マグノリアの秘めごと
久遠ユウ
第1話
「観念しな、
十畳の支度部屋に
彼女の足元で肩をすくめ、正座していた
芸者の支度部屋は男子禁制。なのに、瑠生はここにいる。
「……だって」
「だってもへったくれもないっ──って。あー、気持ちいい。一度言ってみたかったのよ、『腹くくりなっ』って」
「もー、何だよ、芝居だったのかよ」
拍子抜けした瑠生は正座を崩し、なーんだ、と全身を脱力させた。
「もう、梅ったら。瑠生坊がビビってたでしょ。まだ、おぼこい中学生なんだから」
「あんた今のでビビったの? 肝っ玉が小さい男ねぇ」
カラカラと笑う梅ちえに対し、おっとり口調の
さすが、ふく
上目遣いで甘えようとした瑠生の前に、里菊が割り込んできた。「ちょっとどいて」と体を押し除けて、着物の袂を捲って立つ。
「梅、こうよ。『観念しなっ!』って、こんな風に腰をかがめてドスを効かせて言わなくっちゃ。そしたら瑠生坊の泣き顔が見れたのにぃ」
聞いたことのない野太い声に目を丸くしていると、梅ちえが任侠さながらに同じセリフを繰り返している。
「ちょ、ちょっと姐さんたち。自分たちが売れっ子芸者だって自覚あるの? それにこの向島は昔から続く
「でた! 瑠生の、花街論。もう聞き飽きたわ」
「だって、梅ちえ姐さんが任侠映画みたいなこと言うからだろ」
「はいはい。もういい加減にしなさいね、二人とも。でも瑠生坊、そろそろ何か食べて準備しないと、お母さんに怒られるわよ」
里菊が口にした『お母さん』の言葉に、瑠生の背筋がピンっと伸びた。
そして頭に浮かぶのは、老舗置屋ふく里の主人・
──瑠生。あんた、座敷に出てくれないか。
そうだ。俺は今晩、お座敷に出るんだ。男の俺が半玉になって……
あー。今すぐ逃げ出したい。でも、お母さんを助けたいしな。
だから少しでも役に立ちたい。そう思って引き受けたけど──
でも、さすがに半玉になるのはなぁ……
ため息を吐きながら用意された振袖を見つめていると、目の前にヌッと梅ちえの顔が現れた。
「うわっ! 急に何だよ。び、びっくりするだろ」
「……あんた、もしかして逃げようっていうんじゃないだろうね」
梅ちえのひと言で、心臓が跳ね上がった。
「そ、そんなこと考えてないっ」
嘘です。考えてました……
そんな心の声が梅ちえに聞こえたのか、風神雷神の如く瑠生を見下ろしてくる。
「あたしを誤魔化せないよ。何たって、あんたには逃走した前科があるんだからさ」
「と、逃走なんてしてな──」
いや、一度だけした……
小六の春、桔梗に引き取られてふく里で暮らし始めたばかりのころ、一度だけ。
「その顔は思い出したみたいだね、学校から逃げたの」
梅ちえがしたり顔で言う。
「逃げたんじゃない。あれはサボった、だけだ……ちょっと横浜に戻ろうと思っただけで」
本当は梅ちえの言う通り、逃げたんだ。同級生に置屋で暮らしてることをからかわれて。
お前も着物着て踊ってみろとか、男女とか化粧臭いとか、何度も言われてムカついた。
「梅、転校生はアンニュイになっちゃうのよ。だから逃げたくなっても仕方ないわ」
里菊のフォローがありがたい。けど、アンニュイってなんだ?
「瑠生。あんた、あたしら芸者のことで、そのとき何か言われてたんだろ」
瑠生の頭の中を見透かすように、梅ちえが片眉をクイっと上げた。
「ち、違う。学校サボったのは、母さんのお墓に行こうとしただけで、芸者とか関係ない」
本当の理由なんて、姐さんたちに言えるわけがない。
毎日お稽古してお座敷に出て、夜遅くまで働いてる彼女たちをバカにされたなんて、絶対聞かせたくない。
「……まあ、そういうことにしとくよ。けどね、あんたはふく里の子なんだ。お母さんに手をひかれてここに来たときからね」
「そうそう。瑠生坊は私たちの可愛い弟だもの。だからもし、いじめっ子がいたらちゃんと言ってよ。私が懲らしめてあげるから」
ニコッと笑っているのに、里菊の目はスナイパーみたいに据わってる。
瑠生は心の中で誓った。──里菊を怒らせないようにしよう、と。
「でも、中学生になって面白い友達できたよね。背の高い、イケメン予備軍みたいな」
いい男探しの範囲、中学生にまで広げたのか?
……そうツッコみたかったけど、たぶん重い空気を変えてくれたんだ。
梅ちえ姐さんのこういうところ、見習いたいよな。
「あ、一度ここに来たあの子ね。私が出迎えたら、置屋ってなに屋さん? って聞いてきたのよ。だから芸者を育てる場所で、芸能界でいうプロダクションみたいなとこよ、って教えてあげたの」
可愛い子だったわね、と里菊が思い出し笑いしている。
「だからか。前に
「デ、デビュー曲って。その、昇真って子。
梅ちえが、イシシ笑いをしながら悪だくみを言う。
「でも、瑠生坊。もう黙って出かけちゃだめよ。あなたが学校に行ってないって聞いたときのお母さん、顔が真っ青だったんだから」
里菊の言葉が胸に染みた。
あの日、瑠生は暗くなるまで隅田公園にいた。
川沿いから横浜の方角にある、オフィスビルやマンションの明かりが水面に反射しているのを……ずっと見ていた。
「うん、わかってる。お母さんが俺を見つけてくれたとき、絶対怒られるかと思ったんだ。でも、黙って頭を撫でてくれた」
だからもう心配はかけたくない。
現役芸者に負けない芸事ができても、お母さんはもう七十四だ。
ピリッと辛い七味みたいな性格だけど、無理はしてほしくない。
俺にできることなら、何だってしたい。
でも──芸者が足りないからって、男の俺が役に立つのか? それに、お客の前で踊るなんて、想像しただけで緊張する。
男が女性のように着飾ってお座敷に上がる──花柳界でこんなことは前代未聞だ。
美しい芸者たちが優美に客をもてなし、夢のようなひと時を提供する。
そんなの、俺にできるのか……
「……こんなの絶対にバレる。だって俺、もう中二だし」
同情してほしくてわざと沈んだ声を出したけれど、姐さんたちのひと言であっさり上書きされた。
「バレないわよ。瑠生坊はとーっても可愛いもの」
「ほんとよ。あんた、自分の顔、ちゃんと鏡で見たことないの? 艶々で色白の肌してるし、大きな黒い瞳にはエクステみたいな睫毛ついてるんだもん。分けて欲しいくらいだわ。さすが、
拝むように手を合わせ、天井を見上げて陶酔している梅ちえにげんなりする。
「その言葉、聞き飽きた」と言って、瑠生は浴衣の裾を手で整えながら立ち上がった。
「ばあちゃんのことを褒めてくれるのは嬉しいけど、俺は男なんだぞ。可愛いばっか言うな。それと、『坊』ってつけるのも禁止」
「何言ってんの。あんたはあの、伝説の蘭子さんの孫なのよ。いわゆる、サラブレッド。おぼっちゃまなのよ、敬意を示さないと」
少し釣り上がった猫目で梅ちえが微笑んでくる。
この魔性の笑みがたまらないんだと、梅ちえをお座敷に呼んでくる常連は多い。
「それもあるけど、私たちは瑠生坊のことが可愛いのよ。坊って赤ん坊とか、小さい男の子に向ける愛称だし」
ほんわかした雰囲気で、垂れ目を優しく細める里菊に毒気を抜かれた。
この二人には敵わない。出会った初日でそれを思い知らされたんだった。
母を失った悲しみを抱えてふく里に来た瑠生を、この二人の姐さんは、初対面なのにいきなり抱きついてきたのだ。
可愛いだの、食べちゃいたいだのと頬を突かれたり、髪の毛をくしゃくしゃにされたり。
けれどそんな二人のお陰で、瑠生はこの置屋に溶け込むことができたのだ。
ふく里には梅ちえや里菊を含めて、四人の芸者がいる。
全員一年前までここで生活していたけれど、
「あーあ、瑠生坊に叱られたからお腹減ったわ。お座敷上がる前に軽く食べよーっと」
「どんな言い訳だよ、梅ちえ姐さんの食いしん坊」
「あー、言ったね。せっかく、たけだ屋の女将さんから幸福堂のあんパンをもらったのにな」
梅ちえが紙袋を取り出した。どうだと言わんばかりに見せつけられたソレは、絶対に美味いってわかる、いい匂いがしていた。
「姐さん、ごめん。今日もきれいだね」
必死で褒め称えると、まんざらでもないのか、猫目を弧にしてニヤついている。
「姐さんのお客は一年先までお座敷を予約しちゃうな」
畳みかけるように褒めちぎると、梅ちえが、ふふんと鼻を鳴らした。
よしっ、もう一押しだ。
ふと、鏡台の前に置かれた雑誌が目に入った。
あれ、梅ちえ姐さんお気に入りの雑誌だ。いつも男前はいないかって探してるやつ。
瑠生は雑誌を手にすると、表紙を梅ちえに向けて見せた。
「梅ちえ姐さん。この雑誌、今月号でしょ? カッコいい人が表紙だね」
梅ちえがチラッと瑠生を見る。次に雑誌へと目線が下がった。
「あら、瑠生坊もイケメンに興味あるの?」
なぜか里菊が嬉しそうに聞いてくる。
「べ、別に。俺は梅ちえ姐さんの『いい男探し』に協力しようと思って」
里菊の言葉に思わず怯んだ。瑠生が密かに隠していることを悟られた気がした。
「もう、しょうがないなぁ。それよこしな、瑠生坊」
梅ちえに雑誌を渡すと、目を皿にしてページをめくっている。その様子を眺めていると、不意に彼女の手が止まった。
「見て、瑠生坊っ。この人、めちゃくちゃイケメンでしょ」
見開かれたページを見ると、金色の文字で『若き社長、経済界の新星』とある。
「あら、いい男。私、このページ見てなかったわ」
横から覗き込んだ里菊が、でも、タイプじゃないわね、と呟く。
「私と里は好みが違うのよ。ほら、見てごらんよ。二十六で会社をいくつも買ってるんだって。しかも、この顔。ねぇ、瑠生坊、カッコいいでしょ」
梅ちえが向きを変えて、光沢のある誌面をぐいぐい差し出してくる。
「えっと、なになに。『M&A業界を変える若き社長──
瑠生が読み上げたコメントの横には、グレーのスーツを纏った男性が写っていた。
浅く笑う唇。切れ長の目元に光が射し、どこか挑むような視線。センターで分けた前髪のウェーブが、男性なのに色っぽいと思った。
「この見た目に社長よ。それにこの涼しい目元がたまらないのよ」
「ほんと。こういう人がお座敷に来てくれたら、張り切っちゃうわね」
「へぇ……」
瑠生は『若き社長』を眺めながら、眉をひそめた。
「どうしたのよ、瑠生坊。そんな難しい顔して」
「あ、うん。俺、この人のこと、どこかで見たことがあるような気がしてさ」
瑠生の言葉に、梅ちえと里菊が顔を見合わせた。
「ほんとに! どこで、瑠生坊」
「えっと、一ヶ月くらい前かな。お稽古の帰りにお茶屋の
「え、千代さんが! どこで? 怪我は!?」
姐さん二人が声を揃えて聞いてきた。
「ほら、千代ばあちゃんの店の手前にある細い路地だよ。あそこから車が出てきて、驚いたばあちゃんが倒れそうになったんだ」
「倒れそうって、大丈夫だったの?」
「それは大丈夫。俺が後ろから支えたから」
「さすが、瑠生坊! ふく里の子どもだけあるわ」
「ほんと、ほんと。偉いわぁ、瑠生坊」
里菊が頭を撫でてくる。彼女はいつまでも瑠生を小学生のように扱う。
「あそこの路地、たまに迷子になった車が出てくるから危ないんだよな。だから俺、運転手の人に言ってやったんだ、危ないだろって。運転してた男の人、びっくりしてたな」
得意気に話していると、梅ちえが雑誌の見開きを見せてきた。
「で、その運転手がこの雑誌の人なの?」
「うん。似てたっぽい。あ、でも人違いかも。車に乗ってたからよく見えなかったし」
歯切れの悪い言い方すると、梅ちえが若き社長を指さした。
「この男前はそんなことしないわよ。それに社長だよ? お抱え運転手くらいいるわよ」
男前はしない──なんて、説得力のない理由だ。
「顔は関係ないだろ。とにかく、似てたのっ。その人かどうかはわかんないけど」
「張り合いがないね、瑠生坊は。もう中二なんだから、気を効かして名刺の一枚くらいもらってよ。私のためにさ」
「やだよ。梅ちえ姐さんの趣味に巻き込まれるのは。それに、その、M&Aって意味もわかんない俺に会話なんて出来っこないだろ」
雑誌をぱたんと閉じながら言った。
「ったく。お子ちゃまだね、瑠生坊は。子どものあんたには、あんぱんがお似合いだわ。その代わり、お母さんのお願い事をしっかり全うしてよ。男に二言はないからね」
あんパンに気を取られていた瑠生は一瞬、固まった
「そうそう。瑠生坊にはこのふく里を背負って頑張ってもらわないとね」
うふふと、呑気な里菊が片エクボを作って笑っている。
くっそー、やっぱ、やるなんて言うんじゃなかった……。
深いため息を漏らしたけど覚悟はあった。桔梗に手を繋がれたあの日から、ずっと。
母の訃報は、ホテルで働いていた彼女の同僚が知らせてくれた。
瑠生は悲しむ暇も与えられず、式場の片隅で親戚たちの言葉を聞いていた。
厄介な存在として瑠生を押し付け合う声を。
そして誰かが言った、施設に預ければいい——と。それでいいと、瑠生も思った。
——瑠生、忘れないで。問題は家族の数じゃないの。どれだけ深く相手のことを思っているかよ。私たちは二人でも、誰にも負けないほど深く思い合ってるから──
母からもらった言葉があれば生きていける。そう思ったとき──
『瑠生は私が育てる。誰にも文句は言わせないよっ』
刀を真っ直ぐ振り下ろしたような凛とした声が、瑠生の耳に飛び込んできた。
半泣きで見上げると、親戚たちを射抜くような目をした女性が、瑠生を守るように立っていた。
それが桔梗だった。
彼女は祖母の親友でライバルだった。そんな桔梗は、お酒が入るとよく祖母の話をしてくれた。
──蘭子はね、花柳界きっての芸者だったんだ。凛とした立ち居振る舞いに、客はみんな見惚れるんだ。神楽坂に蘭子あり、ってね。それに孫自慢も尽きなかったね。
桔梗はよく祖母から瑠生のことを聞いていたそうだ。
母親に似てべっぴんで気立のいい性格が自慢の孫なんだ、と。桔梗はそれを繰り返し聞かされ、溜まったもんじゃなかったよ、と笑いながら瑠生に何度も愚痴っていた。
男なのにべっぴんと言われても嬉しくないけど、母親似と言われたら誇らしい。
女ばかりの置屋に男の瑠生が一人。そこで毎日楽しく過ごすことができるのは、桔梗のおかげだった。
だから俺は、つい、やるって言っちゃったんだ。無謀なことを……
後悔しても遅いよ、とでも言うように、あんパンを頬張る梅ちえがちらりと視線を向けてくる。
わかってるよ、と答える代わりに瑠生は小さく頷いた。
スッとあんパンを差し出され、それを無言で受け取る。再放送で見た、お金で恨みを晴らしてくれる古いドラマの仕置人みたいに、瑠生は覚悟を決めてあんパンをかじった。
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