#3 白き命はあなたに捧ぐ
たかが、かすり傷 - (橘圭一 視点)
空は、どこまでも青かった。橘圭一はその突き抜けるような青空を見上げ、深く、深ーくため息をついた。ここは警視庁の管轄下にある、郊外の広大な総合訓練施設。普段は若手警察官や機動隊員たちが汗と泥にまみれて訓練に励む、熱気と土埃に満ちた場所だ。
もちろん、橘が好んで来るような場所ではない。彼が今ここにいるのは、ひとえに彼の愛すべき(とんでもない)部下たちの定例訓練に、監督として立ち会う義務があるからだった。
先日の食堂事件(通称:唐揚げウォール事件)の始末書と壁の修繕費用の請求書で、彼の精神は既に限界まで削られている。
「なんで俺が、こんな泥臭い場所に……」
橘は、誰にも聞こえないように毒づいた。隊長室の椅子に座って高級なコーヒーを飲んでネットサーフィンをしている方が、よほど建設的で彼の性分に合っている。
しかしそんな本音は、おくびにも出せない。彼は双眼鏡を構え、フィールドで繰り広げられる「訓練」という名の破壊活動を眺めながら、完璧な上司の顔を貼り付けていた。
「うん。皆、頑張っているね。動きに無駄がない。素晴らしい」
その声は穏やかで、自信に満ちている。最も内心では、目の前の光景にドン引きしていたが。
訓練内容は『武装テロリスト集団が潜伏する市街地を模したフィールドでの制圧訓練』という、よくある設定のものだ。
しかし、特四が参加すると、その様相は一変する。
まず、フィールドの端にある時計塔の上から閃光が走った。コンマ数秒後、遥か数百メートル先のテロリスト役の的——ターゲット人形——の眉間に、綺麗に穴が開く。黒澤麗奈の狙撃だ。
(あいつ、なんであんな場所にいるんだ…? 開始前、確かに俺の隣にいたはずなのに…分身でもしてるのか? 流石にそれは…ないよな??)
次に赤城陽菜。テロリストが築いたという設定の分厚いコンクリート製バリケードを、雄叫びと共に素手で粉砕していた。バリケードの破片が、ミサイルのように四方八方へ飛び散っている。
(これは、訓練ではない。怪獣映画の撮影現場だ。俺は、いつから特撮映画の監督になったのだろう? …ハァ〜!! もうやだ…っ、この怪獣娘…!! 帰ったらまた始末書か!)
そして、白石雪乃は──フィールドの端、木陰になった場所に置かれた椅子にちょこんと座っていた。彼女は戦闘には直接参加せず、膝の上に置いたノートパソコンのキーボードを静かに叩いている。
その姿は、まるでピクニックに来た文学少女のようだった。
少し大きめのブレザーを萌え袖気味に着こなし、淡い水色のネクタイが、彼女のプラチナブロンドの髪とよく合っている。そして椅子に座っていることで普段よりも大胆に覗く、白いニーハイソックスとミニスカートの間の「絶対領域」。その清純さと蠱惑的な魅力が同居した光景は、この殺伐とした訓練施設の中で、唯一の清涼剤と言えた。
(雪乃だけだな、俺の癒しは…。まあ、あいつがカタカタやってるせいで、敵の通信網が混乱したり、罠が誤作動したりしてるんだろうけど…)
橘はそんな地獄絵図から少し離れた、安全な後方指揮エリアに陣取っていた。手元のタブレットには各所のカメラ映像や、部下たちのバイタルデータが表示されている。もちろん、彼はそんなものを真面目に見ているわけではない。ただ、指揮官として仕事をしているフリをしているだけだ。
(早く終わらないかな…この土埃で、お気に入りの革靴が汚れちまう)
そんな極めて俗なことを考えていた、その時だった。
「た、隊長! 本庁からの伝達です!」
後方から一人の若い連絡員の男が、息を切らしながら駆け寄ってきた。手には、通信文書を挟んだバインダーを抱えている。橘は「ご苦労」と、優雅に振り返った。
その時だった。連絡員の足が、地面に転がっていたケーブルに絡まったのだ。
「うわっ!?」
盛大にバランスを崩し、そのまま橘の背中にタックルするような形で突っ込んできた。
「おわっ!?」
橘もまた予期せぬ衝撃に、無様に体勢を崩した。日頃の運動不足がたたり、踏ん張ることすら出来ない。彼の華奢な体はまるでボールのように、地面に向かって転がっていった。
ゴロゴロ。
泥と草の匂いが、鼻を突く。数秒後、橘は地面に大の字になっていた。嗚呼、空は相変わらず青いなと、呑気なことを考えていた。
「た、隊長! も、申し訳ありません!」
連絡員が、顔面蒼白になって駆け寄ってくる。橘は、ゆっくりと体を起こした。幸い受け身がうまくいったのか、どこも痛くはない。ただ、仕立ての良い制服が泥だらけになってしまった。
(最悪だ…クリーニング代、こいつに請求してやろうか…)
そんなことを考えながら、右腕にチクリとした小さな痛みを感じた。見れば制服の袖が、5センチほど鉤裂きに破れている。どうやら転んだ際に地面に落ちていた手頃な木の枝で、腕を引っ掻いてしまったらしい。
「いって…ッ」
袖をまくると、白い腕に一本の赤い線が走っていた。血がじわりと、玉のように滲み出ている。まあ、消毒液でも塗っておけば治るだろう。子供の喧嘩で出来るような、取るに足らないかすり傷だ。橘はそう判断し「大丈夫だ、気にするな」と寛大な上司を演じようと、口を開きかけた。
その瞬間だった。
ピタリ、と。
フィールド全体の空気が、凍りついた。今まで聞こえていた銃声も、爆音も怒号も、全てが止んだ。まるで映画のフィルムが、突然静止したかのように。橘はその静寂の意味を、痛いほど理解していた。
(……ヤバい)
彼の脳内で、最大級の警報。レベルDANGERの警告灯が、激しく点滅を始めた。
(見られた…!? 絶対に、見られた!!)
ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼は顔を上げた。視線の先、木陰の椅子に座っていたはずの白石雪乃の姿があった。いつの間にか立ち上がっていた彼女は、こちらをじっと見つめていた。
その色素の薄い人形のように美しい顔から、全ての表情が抜け落ちていた。血の気が引き、陶器のように真っ白になったその顔は、まるで能面のようだ。世界の終わりでも目撃したかのような、絶望の色だけをその瞳に宿して。
「あ…」
雪乃の、か細い唇が震えた。
「あ…あ…あ…」
次の瞬間、彼女は弾かれたように橘の元へと駆け寄ってきた。その動きは幽霊のように滑らかで音もなく、だからこそ異常に恐ろしかった。
「隊長…!」
橘の目の前で、雪乃は膝から崩れ落ちた。そして、わなわなと震える指で橘の腕の、その小さなかすり傷を指し示した。
「お、お体に…傷が…っ」
その声は、ひび割れたガラス細工のようだ。か細く、今にも砕け散ってしまいそうだった。
「私が…私が、至らないばかりに…! 隊長を、お守りすることが、できなかった…!」
その瞳から大粒の涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちる。橘は、背筋が凍るのを感じた。
(いやいやいや! お前のせいじゃねえから! こいつのせいだから!)
彼は、隣でオロオロしている連絡員を指さしたかった。だがそんなことをすれば、この男がどうなるかなんて想像に難くない。おそらく雪乃が自作した特殊な毒物で、全身の細胞を内側から溶かされるだろう。毒をクラフト出来るのを知ったのは、つい最近である。忘れたい記憶だ。
「だ、大丈夫だ、雪乃! これは、大したことない! ただの、かすり傷だから!」
橘は、必死で彼女をなだめようとした。しかし彼の言葉は、絶望の淵にいる彼女の耳には届いていなかった。雪乃はふらりと立ち上がると、虚ろな目で天を仰いだ。そして、呟いた。その声は冬の夜風のように、冷たく静かだった。
「この罪は…私の命でしか、償えません」
その言葉を聞いた瞬間、橘の思考は、完全に停止した。
(……は?)
聞き間違いか? いや、そんなはずはない。雪乃はゆっくりと、本当にゆっくりと腰のホルスターに手を伸ばした。その指が愛用の拳銃『SIG SAUER P226』の、冷たいグリップに触れる。
橘の脳が、ようやく再起動した。
(待て待て待て待て待て! 早まるな! おい、マジか! マジでやる気かこいつ!?)
血の気が、サーッと引いていくのが分かった。顔面蒼白とは、まさにこのことだろう。雪乃は流れるような、しかしどこか儀式めいた厳かな動作で、拳銃をホルスターから引き抜いた。そして、その冷たい銃口を迷いなく自身の白く透き通るようなこめかみに、ぴたりと突きつけた。
「さようなら、隊長」
雪乃は橘の方を振り返り、ふわりと儚く微笑んだ。それはまるで、これから天国へと旅立つ聖女のような微笑みだった。
「来世でまた、お会いできますように…」
彼女の白魚のような指が、ゆっくりと引き金にかかっていく。
「やめろおおおおおおっ!!!!」
橘は生まれてこの方、出したことのないような大声で絶叫した。彼は文字通り、雪乃に飛びついていた。理屈ではない。本能が、そう叫んでいた。
(ここで部下に自殺されたら、俺の経歴に、一生消えない傷がつく! 出世街道から、永久にサヨナラだ! 俺のバラ色の人生が、終わっちまう!)
その極めて自己中心的でクズな理由が、彼の潜在能力を最大限に引き出した。彼は雪乃の手から拳銃をひったくると、それを力の限り遠くへ放り投げた。そして震える彼女の体を、力いっぱい抱きしめた。
「馬鹿なことを言うな! 死んで詫びるなど、僕が許さないぞ!」
何事かと訓練を中断した他の隊員や、教官たちが駆け寄ってくる。その多くの視線が突き刺さる中、橘は必死の形相で叫び続けた。
「君の命より大切な任務なんてないんだ! 君がいなくなったら、僕は…僕は…っ、どうすればいいんだ!」
それは、心の底からの叫びだった。
(お前がいなくなったら、俺の監督不行き届きが問われて、減給じゃ済まなくなるだろうが! どうしてくれるんだ!? )
という、本音の叫びだった。だがその悲痛な叫びは、雪乃には全く違う意味で届いているようだった。
橘の腕の中で彼女はただ、静かに涙を流し続けていた。そのか弱く美しい美女の姿は事情を知らない者が見れば、感動的な一場面にしか見えなかっただろう。
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