皿の上の牛肉を手で掴むと、いきなり塊に齧りついた。犬歯が肉の繊維を引きちぎり、赤黒いソースがテーブルの上に滴る。それは点のような染みとなり白いテーブルクロスに広がってゆくが、それに構わずS氏は肉片を頬張り続ける。
私の眼球にはS氏の挙動が写り続ける。私はグラスに手を伸ばし、シャブリを飲み込んだが、食道を通る液体の冷たさだけが、このS氏との会食が現実だと告げている。
S氏は肉をすべて平らげた。そのまま純白のテーブル掛けの端で汚れた手を拭い、紙に筆を走らせる。そこに書かれていたのは「続ける」の文字だった。
男は私の前に、デザート用のフォークとスプーンを添えて、和牛の黒皿と入れ替わりに白皿を置いた。それは一面が茶色だった。皿全体に黒い粉末が積み重なっている。その盛り上がりは百科事典の背表紙よりも厚みがあった。
続けて男はS氏にも皿を配置したが、S氏のカトラリーの代わりに置かれたのは六角の木箸だった。
「黒トリュフとチョコレート仕立てのミルフィーユでございます」
男は一礼をし、その場を後にした。男の革靴が硬い床に擦れる音が徐々に小さくなっていく。その足音が完全に消えてから、私は小振りのナイフを掴んだ。黒茶の堆積物に銀色の刃先をゆっくりと沈めると、ナイフを通じて私の指先に軟泥に足先がじんわりと沈む感触が伝わる。
刃の半分を沈下させたとき、その塊が抵抗を示す。更に力を込めると、呆気なく刃が層を貫いた。その瞬間、冬の小枝を踏みしめたときの乾いた破砕音と、焙煎されたカカオ豆の香ばしさが溢れ出た。
それは分厚い本の断面に似ていた。断面から溢れ落ちた大量のココアパウダーが、本が開かれることなく長年山積した埃のようにも、紙面から滲み出たインクの染みのようにも見える。
その断面に私はフォークを乱暴に突き刺す。それは本のページを無造作に引きちぎる感覚を想起させた。切り取られた断層に前歯を立てると、パイ生地の欠片とパウダーが皿の上に散らかる。舌先に甘味と苦味が交互に押し寄せ、最後にペースト状の咀嚼物を飲み込むと、最後に残ったのは微かな濡れた土の香りがするトリュフの渋味だった。
「うん、これはペリゴール産のメラノスポーラム種だろうか。君はどう思う」
私の言葉にS氏は肯定とも否定とも取れる笑みを浮かべている。S氏は万年筆の代わりにゆっくりと箸を動かし、クリームを掬うと口に運んだ。その動作は、まるで飼い猫を愛撫するかのように、箸先でデザートを優しく撫でているかの所作だった。
私がもう一口ミルフィーユを頬張ると、今度は乾いたパイの破片が食道に張りつく感覚がした。唾液を嚥下しようとするが、口腔内は乾いたままである。むせ返り、咳を繰り返すが喉の違和感は治らない。
S氏は親指と人差し指で丸い円を作り出すと、その穴から私を眺めた。続いてS氏は立ち上がると、真横の黒板に文字を書き出した。
「だいじょうぶかね」
「多分」
声が出せない私は、仕方なくS氏の文章の後にチョークを走らせ、短く返事を返す。白墨は速度を増して文字を産んだ。
「そうか」
「平気」
「ところで、次会うのはいつにしようか」
「いつでもよい」
「来年、君の地元へ所用で行く予定がある。そのときはどうだろうか」
「結構だとも」
その最後の文字に、どちらが先ともなく笑みが零れた。
「お待たせ致しました。ハーブティーでございます」
男が白磁のカップを持ってきた。カップの薄い琥珀色の液体からは若草を思わせる匂いと湯気が立っている。
二人とも黒板を向いたまま、お茶を口に含むと喉を流れる感覚がする。更にカップを傾け、お茶を流し込んだ。
目に映る黒板の文字は、無数のミミズがのたくったような白い線に見える。
そのまま店を出ると、外は寒さを増していた。
(了)
S 富士子ふみよ @hayas7uv
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